第六話 母親
金曜日の夕暮れ。聡恵とユーコーは、東京メトロ千代田線・我孫子行きの電車に乗っていた。スーツでごった返す車内では、わいわいと楽しげな会話がとびかっている。早めに仕事を切り上げて飲みに出かけようというサラリーマンが多いのだろう。
一時間ほど電車に揺られ、南柏駅で下車する。東口を出てデッキの階段を下り、駅前のロータリーを見渡すと、送迎待ちの車の列のなかに、シルバーのホンダ・フィットを見つけた。
近づいていくと、中年の女性が車から降りてきて、こちらに向かって目礼した。
女性はスマートな体型で、髪や服装などを年相応に身綺麗にしており、上品さが感じられた。ただ、ビジネスメイクが施された顔は少し疲れて見えた。
「こんにちは」ユーコーが声をかけた。「優佳さんのお母さんですか?」
女性は頷いた。「横江多佳子です。風山さんに、そちらは花菊さんね?」
はい、と聡恵とユーコーは返事をした。
「わざわざ来てもらって御免なさいね。時間かかったでしょう?」
多佳子が聞くと、ユーコーは首を横に振った。
「いいんですよ。お会いしたいって言ったのはこっちですし」
聡恵は立ち会うことができなかったのだが、優佳の下宿先から帰った後、ユーコーが優佳の無事を多佳子に連絡した際に、会う約束を取り付けたとのことだった。
「じゃあ、家まで案内するわ。乗って」
言って、多佳子は車の後部座席のドアを開けた。
多佳子の運転する車は、駅から南にのびる大通りをしばらく走った後、右折して住宅街に入った。左手に小ぶりな公園が見えてきたところで、多佳子は車を減速させ、ギアをバックに入れた。そして、公園の向かいにある家の車庫に車を収めた。
車庫の隣は小さな庭になっており、隅に古めかしい立派な松の木が立っている。車庫と庭の奥に位置する二階建ての家は、玄関がレンガのアルコーブになっていて、洒落た洋館風のつくりをしていた。
聡恵たちは家に入ってすぐ左手にある部屋に通された。そこには、濃色の木の長机を挟んで、一対の黒革のソファが置かれていた。
「何か飲み物をもってくるわ。腰掛けて待っていて」
言って、多佳子は部屋を出て行った。
「あ、お構いなく」ユーコーは多佳子の後ろ姿に向かって声をかけた。
聡恵とユーコーは、とりあえず奥側のソファに腰掛けた。
聡恵は部屋の中を見回した。生活感のあるものは無く、スタンドピアノが部屋の角に寄せて置かれているだけだった。専ら応接用の部屋なのだろう。部屋全体が畏まった雰囲気で、なんだか落ち着かなかった。
しばらくして、多佳子が戻ってきた。
「好みがわからないからお茶にしたんだけど、いいかしら」
多佳子はトレーを机に置き、グラスを並べた。聡恵とユーコーは「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
「不思議なものね。私が優佳のお友達をお招きするなんて。優佳ですらお友達を家に呼んだことが無かったのに」
苦笑ともとれる笑みを浮かべて、多佳子は聡恵の向かいに腰掛けた。
ユーコーが聞いた。「ここには住んで長いんですか?」
「そうね、もう十五年になるかしら。優佳が小学生になった年に買ったから」
「へえ」ユーコーは感心したように呟いた。「十五年前っていうと、けっこう若い時に買われたんですね」
「私は賃貸より持ち家って考えだったから、早いうちに家を買うって決めてたの。ここは中古の物件だけど、場所も間取りもいい条件だったから、思い切って買うことにしたのよ。まあ、ちょっと見栄を張ったところもあるけどね」
言って、多佳子はグラスに口をつけた。それを見て、聡恵とユーコーもそれにならった。
「あなたたちは、娘とはいつから友達なの? 随分親しいみたいだけど」多佳子が聞いてきた。
「んー……いつだっけ?」
言って、ユーコーはこちらに顔を向けた。
「まだ全然短いです。初めて会ったのは先週の火曜日ですし」
聡恵が答えると、多佳子は目を見開いた。
「それじゃ、たった一週間くらいじゃない。なのに、こんなに心配してくれるなんて……」
「まだそれくらいしかたってないんだ?」ユーコーは意外そうに言った。「なんか、もっと長いような気がするけどなあ」
「私も。きっと一緒にダンスショーに出たからだよ。練習とか、濃い時間を一緒に過ごしたから」
多佳子の顔が曇った。「そう……ダンスを通じて知り合ったのね?」
