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ココロ・プロブレム  作者: 谷木 大來
第二章
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第七話 腹ごしらえ

 聡恵は、例えば入試など、極度の緊張を伴う行事があると、頭からそのことが離れず、四六時中気を揉んだりするものだった。だが不思議と寝つきはいいので、眠れなくなるという心配はなかった。なので、今回もぐっすり眠ったうえで、ショー本番の日曜の朝を迎えることができた。

 イベント開始時刻は十四時。聡恵たちの出番は十六時ごろと聞いている。だが開場前にリハーサルの時間が設けられているので、出演者は正午に集合することになっていた。

 集合まではまだまだ時間がある。振り付けの確認をしておきたいところだが、マンションの部屋の中では周りの迷惑になるので、曲を聴きながらイメージトレーニングをすることにした。しかし、一人でじっとそうしていてもあまりいいイメージができず、かえって不安になってきたので、すぐにやめた。

 かといって他になにをしようにも、ショーのことで頭がいっぱいで、手に着くはずもなかった。

 とりあえず、ユーコーのところへ行こうかな――。

優佳と玲は直接会場であるクラブに向かうと言っていたが、聡恵はユーコーと事務所で落ち合ってから向かうことにしていた。クラブという未知の場所に一人で入るのは、やっぱり気後れするからだった。

 出かける前にいちおうユーコーへメッセージを送って、聡恵は事務所へ向かった。

 この前ちょっと聞いた時にわかったのだが、ユーコーは事務所で寝泊まりしているらしい。ビルにトイレや給湯室はあるにしても、さすがにお風呂までは無いから、普通なら生活のために別の部屋を借りるだろう。それができないほど、資金に不自由しているのだろうか。

 電車で移動している途中、ユーコーから『カンさんのお店にいるよ』と返事がきた。

 どうもユーコーは毎日と言っていいくらい、あの店に入り浸っているようだった。ユーコーはたくさん食べるから、あの店からしたらかなりの上得意に違いない。一か月間にユーコーがあの店に落とすお金を考えたら、まともな部屋が借りられるくらいになるんじゃないだろうか。

 聡恵が『チンギス・ハーン』の前に来ると、カウンター席に座るユーコーの姿がガラスの向こうに見えた。

 前に飲んだマンゴージュースは確かにおいしかったのだが、横柄な態度の店主のせいか、聡恵はこの店がいけ好かなかった。あまり気が進まないが、仕方ない。聡恵はガラス扉を引いて中に入った。

「あ、いらっしゃい!」

 そう元気よく声をかけてきたのは、ユーコーだった。本来そう言うべき店主は、カウンターの向こうで聡恵を一瞥しただけだった。

「おはよう」聡恵はユーコーの隣に座った。「ごめんね、一人だと落ち着かなくて。早く来ちゃった」

 ユーコーは優しい顔で微笑んだ。「朝ご飯は食べてきた?」

「ううん」

 聡恵は首を横に振った。普段から積極的に朝食をとりたいとは思わないのだが、今日はダンスショーが気がかりなせいか、一層その気持ちが強かった。

「そりゃいけない」ユーコーは大げさに言って、店主のほうを見た。「カンさん、モーニング、二つお願いできる?」

 店主はしばらく間をおいてから、「あい」と、低い声で応じた。

「そんな、私はいいよ。あまりお腹すいてないし」

 聡恵が言うと、ユーコーは指を振った。

「今日はこれから力を出さなきゃいけないんだから、しっかり食べとかないと。リハの時間から考えると、運動前の食事は今ぐらいがちょうどいいんだ。これもショーを成功させるためだよ」

 ユーコーの理屈はいかにももっともらしく聞こえた。聡恵は反論する術が無かった。

 しかし、この店のモーニングって、何が出てくるのだろう。トーストにゆで卵、コーヒーといった、喫茶店によくあるメニューが出てくるとはちょっと考えにくい。

 聡恵はユーコーに聞いてみた。「モーニングって、どんなメニューなの?」

「さあ」ユーコーは肩を竦めた。「ノリで頼んでみただけだから」

 聡恵は呆れた。メニュー表を見てみたが、モーニングという字はどこにも見当たらなかった。でも注文を受けてくれたということは、裏メニューなのだろうか。

 しばらくして、店主が聡恵とユーコーの前に並べたのは、どんぶりだった。

ご飯のうえに細切れの鳥のささみがのせられ、さらにその上に、細かく刻まれた大葉とネギ、半熟の卵がかけられている。

「おお、うまそう!」ユーコーは目を輝かせて言った。「さすがカンさん。いただきます!」

聡恵も手を合わせて言った。「いただきます……」

 聡恵はいままで、朝食にガッツリしたものを食べたことが無かった。こんなに食べられるだろうか。あまり好感をもてない店とはいえ、食事を残すのはさすがに憚られる。食べきれなかったらユーコーに食べてもらおうと考えつつ、聡恵はどんぶりに箸をつけた。

