第五話 優佳の下宿先へ
渋谷駅で京王井の頭線急行に乗ると、ものの十分で永福町駅へと到着した。
地図アプリで検索したルートに従って、駅の南にある踏切を渡り、そのまま片側一車線の道路を進む。道の両側には個人経営と思われる小売店が多く列をなしていたが、夜遅い時間ということもあってほとんどシャッターが閉まっている。煌々と明かりがついているのはコンビニくらいだった。
聡恵とユーコーはそのコンビニに立ち寄り、優佳への差し入れを買っていくことにした。ユーコーは「まともに食事をしていないかもしれないから」と、エネルギー補給ゼリーにバナナ、おにぎりを手早く選んで購入した。
コンビニを出て、少し行ったところで路地へと折れる。その先にはひっそりと静まり返った住宅街が広がっていた。比較的新しい瀟洒な家が多く見受けられる。杉並区の、それも駅近くに一軒家を構えるくらいだから、それなりに裕福な人たちが集っているのだろう。ただ、道路は狭くて見通しが悪く、人通りがまったく無いうえに、街灯や住宅の窓から漏れてくる光も少ない。夜道を一人で歩くには心もとないところだった。聡恵は知らず知らずのうちに、ユーコーにほとんどくっつくようにして歩いていた。
やがて、両端を塀のある建物に挟まれて窮屈そうにおさまっている、年季の入った二階建てのアパートを見つけた。道路に面した階段のある壁面に、『タウンコート永福』と書かれたさびれた看板が出ている。教えてもらった建物名と一致する。ここが優佳の下宿先のようだった。
階段下にある郵便受けの数からすると、各階に二部屋ずつしかない小規模なアパートらしい。優佳の部屋は一階の奥にある一〇二号室だった。聡恵たちは縦穴のような薄暗い廊下を進み、『102』の表札が貼られた玄関扉の前に立った。
ユーコーがインターホンを押した。だが、しばらく待っても扉の向こうからは物音ひとつせず、虫のすだく声がどこからか聞こえてくるだけだった。再度鳴らしてみたが、結果は同じだった。
優佳は部屋にいるのだろうか。確かめようにも、ここからだと部屋の明かりが点いているかもわからない。
聡恵はユーコーに聞いた。「ノックして呼びかけてみる?」
「いや――なんか書くものない?」
ユーコーに言われて、聡恵はカバンからルーズリーフを一枚取り出し、ペンと一緒に渡した。すると、ユーコーはルーズリーフを扉にあてて、大きな文字でメッセージを書き始めた。
『ユーコーです。いま、サトちゃんと一緒に来てます。もしよかったら、顔を見せてください』
書き終えると、ユーコーはそれを扉の下のすき間から部屋に忍ばせた。
優佳がメッセージを読んでくれたとしても、ドアを開けてくれる保証はない。いくら知り合いとはいえ、住所を教えていない相手がいきなり来たら不審に思うだろう。
それでも、お願いだから顔を見せてほしい。インターホン越しに応えてくれるだけでもいい。聡恵はそう強く祈りながら動静をうかがった。
すると、徐にドアのノブが回った。
そして、わずかに開いた扉のすき間から、優佳の顔が覗いた。
「二人とも、どうして……?」
優佳は覇気のない声で言った。ノーメイクのくたびれた表情のなかに、驚きのいろがまじっているのが見て取れた。
ユーコーが言った。「驚かせてごめん。優佳が心配で来たんだ」
「誰に聞いたの? ここのこと」
優佳はまるでユーコーの声が耳に入っていない様子で聞いてきた。
「えっと、優佳のお母さんから聞いたんだけど――」
ユーコーが答えると、一瞬で優佳の目の色が変わった。
「はあ? 勝手なことしないでよ!」
雷鳴の如く、優佳の怒鳴り声が響き渡った。
すぐに、夜の静寂が戻ってきた。しかし、聡恵の心は凍り付いたままだった。当の優佳も、自分が発した怒声の大きさに戸惑ったのか、気まずそうに目を泳がせていた。
「勝手なことをしたのは申し訳ない。でも、本当に優佳が心配で、無事を確かめたかっただけなんだ。それはわかってほしいな」
さすがというか、ユーコーは動じていない様子で言った。
優佳は俯いて、小さく頷いた。そしてドアチェーンを外すと、扉を広く開けた。
「――入って」
言って、優佳は聡恵とユーコーを部屋の中へと招き入れた。
部屋の中は、アパートの外観から想像していたものよりずっと綺麗だった。玄関の床や、入ってすぐにあるキッチン周りには、随所にシックなモザイクタイルが貼られていて、年代を感じさせない見栄えになっていた。奥の扉の向こうにあるワンルームの部屋は、物が少なく、きちんと整理整頓されているからか、狭さを感じさせなかった。