ユーコーが答える。「はい。でも一緒にダンスショーに出ることになったのは、なんていうか成り行きで。本当は別の目的があって優佳さんに会いに行ったんです――あ、別に変な目的じゃないですよ? 実は俺、ココロ・プロブレム・ソリューションっていう団体の代表をやってまして――」
多佳子は眉根を寄せた。「ココロ……なに?」
「ココロ・プロブレム・ソリューション。略してKPSです。簡単に言えば、困っている人や、悩んでいる人の力になろうっていう団体です。それで、優佳さんが悩んでいるんじゃないかっていう噂を聞きまして」
「噂? 本人から相談されたわけじゃなくて?」
「うちは究極のおせっかい団体でして。頼まれてもないのに、困っている人を探して駆け付ける、っていうスタイルなんですよ」
「へえ……」
多佳子は唖然とした様子だったが、やがて相好を崩した。
「変わってるわね。今どきの若者って冷めてるイメージだけど、あなた達は違うみたい」
ユーコーは顔をほころばせた。「みんな、ただシャイなだけなんです。意外といいヤツばかりですよ」
「そうかもしれないわね」多佳子は頷いた。「それで――娘の悩みは解決したのかしら?」
「それがまだなんですよね……でも、絶対解決してあげます」
「頼もしいわね。親がこんなこと頼むのもおかしいけど、お願いします」
「はい、もちろん」
ユーコーは自信たっぷりに返事をしたあと、切り替えるようにぱっと真面目な表情をつくった。
「でも、うちとしてはお母さんも見過ごすことはできないんですよ」
「え?」多佳子は虚を衝かれたような表情で固まった。
「優佳さんとうまくいっていないんですよね? 昨日、優佳さんから聞きました」
「そう、そんな話を……」多佳子はばつが悪そうな顔をした。「じゃあ、もしかしてあの子の悩みってそのことなの?」
「いえ。まったく悩んでないってことはないでしょうけど、優佳さんがほんとに悩んでることは別にあるみたいです。でも一方で、お母さんにとっては重大な悩みかもしれないと思いまして。だから、会ってお話ししたかったんですよ」
ユーコーが言うと、多佳子は寂しげに笑った。「さすが、気が利くのね」
「やっぱり、娘さんと仲良くしたいですよね?」
「それはそうよ。でも、きっと無理ね――」
「どうしてです?」
「好かれるようなことは何もしてこなかったもの。やりたくもない習い事をさせたり、成績について口うるさく言ったり――嫌われることばかりね」
言って、多佳子は自嘲の笑いを浮かべた。
多佳子のように、子どもに勉強や習い事をたくさんさせる親は珍しくない。それ自体は悪いことではないと思う。ただ、子どもが自由にやりたいこともできず、友達と遊ぶ時間も無いくらい押し付けてしまうのは、健全な子育てとはいえないのではないだろうか。
聡恵が気になったのは、父親はまったく育児に関わっていなかったのかということだった。別々に暮らしていても親であることは変わりないのだから、子どもについて意見を交わす機会もあったのではないだろうか。
「あの」聡恵は聞いてみることにした。「子育てについて、優佳さんのお父さんと話し合ったりすることはなかったんですか?」
「無いわ。相手は認知もしていないしね」
「認知……?」
それは確か、自分の子どもだと認めること、というような意味だったと思う。でもそれがどういう場合にするものなのか、聡恵はよくわかっていなかった。それはユーコーも同じようで、首をひねっていた。
こちらの心情を察したらしく、多佳子が説明してきた。「私、結婚せずにあの子を生んだのよ。結婚していれば相手は自然と父親になるけど、結婚していない場合、法的に父親と認められるには認知が必要なの」
結婚していなかったという事実に、聡恵は驚いた。教育ママというイメージから、身の振り方はきちんとしているものと勝手に思い込んでいた。
多佳子は続けた。「私も昔は無茶しててね。あの子は私がまだ短大生のとき、二十歳で産んだの。相手はもう社会人で、名の知れた大企業に勤めてた。だからお腹に優佳がいるってわかったとき、全く不安は無くて、ただ嬉しいばかりだったわ。当然、結婚できると思ったし、相手もそれを望んでくれていたから。親子で幸せな家庭を築くんだっていう希望しかなかった。結局、そうはならなかったけど――」
最後は消え入るような声だった。多佳子の表情に愁眉が覗き、しばらく沈黙が降りた。
「御免なさい。暗い話になっちゃったわね」多佳子は無理矢理な笑みをつくって言った。