 おいしい――一口食べてすぐに、そう感じた。

醤油ベースに、ほのかに梅の風味がきいたさっぱりした味付けで、ご飯との相性がいい。脂っぽさも無いし、自然と箸が進む。

 おかげで、予想に反して聡恵はどんぶりを平らげることができた。

「どう? カンさんの料理、最高でしょ?」

 ユーコーはうれしそうに聞いてきた。

「うん、おいしかった」

 聡恵は厨房に立っている店主の背中に目を向けて言った。モーニングとして出されるメニューとしてはいささか異質ではあったが、美味しさ、食べやすさに関しては申し分なかった。店の人気はさておき、料理の腕は確からしい。

「でも、ユーコーには物足りない量だったんじゃない?」聡恵は聞いた。

「まあそれはあるけど、運動前に食べ過ぎるのもよくないしね。でもちゃんと栄養がつくメニューだったよ。ちゃんと考えてくれてるんだなあ」ユーコーは感心した様子で述べた。

「考えてくれてるって?」

「今日、ダンスショーに出るって話、してたからさ。たぶん、それに合わせたメニューにしてくれたんだよ」

「……まさか」

聡恵は小声で否定じみた返しをした。聡恵の店主に対するイメージからは、ユーコーの言うことを納得するに足りる材料がなかった。

「カンさん、すごく気が利くし、いい人なんだよ。あまり喋らないから、わからないかもしれないけど。その証拠に――ほら」ユーコーは空になった二つのどんぶりを指した。「ご飯の量も、人によってちゃんと変えてくれてる」

 見てみると、柄は同じだが、ユーコーのものに比べて聡恵のどんぶりは小さめだった。特別頼んだわけではないが、気を回してくれたらしい。

「それに」ユーコーはひそひそと続けた。「この店、ほんとは朝はやってないんだ。なんだか悪い気がするんだけど、いつも俺だけのために開けてくれてるみたい。だからモーニングなんてあるわけないんだ」

 言われてみれば、二十四時間営業のファミレスなどを除けば、定食を出すような飲食店はお昼頃に開店するのが一般的だ。つまり、店主はユーコーのモーニングなんていう突飛な注文を突っぱねず、自分たちだけのために特別にメニューを考えてくれたというわけだった。

 そこへ、店主が両手にグラスを持ってきて、聡恵とユーコーの前に置いた。

「お、マンゴージュース!」ユーコーはグラスに手をつけそうになったが、すんでのところで止めた。「でも……頼んでないよ?」

 ユーコーが聞くと、店主はぼそぼそと告げた。「モーニング……セット」

「そっか! サンキュー!」嬉しそうに言って、ユーコーはストローに口をつけた。

 ここで、にわかに聡恵の中での店主に対する印象が、ユーコーの言うような好人物へと変容していった。それは素直に嬉しいことだった。いくら不快感をもっている相手でも、本心では打ち解けられたらいいのにと、誰しも思っているはずだから。

「ありがとう、カンさん」聡恵は店主に笑いかけた。「モーニング、おいしかったです」

すると、カンさんのふくよかな顔が少しほころんだ――ように見えた。

 カンさんはいい人だけど、すごくシャイだから誤解されやすいのだ。人の見方は第一印象で決まるというが、深く付き合ってみなければその人の本質はわからない。思えばここ最近、それを実感することが多かった。クールに見えた優佳や、キツそうに感じた玲も、交流を深める中でその人の良さを窺い知ることができた。今後のKPSの活動でも重要な心構えになると思うが、第一印象だけで人の評価を決め打ちしないようにしなくてはいけない――聡恵はそう心に刻んだ。

 聡恵がマンゴージュースをおいしくいただいていると、カンさんが厨房から出てきて、カウンター席の後ろの壁にずらりと貼られているメニューの端っこに、新たに短冊を加えた。そこには、『モーニング』という字の下に、小さく『ドリンク付き』と添えられていた。値段は五百八十円と良心的だ。

 本来営業していない朝にモーニングを頼むのは、今後も自分たちぐらいしかいないだろうに、愛い人だ。聡恵はすっかりこの店が好きになった。

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