優佳にうながされ、聡恵とユーコーは部屋の真ん中に置かれた脚の低いテーブルを囲んで座った。
「今まで誰も入れたこと無かったんだけどね。こんな古ぼけたアパートに住んでるなんて知られたくなかったし」
優佳は苦笑しながら言った。もう平静さを取り戻したようだった。
「そんなの全然気にしなくていいですよ。すごくお洒落にしてますし」
聡恵が言うと、優佳は肩を竦めた。
「見た目はなんとかできるけどね。でも、ここほとんど日が当たらないから湿気がすごいの。一応、湿気を吸収してくれるっていうタイルを貼ってるんだけど、部屋の隅のほうとかカビやすくて。あとエアコンはないし、給湯器の調子も悪いし。お湯の温度とか、熱くなったり冷たくなったりするから、お風呂のときとか大変――ま、家賃安いから仕方ないけど」
「それでもけっこうするんじゃないですか? ここ、駅から近くていい場所だし」
聡恵のなかでは、東京二十三区の家賃は物件が古くても高いというイメージがあった。極端な例かもしれないが、聡恵が入学前にネットで下宿先を探していた時、渋谷駅近くのトイレ風呂なし四畳半、築四十年の物件を何気なく見てみたら、十万もするというから驚きだった。
「そうでもないよ」優佳は首を横に振った。「共益費込みで四万三千円。相場よりだいぶ安いよ。それくらいならバイトでなんとかなるし、敷金礼金も無しだったから、ここにしたの」
聡恵の住んでいる学生マンションは、ここと広さは同じくらいだが、エアコンはついていて給湯器もしっかりしているし、オートロックになっていてセキュリティ面も安心だった。最寄駅まで歩いて十分以上かかるのがネックだと思っていたが、設備に不自由しておらず、月に八万円する家賃を親に払ってもらっている自分は、十分すぎるほど恵まれているのだと痛感した。
「でも、バイトで稼ぐのも大変だよね」ユーコーが言った。「学校もあるわけだし。実家から通おうとは考えなかった?」
優佳は目線を落とした。「うちの母親と話したなら、もう察しはついてるかもしれないけど……仲が悪くて」
「――お母さんと、何かあったんですか?」
聡恵は思い切って聞いた。それこそが優佳の心に影を落としている原因だという確信めいたものがあった。
「まあ……色々ね。二人には話さなきゃいけないかな――」
それから、優佳は自らの家庭環境をぽつりぽつりと語り出した。
「うち、片親でさ。シングルマザーってやつ。まあ、苦労して育ててもらったことはありがたいと思うけど、とにかく要求が高くて。勉強しろってうるさかったし、習い事もたくさんさせられた。でも正直全然やりたくなかったし、周りの友達は自由に遊んでるように見えたから、なんでうちはこうなんだろうって、不満に思うようになったわけ。それが積み重なって、爆発しちゃった感じかな」
ユーコーが同調するようにゆっくりと頷いた。「子どものうちは親の言うとおりにするしかないもんね。不満を感じるようになったのはいつごろから?」
「小学校の五、六年くらいかな。そのときは口には出さなかったけどね。でも、中学に入って、ダンスをやり始めたんだけど、『ダンスなんかやっても何にもならない』って反対されたの。ダンスは初めて自分からやりたいと思ったことだから、それを否定されたのがすごくムカついて、初めて大ゲンカになった。それで吹っ切れたかな。もう言うこと聞かなくてもいいやって。それから塾も習い事にも行くのやめて、やりたいようにすることにしたの」
「じゃあ、それからずっと仲が悪い感じなんだ?」
「まあギクシャクするようにはなったけど、今の状態になったのにはとどめがあって――大学受験のことでさ。うちの母親、私をもっとレベルの高い外部の大学に行かせるつもりだったの。でも私は全然そんなつもりなくて、黙って内部進学決めちゃったんだ。それが高三の三者面談の時にばれて。その時のケンカは、前の比じゃなかったな。お互い言いたい放題で。何言ったか全部は覚えがないんだけど……もう面倒見てやらないって言われて、そのほうがせいせいするって言ったのは覚えてる。だから、こうして一人暮らししてるってわけ」
言って、優佳は無理な笑顔をつくった。
「でも、学費は大丈夫なんですか――?」
聡恵は気になって聞いた。生活費はバイトでなんとかなっても、学費まで賄えるとは思えなかった。
「確かにキツいけど、奨学金借りてなんとか。片親だと優遇きくから、そこはうまく利用させてもらって。高校の成績はまあまあだったから、入学金免除で授業料も割安になったし」