「いえ」ユーコーは優しく言った。「よければ、もっと話してくれませんか? その方が、あなたのことを知ることができますから」
「いいけど……何を話せばいいか困るわね」多佳子は苦笑しながら言った。
「じゃあ、質問してもいいですか?」
ユーコーが聞くと、多佳子は首肯した。「ええ。その方が話しやすいわ」
「相手の方とは、なんで結婚できなかったんです? 結婚に前向きだったんですよね?」
「そうね――」多佳子は目を伏せた。「簡単にいえば、周りの反対ね。相手のご両親が納得しなかったの」
「説得できなかったってことですか」
「説得も何もなかったわ。彼の態度が変わってしまったの。親が反対している以上、結婚は難しいって」
「なにそれ……もう大人なんだし、決めるのは親じゃなくて自分じゃない」
聡恵が憤って言うと、多佳子は微笑した。
「当時は私もそう思ったわ。なんでもっと必死になってくれないのかって。でもやっぱり、周りが反対する道を進むのはすごく辛いことよ。今なら彼の気持ちもわかるの。無理して結婚しても、きっと幸せにはなれなかったと思うわ」
「そうかもしれませんけど……認知もしなかったのは無責任じゃないですか?」
「ううん、違うのよ。相手の両親からは、費用をもつから子供をおろすように頼まれたし、私の親も、結婚できないならそうするしかないだろうって言ったわ。でも、私は絶対産むつもりだった。その点、彼は産むことに反対しなかったのよ。産むつもりなら認知するとも言ってくれた。でも断ったわ。子どもとは関わってほしくなかったから」
多佳子は険しい表情で語った。
まだ学生の身だったわけだし、お金の面を考えれば認知をしてもらった方が良かったはすだ。そういった打算の入り込む余地のないくらい、相手に対する失望が大きかったということだろう。
ユーコーが聞いた。「ご自分の親御さんには、産むことを理解してもらえたんですか?」
「全然。何度も考え直すように言われたけど、反対を押し切る形になったわ。私も客観的な立場だったら、きっと親と同じことを言ったでしょうね。でも、どんなに大変だとわかっていても、中絶するなんて絶対に考えられなかった。母性のなせる業なのかわからないけど……本当、不思議なものね」
「そればかりは、母親になってみないと気持ちはわからないでしょうね」ユーコーはしみじみと言った。「それじゃ、自分の親御さんの協力も得られなかったってことですか」
「そうね。自分ひとりで育てる覚悟があるなら勝手にしなさいって言われて、ケンカ別れの形で家を出たわ。もうお腹は大きくなってたけど、今後のためにも短大は出ておきたかったから頑張って通って、何とか卒業したの。優佳が産まれたのはそのすぐあとよ。病院が連絡したみたいで、両親が面会に来たわ。そのときに帰ってきなさいって言われたけど、私も意地になってたから、うんとは言えなかった。それ以来、両親とは会ってないわ」
聡恵は胸が痛んだ。原因となった事象は違えども、多佳子もまた、優佳と同じように親と仲たがいをしてしまっている――やはり血筋は争えないということなのだろうか。
「じゃあものすごく大変だったでしょう。お金もかかるし」ユーコーは言った。
「もらえそうな手当はかたっぱしから申請して、支給してもらったわね。あとは貯金を崩しながらなんとかね。卒業旅行でアメリカ一ヶ月旅行を計画してたから、バイトしてけっこう貯めてたのよ。旅行は結局実現しなかったけど、おかげで助かったわね」
「なるほど。子育てが落ち着くまではそんな感じでやりくりを?」
「そうもいかなかったわね。そんな生活が長くは続かないことはわかってたから、優佳を預けられる保育所を見つけて、すぐに就活を始めたわ。でも、シングルマザーで小さな子どもがいるって話をしたら、やっぱりどこの会社にも毛嫌いされてね。結局、夜の仕事をするしかなかった」
「そうですか……失礼ですが、今もそのお仕事を?」ユーコーは遠慮がちに聞いた。
「ううん、二年くらいで辞めたわ。今は千葉県の職員なの」
「へえ」ユーコーは感心した様子で呟いた。「公務員ってなるの難しいんですよね?」
「職種によって難易度は違うけど、基本的に試験の成績で採用が決まるから、一般企業みたいに経歴や境遇で優劣をつけられることはないわ。だから私みたいなのは公務員になるしかない、と思ったの。それに、公務員は一般企業に比べたら男女平等だって聞いたし、私と似たような境遇の人を支援できる仕事ができればいいなとも思ったしね」
