第四話 電話
翌日、水曜日の午後。聡恵が四限目の講義を受けていると、スマホにユーコーからメッセージが入った。曰く、昼前から何度も電話をかけているが一向に出る気配が無い、でも共働きで日中は家にいないのかもしれないから、夕方ごろにまたかけてみる、とのことだった。
五限までの講義を終えると、聡恵は真っ直ぐ事務所に向かい、ユーコーが再び電話をかけるのを傍で見届けることにした。
しかし、やはり電話口の向こうから声が返ってくることは無かった。それでもユーコーは、間を見ながら根気よく電話をかけ続けた。だが依然として繋がることがないまま、時刻は二十二時を回った。
「今日はこれがラストかな――」
言って、ユーコーはスマホの発信マークをタップした。
ユーコーが耳にあてたスマホのスピーカーから小さく漏れるコール音が、夜の静かな事務所に虚しく響く。
何十回かコールした後、ユーコーはスマホを耳から離し、困った表情を聡恵に向けてきた。
そして、コール音が止んだ。
聡恵はてっきり、ユーコーが発信を終了したのだと思った。だが、ユーコーが驚いた顔をしたのを見て、そうではないことを悟った。
ユーコーはスマホの画面に向かって叫んだ。「もしもし? 横江さんのお宅ですか?」
「そうですが――どちら様ですか?」
ユーコーはハンズフリーにしたらしく、訝しむような口調の女性の声が聡恵の耳にも聞こえてきた。
「夜遅くにすみません、俺は優佳さんの友人で、風山と言います。優佳さんのことでお伝えしたいことがあって電話したんですが――」
「娘が何かしたんですか?」急に、棘のある声が返ってきた。
「いえ――実は優佳さんと一昨日から連絡がとれなくなってるんです。なので、ご家族に連絡した方がいいかと思いまして」
意外というのも失礼だが、ユーコーは冷静かつ丁寧な口調で、簡潔に事実を伝えた。
「え……そうなんですか」優佳の母親の声はすっかりトーンダウンしていた。
「はい。大学の学生課にも話をしたんですが、連絡はありませんでしたか?」
「あったかもしれないけど……家の電話にはほとんど出られないから」
「そうでしたか――どうも、優佳さんは何か悩みを抱えていたみたいなんです。それが原因で音信不通になったんじゃないかと。何か思い当たることはありませんか?」
「さあ……お友達にもわからないことが、私にわかるはずないわ。私はあの子のこと、なんにもわかってないんだから……」
意味深な物言いだった。ユーコーは返す言葉に困ったようで、しばし沈黙がおりた。
やがて、優佳の母親が独りごとのように呟いた。「警察に連絡した方がいいのかしら……」
「いえ――今の段階じゃ家出と判断されて、まともに取り合ってもらえないと思います」
「なら、どうしたら――」
「まずは下宿先へ様子を見に行ったほうがいいと思います。俺たちもそうしようと思ったんですけど、住所がわからなくて困ってたんです。親御さんならご存知ですよね?」
「ええ……契約書の写しがあるから」
「なら、今から様子を見に行けませんか?」
ユーコーが聞くと、電話口からためらうような息遣いの音が漏れてきた。
「あの――こんなこと頼むのも変でしょうけど……」優佳の母親は言い出しにくそうな口調で言った。「住所を教えるから、代わりに行ってもらえないかしら?」
聡恵は耳を疑った。それは変というよりまったく常識はずれだと思った。少なくとも、教育熱心だとされる人の口から出るような言葉とは思えない。子どもと連絡が取れないとなれば、安否を確かめるためにすっ飛んで行くのが普通だろう。それを人任せにするなんて、それだけ優佳を軽んじているということにほかならない。
普段は引っ込み思案な聡恵だが、こういった理不尽なことに対しては黙っていられない質だった。聡恵は電話に割り込んで、何を言ってるんですか、と喝を入れてやろうと思った。
だが、そうする前にユーコーが言った。「わかりました。じゃあ教えてください」
あまりに平然とした物言いだったので、聡恵は拍子抜けしてしまった。そうだった……ユーコーも常識はずれなんだった――。
優佳の母親は契約書をとってくると言ってしばらく間をおいたのち、下宿先の住所を告げてきた。聡恵はユーコーに目で促され、それをメモした。
「私は一度も行ったことがないから……詳しい行き方はわからないんだけど」
優佳の母親は申し訳なさそうに告げてきた。聡恵はこの発言にもひっかかりを覚えた。聡恵が下宿先に入るときなんかは、引越の手伝いなどで三日ぐらい母親が泊まり込みに来ていた。いろいろと口うるさくて鬱陶しくもあったが、それだけ自分のことを案じてくれているということが伝わってきてありがたかった。
いくら優佳がしっかりしているといっても、女の子の一人暮らしだ。いろいろと面倒を見てやろうと思うのが親というものではないだろうか。そういう気持ちも起こらないくらい、親子の関係が冷え切っているということなのかもしれない。
ユーコーが言った。「大丈夫です。調べてすぐに向かいます。あとで状況を報告しますね」
「お願いします――本当に御免なさいね。携帯の番号を教えるから、そっちにかけてもらえる?」
厚かましい申し出だと思いつつ、聡恵は告げられた優佳の母親の電話番号を書きとめた。ただ、こちらから連絡があるまで寝ずに待っているつもりとのことだったので、最低限の礼節は持ち合わせているらしかった。
そうして、優佳の母親との通話は終了した。
「おかしくない? 自分の娘が音信不通だっていうのに、他人に様子を見に行かせるなんて」
思わず、聡恵はユーコーに不満をぶつけた。
「まあ、優佳とうまくいってないのは確かだろうね」ユーコーは苦笑気味に言った。
「ね――」聡恵はふと思い浮かんだことを口にした。「もしかしたら優佳さんの悩みって、家族関係なんじゃない?」
そう考えると合点がいく。実の親と折り合いが悪いなんて、自分だったら毎日気が重いだろう。十分深刻な悩みの種になりうることだ。
「んー、どうだろ」ユーコーは曖昧な返事をしただけだった。「とにかく、教えてもらった住所に向かおう。場所を検索してくれる?」
「あ、うん――」
確かに、今は優佳の安否確認が先決だ。聡恵は教わった住所を地図アプリへと入力すると、ユーコーの傍に寄って、スマホに表示された目的地のアイコンを見せた。
「駅からそんなに遠くないね。最寄駅は、えっと――」
聡恵が漢字の読みに詰まると、
「永福町。京王井の頭線だから、渋谷から一本でいけるな」
と、ユーコーがさらりと言った。
聡恵はまだ、数多くある東京の鉄道路線事情に詳しくなかった。山手線の駅の名前だって半分も言えない気がする。馴れない場所へ行くには路線検索アプリが欠かせなかった。
これから優佳の下宿先に行く、と玲と菱田にパシェで経過報告をして、聡恵とユーコーは事務所を出た。
どうか無事な姿を見せてほしい――聡恵はそう念じながら、足早に駅へと向かった。