ものすごい徹底ぶりだった。自分にはとても真似できない。ダンスに対する姿勢もそうだが、こうと決めたことに対する優佳の意志の強さは目をみはるものがあった。
「じゃあ、お母さんからは何の援助も受けてないんですね……すごいです」
聡恵が言うと、優佳は目線をそらして唸った。
「奨学金とアパート借りる時は間に入ってもらったけどね。未成年だったから」
「それは手続き上しょうがないですよ。お金を出してもらってるわけじゃないんですよね?」
優佳はまた唸った。「まあ、いちおう向こうから毎月お金が振り込まれてるんだけどね」
「え、そうなんですか?」
驚いたものの、聡恵はなんだか安堵した。いくらひどく歯向かわれたからといって、我が子を完全に見放せるような親は少ないと思う。優佳の母親も、口では面倒を見てやらないと言ったかもしれないが、内心では優佳の無茶を気にかけているわけだ。
すると、優佳がきっぱりと言った。「でも一切手は付けてない。いつか全部返すつもりだから」
聡恵は当惑した。それは親の愛情を無下にして、決別を宣言するような行為のように思えた。そんなことをしたら、もはや親子の関係は修復不可能になってしまうような気がする。
「それはちょっと……お母さんの気持ちも考えた方が――」
聡恵が言うと、優佳はくすっと笑った。
「安心して。嫌味でそうしようってわけじゃないから。色々いざこざはあったけど、いまは育ててもらったことに感謝してるの。一人で生活するのだって大変なのに、プラス私を育てるなんて、すごい大変だったと思う……だから親孝行っていうか、恩返しはしっかりしたいんだ。あの人が思い描いてたのとは違う道を選んだけど……将来、立派に育ったなと思ってもらえるようになればオーケーかなって。だから就活はしっかりやって、もらった以上のお金を返してくつもり」
「そっか」ユーコーが微笑をたたえて言った。「しっかりしてるよ、優佳は」
聡恵の心はほんわかとあたたかくなっていた。優佳の母親に、我が子を案ずる心が残っており、優佳にも親孝行の意志がある以上、親子のわだかまりがとける余地は十分ある。
「だから、今回私がこうなったことと、母親のことは関係ないよ。別に今に始まった事じゃないし――」
言って、優佳はそれきり口を噤んだ。じゃあ何が原因なのかと、ずばり聞ける雰囲気ではなかった。
「打ち上げのことなんだけどさ」出し抜けに、ユーコーが切り出した。「玲が今度の土曜の夜はどうかって」
すると、優佳は何かを思い出したように目を見開いた。「――そうだったよね。大丈夫、空いてるよ」
「良かった。場所はまだ決まって無かったよね?」ユーコーが聞いてきた。
「うん、優佳さんの予定を確認してからってことになってたから」
「じゃあさ、うちの事務所でやらない? 食べ物買ってきてさ。ちょうど土曜に家具も入ってくるし」
「あ、それいいね」聡恵は同意した。
「うん」優佳は頷いた。「私も事務所見てみたい」
「よし、じゃあ玲に連絡するか」
言って、ユーコーはスマホを取り出した。
そして画面を見るなり、急に慌てた顔で立ち上がった。
「やばい! もう終電ギリだ!」
聡恵が腕時計を見ると、いつの間にか零時を回っていた。
行きの電車の中で終電を調べておいたのだが、聡恵が下宿先の最寄駅に着くためには、あと十分後の電車に乗らなくてはならなかった。
「ごめん、もう帰らなきゃ。あ、これ差し入れ。置いてくね」
コンビニの袋をテーブルに置いて、ユーコーはどたばたと玄関へ向かった。聡恵も慌てて後につづいた。
「二人とも、心配してくれてありがとね」
靴を履いているところへ、見送りに来た優佳が声をかけてきた。
「あとで事務所の場所とか連絡するからさ。ケータイ、見といてね?」ユーコーが言った。
「オッケー。あと、お願いなんだけど……ここのことは、絶対誰にも言わないでね?」
優佳は手を合わせて頼んできた。住んでいるところをよほど知られたくないらしい。十分素敵な部屋だと思うのだが、やはり見栄があるのだろうか。
「ああ、約束するよ」
ユーコーの言葉に続いて、聡恵も頷いた。
「ありがとう。じゃ、連絡待ってるね」優佳は笑顔で手を振った。
優佳のアパートをあとにした聡恵とユーコーは、ひたすら駅までダッシュした。聡恵は走るなんてことは滅多にしないし、できるだけ避けたいと思っているのだが、いまは苦に感じなかった。優佳が無事でいてくれた――その喜びを走りで体現しているようで、むしろ爽快にさえ感じた。