ご立派だ、と聡恵は思った。子育ても仕事もしつつ、勉強して公務員になるなんて並大抵の努力ではできない。不屈の意志が必要だ。受験勉強だけで一杯一杯だった自分にはきっと真似できない。やはり、守るものがある人は強くなれるのだろう。
「公務員になって、いまはどんな仕事をされてるんです?」ユーコーが尋ねた。
「ここ十年くらいは保育所の認可や、児童手当に関する相談といった子育て環境の整備に関わっているわ。今年度から課長に昇進できたし、けっこう忙しくしてるのよ」
そう明るく語った多佳子だったが、ふいに落胆のいろを見せた。
「でも、時々虚しくなるわ――仕事で子育て相談を受けることもあるんだけど、自分の子育てはうまくいかなかったんだから」
「そんなことないですよ」聡恵は心を込めて言った。「大変な環境のなかでも優佳さんを立派に育て上げたじゃないですか」
「ありがとう」多佳子は悲哀まじりの笑みを向けてきた。「でもね、子どもの頃の貴重な時間を奪ってしまったことを考えると、やっぱり取り返しのつかないことをしてしまったと思うわ」
多佳子は深い自責の念にかられているようだった。聡恵はそれ以上かける言葉が見つからなかった。
しばしの静寂ののち、ユーコーが口を開いた。「でも、昔は自分の子育てが正しいと思っていたわけですよね。それが間違ってたと思うようになったきっかけはなんだったんです?」
「それは、あの子が高三のとき、進路のことで言い争いになったことがあって――聞いてるかしら?」
「ええ。昨日話したときに。お母さんは別の大学を受験してほしかったけど、優佳さんが一人で内部進学を決めてしまったんですよね?」
「ええ――どうしても進路を考え直してほしくて。あの子がダンスに夢中になってることも良く思ってなかったから、それも含めて強く言ったのよ。ダンスなんて将来役に立たないんだから、勉強していい大学を出たほうがいい、あなたのために言ってるのに、なんでわからないの、って。そうしたら、あの子に言われたの。何が私のためよ、あなたのためでしょ、って。口ではそんなわけないじゃないって否定したけど、心にぐさりとくるものがあったわ。豊富な教養をつけさせて、いい大学に行かせて、いい仕事についてもらって、いい相手と結婚してもらう――それがあの子にとっての幸せで、そうなるための手助けをするのが親の努めだと信じてた。でも違ったの。ほんとうは、優佳を周りから見られたときに、やっぱり片親の子どもはダメだなって思われたくない――そんな私の引け目からくる願望を押し付けていただけだったのよ。優佳は私のその醜い考えにずっと前から気付いていて、私のことを軽蔑してた――あの言葉でそれに気づかされたの。そしたらもう、本当に悲しくて、情けなくて、どうでもよくなって……最後はあの子を突き放す形になってしまった」
多佳子は沈痛な面持ちで語った。
「そんなこと――優佳さんは育ててもらって感謝してるし、親孝行したいって言ってましたよ」
聡恵がフォローを入れても、多佳子はしきりに首を横に振るだけだった。
「義理で言っているだけだと思うわ。親としては最低だと思ってるはずよ」
多佳子はどうあっても自分を許せないらしい。優佳には歩み寄る姿勢があるのに、多佳子が今のままでは、二人の溝は埋まらないだろう。
「――別にいいんじゃないですかね?」
シリアスな雰囲気を壊すように、ユーコーが飄々と言った。
「は?」多佳子は顔をあげ、赤くなった目でユーコーを見た。
「やっぱり、シングルマザーって偏見をもたれやすいと思いますし。子どものしつけもなってないんだろうって決めつけられがちですよね。そう思われないようにしたいと思うのは当然じゃないですか? 俺が同じ立場だったら、きっとそう考えると思いますよ」
「そんな……でも……」多佳子は目を泳がせた。「親は子どもが一番で、自分のことなんか二の次じゃなきゃいけないの。自分の都合で子どもを振り回すなんて親失格よ」
「んー、親だって人間ですからね。神様や仙人じゃないし。エゴが出たってしょうがないんじゃないですか? それに、思うに多佳子さんは、自分が間違ったと思ったらとことん自分を責めるタイプですよね?」
ユーコーの指摘に多佳子はしばらく固まったが、やがて静かに頷いた。
「反省するのはいいことだと思います。でも、大事なところまで否定しないでほしいんですよ。優佳さんの幸せを願って育てていた気持ちはウソじゃないってこと――そうですよね?」
