第三話 六本木
都営大江戸線、六本木駅。聡恵とユーコーは七番出口から地上に出た。
聡恵は六本木に来るのは初めてだった。出口には東京ミッドタウンが隣接しているが、ほとんどのショップはもう営業時間を終了しており、人通りは少なかった。週末の夜だし、『パリピ』と称される人たちが路上で盛り上がっているのを聡恵は想像していたのだが、なんだか拍子抜けだった。
東京ミッドタウンを横目に、聡恵たちは六本木交差点と逆方面に向かった。最初の交差点を左へ折れると、両脇に街路樹のある通りに差し掛かった。通りの手前には、直進すれば国立新美術館に到着することを示す案内板が出ている。聡恵とユーコーはその通りに入ってまっすぐ進んだ。
やがて、曲がりくねったガラス張りの壁をもつ建造物が正面に見える三叉路にぶつかった。とっくに閉館時刻を迎えているので、美術館の出入口の門は閉じられており、ひっそりと静まり返っていた。
聡恵たちが目指すのは、そこから左に折れて少しいったところに立つマンションだった。三年前に建てられ、主に単身者向けに分譲されたらしい。
マンションの敷地の周囲には、幹の細い木が等間隔に植えられており、それらの木々が暖色系の光でライトアップされていて洒落た雰囲気を醸し出していた。マンションの壁面は黒とホワイトグレーが織り交ぜられた配色で、シックで高級感のある外観になっている。これなら美術館付近に位置するに恥じないデザインだろう。
聡恵とユーコーは木肌の縦格子で囲われたアプローチを進み、自動ドアをくぐった。
そこは小ぶりなラウンジになっていた。右手の壁際にベージュの革張りのソファが二脚置かれている。正面にはオートロックのガラスドアが立ちはだかっていた。
ユーコーがオートロックパネルのボタンを押して、訪問先の部屋を呼び出す。しかし、何度やってみても応答はなかった。
「――ちょっと待ってみよう」
言って、ユーコーはソファに身を預けた。
聡恵はその隣に腰かけた。「待てば出てくれるかな?」
「さあ、どうかな」
ユーコーは不敵な笑みを向けてきた。こんな時だというのに、ずいぶんと余裕があるように見えた。ユーコーは緊張したりしないのだろうか。
それからしばらく、無音のときを過ごした。防音に優れているのか、外を走る車の音も聞こえてこない。馴れない場所だし、こうもしんとしていると不安が募ってくる。ソファの座り心地は抜群なのだが、あまり長居したくなかった。
すると、ふいに入り口のほうから足音がして、自動ドアが開いた。
姿を現したのは、首元が広くあいたシャツにジーンズと、ラフな格好をした男だった。顔を見たところ四十は過ぎていそうだが、若者のように長くした髪を明るく染めていた。サラリーマンの風体には見えない。なんとなくだが、クリエイティブ系の仕事をしているような感じだった。
男はこちらを一瞥して通り過ぎ、オートロックパネルにカードをかざした。すると、ガラスのドアが左右に開いた。
ユーコーはそれを見るや、「行くよ」と言ってさっと腰をあげた。そして、中へ入る男に続いて堂々とオートロックをくぐっていった。
聡恵は唖然とするとともに、追随していいものかとためらった。だがそれも一瞬のことだった。置いていかれるわけにはいかない――その気持ちが勝り、聡恵はドアが閉まる前に急いで通過した。
オートロックの向こう側は、すぐ左手がエレベーターホールになっていた。聡恵たちはクリエーター風の男の背後について、エレベーターが降りてくるのを待った。
すると、男が不審そうな顔でこちらをじろりと見てきた。聡恵は反射的に俯いた。
「いやあ、助かりました」ユーコーが声をかけた。「友達と約束してたんですけど、呼び出してもなかなか出てくれなくて。寝てんのかなあ」
ユーコーが陽気に言うと、男はしかめ面のまま顔をそむけた。
そして、気まずい雰囲気のまま一緒にエレベーターに乗り込んだ。だが幸いなことに、男は三階ですぐに降りていった。
聡恵たちが向かうのは、最上階の十四階。このマンションで最も価値が高いと思われるフロアだ。六本木という立地からしても、庶民に手が届くものではない。
十四階に到着し、エレベーターを出ると、短い廊下の先に扉が見えた。このフロアには一部屋しかないので、実質、廊下も部屋の一部のようなものだった。
ユーコーがインターホンのボタンを押す。やはり反応はなかった。それも当然のように思える。たとえ在宅していたとしても、オートロックを開錠した覚えのない相手がいきなり玄関先に訪ねてきたら、聡恵でも警戒して居留守を使うだろう。
聡恵は聞いた。「どうする? 今度は管理会社に開けてもらうわけにもいかないよね」
ユーコーは思案顔を浮かべていたが、やがて意を決したようにうなずいた。
「仕方ない……こうなったら強行突破だ」
そうつぶやくと、ユーコーは踵を返した。
まさか体当たりでもするつもりだろうか。でも、ドアは見るからに頑丈そうだし、ぶち破れるとは思えない。聡恵は心配しつつユーコーのあとを追った。
ユーコーは廊下の半分くらいのところで立ち止まり、右手の壁のほうを向いた。何をするつもりかとその視線を追うと、そこには赤いランプの灯った火災報知器があった。
いきなり、ユーコーは火災報知器のアクリル板のスイッチに勢いよく指を押し当てた。
たちまち、けたたましいサイレンの音が鳴り始めた。機械的な音声が繰り返される。火事です。火事です。直ちに避難してください。
本当は火事など起こっていないとわかっていても、突然の事態に聡恵は慌てふためくばかりだった。
一方、ユーコーはしたり顔で言った。「これでどうだ」
目的をかなえるためには、マンション全体を巻き込むことも恐れていないらしい。なんとも大胆不敵だった。この事態をどうやって収拾するかまで考えているのかは怪しいところだが。
すると、玄関の扉が開いて、中にいた人物が様子をうかがうように顔をのぞかせた。そしてこちらと目があうと、凍りついたように固まった。
それは間違いなく、聡恵たちが訪ねようとしていた相手――菱田だった。