ユーコーが聞くと、多佳子はまたもかぶりを振った。もはや反射的にそうしているように思えた。
「わからないわ……自分の醜い考えを隠すために、都合よくそう思い込もうとしていただけかもしれない」
「それはないです。もし自分だけが大事なら、そもそも後悔したりしないはずです。多佳子さんがここまで悩んでるのは、優佳さんのことを本当に大事だと思っているからですよ」
ユーコーが優しく諭すように言うと、多佳子はユーコーの顔をじっと見つめた。
ユーコーは続ける。「自分勝手な心があったことを反省して、やり直したいと思ってるけど、過ぎてしまった時間はもう取り戻せない――償いようがないから、自分を責め続けて、出口が見えなくなってるんですね。でも、間違いに気付いて反省できただけで十分ですよ。先へ進みましょう。これからやり直すしかないんですから」
「でも……」多佳子は視線をそらし、手をもじもじさせた。「そんなのあの子が許さないわ――だから私は一生、自分を責め続けるしかないの。それがあの子への償いなのよ」
今度はユーコーが首を振った。「許さないのは優佳さんじゃない。多佳子さん自身です。優佳さんはそんなこと望んでないですよ」
「私を恨んでないっていうの? どうしてそう言えるの?」
多佳子は食いかかるように言ったが、ユーコーは怯まなかった。
「優佳さんには、お母さんの期待に応えたいって気持ちがまだあるんですよ。許せないほど憎んでいたら、そんな風に思わないはずです」
「――優佳が、そう言ったの?」多佳子は信じられないといった顔つきをした。
ユーコーは多佳子の目を見据えて頷いた。「お母さんのやり方とは違うけど、将来立派だと思ってもらえるようになるんだ、って」
「それは、きっと見返してやろうってだけで……」
「それもあるでしょうけど、恩返ししたいって気持ちのほうが大きいと思いますよ。お母さんが自分のために色々苦労してきたってこと、いまは理解してるつもりだって、優佳さん言ってましたから。優佳さんも、自分一人で生活するようになって、いろいろ経験していくうちに気づいたんでしょう――多佳子さんの愛情に」
ユーコーの言葉を聞いた多佳子はしばらくぽかんと口を開けていたが、やがて両手で顔を覆った。指の隙間から、すすり泣く声が漏れてきた。
「だから、重く考える必要なんてないんです」ユーコーは柔らかに語りかけた。「ひどい反抗期だったと思って割り切っちゃいましょう。これからどうするかが大事です」
「――ありがとう」多佳子は顔をあげ、涙声で呟いた。「でも、どう接したらいいか……」
「今までどおりでいいですよ。変に意識すると、よそよそしくなっちゃいますから。ただ、これからは優佳さんの意思を尊重してあげてください。優佳さんはちゃんと自分の考えをもってる、しっかりした人です。まだ短いつきあいですけど、それはすごく感じます」
「――例えば、どんなところ?」多佳子が聞いた。
「優佳さんのダンスへの熱意は本物で、観客を楽しませるためには妥協を許さないんです。もはやプロ並みの意識の高さですよ。でも意外に現実的で、プロは不安定だからなるつもりはなくて、ダンスはあくまで趣味だって割り切ってるんです。まだ将来何になるかは決めてないみたいですけど、お母さんを心配させるような仕事は選ばないんじゃないかな。まあいずれにせよ、優佳さんならどんな仕事についても評価されると思います」
「……すごいわね。優佳はもう立派な大人ね」多佳子は目尻を拭った。「勇気を出して連絡を取ってみるわ。何か悩みがあるみたいだし、私なんかに話してくれるかはわからないけど……できることなら力になってあげたいから」
「ぜひそうしてください。優佳さんも喜ぶと思います」
ユーコーが笑いかけると、多佳子もようやく笑顔を見せた。聡恵も自然と笑顔になった。
これで、親子の間にあった、重く閉ざされた扉が開いた。聡恵はそう確信した。
その扉を開けたのは、間違いなくユーコーだ。
これまでは破天荒さを伴った行動力ばかりが目立っていたが、今日はユーコーの新たな一面を見た気がした。多佳子の頑なな心を紐解いたように、巧みな語らいの力も持っているのだ。人の心の奥に迫るには、そういった能力も不可欠だろう。ぎょっとする物言いをすることも多いが、さすが、KPSの理念を掲げるにふさわしい資質が備わっている。聡恵は改めてユーコーに感心したのだった。