第六話 猛特訓
それから三日間、聡恵はダンスの特訓に明け暮れた。
横江と野本は大学そっちのけで練習しているようだったが、聡恵はさすがにそうするわけにはいかず、出席をとる講義だけ出ることにして練習時間を捻出した。
大学の講義はサボっても単位さえ取れればいい――そんな考えは学生のみならず、大学側にもそう考えている人はいる。ある講義の初回に「講義に出ないことを咎めるつもりはない。自力で勉強して試験に合格すれば単位を与える」と広言する講師もいるくらいだ。そう言われても、親に払ってもらっている高い授業料のうち、サボった分は全くの無駄になる気がして、そんなことは申し訳なくてできなかった。そんな自分がサボりをすることになるなんて、ちょっと前までは想像もしなかったことだった。
とにかく、いまは差し迫って優先的にやらねばならないことがある。だから、サボりというよりはやむを得ない欠席なんだ――そう自分に言い聞かせて、聡恵は後ろめたい気持ちに蓋をした。
スタジオが使用できる日時は限られていたため、練習の大半は渋谷駅近くの線路沿いにある公園で行った。
その公園は、管理事務所の建物裏側の壁が一面曇りガラスになっていて、鏡として利用できるようになっていた。その辺り一帯には庇がついており、床は木の板が敷き詰められていて、ライトまで設けられている。屋外とはいえ立派なダンスフロアだった。これが無料で使用できるのだから、ストリートダンサーにとってこれほどありがたいものはないだろう。
それでも平日の昼間は、順番待ちになるような混雑はなく、聡恵たちの貸切状態になることもあった。その時間は、野本がスマホをスピーカにつなげてショーに使用する曲を流し、みんなで入念に動きをチェックした。
ショーの曲は、洋楽男性アーティストによるアップテンポ調なラップで、およそ五分間。冒頭にユーコーがソロで派手に踊り、そのあと横江、野本、聡恵がステージに登場する。そこからは横江と野本のダンスを前面に押し出して、聡恵とユーコーは引き立て役に徹するという構成を、三橋が考えてくれた。
バックダンサーである聡恵とユーコーの振り付けは、体験レッスンで教わった『ポップコーン』をベースに、腕の振りを加え、ステップに左右の幅をもたせたものだった。ユーコーはもっと高度な振りつけでも難なくこなせるだろうが、基本がやっとの聡恵は必死に反復練習をしなければならなかった。
曲の要所では、チームで一斉にポーズをとるシーンがあった。そのタイミングを合わせるのがこれまた難しく、聡恵だけポーズをとるのが早かったり、遅かったりしてしまうのだった。
だがそんな聡恵を、ユーコーだけなく、横江、野本も疎ましがることなく熱心に指導してくれた。そのおかげで、ゆっくりではあるが聡恵は確実に上達していった。
そして今日――ショー前日の土曜日。代々木のスタジオで通し練習を行った。
結果、聡恵を含め、全員ミスなく踊りきることができた。監修の三橋からも、「よく仕上げたわね。これならいけるわ」と御墨付きをもらえた。
そのあと、明日に向けての壮行会、というわけではないが、チームで一緒に夕食をとろうという話になり、聡恵たちは代々木駅近くのファミリーレストランにやってきた。
「マジで全部食べちゃったよ……」
テーブルいっぱいに運ばれてきた料理を全て平らげたユーコーを見て、野本がひいた表情で言った。女性陣はドリアにサラダといった控えめな注文だったが、ユーコーはステーキセットにピザ、それにパスタまで頼んだのだった。
ユーコーは膨らんだ腹をさすった。「身体を動かしたあとは腹が減るからね。みんなももっと食べればいいのに」
野本は呆れ顔で言った。「いや、そんなに食べたら絶対太るし……」
「やっぱり食事には気を使ってるんだ?」言って、ユーコーはカルピスの入ったグラスを口にする。
「そりゃ、やっぱりプロポーションも大事だし。アタシ太りやすいからさ。まあどんなに頑張っても、優佳みたいにはなれないけど」
横江は微笑した。「私だって、玲みたいになろうとしたってなれないよ」
野本の言うように、ダンスはテクニックもさることながら、スタイルの良さも大事だと思う。横江と野本は、身長は同じくらいで、女子のなかでは高い部類だが、体格は対照的だった。横江はモデルのように線が細く、すらりとしているのに対し、野本はほどよく肉付きがあって、出るところは出ている。そのため、ダンスの振りが同じであっても与える印象が異なるのだが、いずれにせよ魅力的であることは変わりなかった。
一方、聡恵はというと、身長は平均的だし、これといって自慢できるようなスタイルでもない。かりに自分にダンスの心得があったとしても、横江と野本と組むことになったら、やはりバックダンサーにおさまるだろう。
そんな二人でさえ見向きもされなかったというから、ダンスショーの敷居の高さを感じる。ユーコーの冒頭のダンスで観客のボルテージが上がるのはおそらく間違いないが、問題はそれを維持できるかだ。もし自分が失敗して、台無しにしてしまったら――。
急に不安が襲ってきた聡恵に、向かいに座る横江が声をかけてきた。「でもほんと、聡恵はよく頑張ったよね」
横江も野本も、聡恵のことは下の名前で呼び、ユーコーのことは聡恵にならってユーコーと呼んでいた。自分たちのことも名前で呼んでほしいと言われたが、先輩を呼び捨てするわけにもいかないので、聡恵はさん付けで呼ぶようにしている。
聡恵は軽く頭を下げた。「ありがとうございます。でも、本番でうまくできるか不安で……」
「それは私たちも同じ。でも、力を出し切れば大丈夫って自信はついたでしょ?」
「そうですね」聡恵は小さく頷いた。「運動オンチな自分がここまでできるようになるなんて、なんか信じられないですけど。みんなのおかげですね」
優佳は優しく微笑んだ。「ダンス、楽しいでしょ?」
聡恵ははにかんだ。「まあ……ポーズが揃ったときとか、気持ちいいですね」
ユーコーが言った。「優佳と玲は、ほんとにダンスを楽しんでるってのが見ててわかるよ。ダンスはいつからやってるの?」
優佳が答えた。「私は中学から。体育でやって面白かったから、それがきっかけ」
玲が後につづいた。「アタシは高校から。部活に入って始めたんだ。あの頃は身長伸びてないのに、急に体重が増えだして――中学までは帰宅部だったんだけど、なんか部活にでも入って運動しないとヤバいと思ってさ。でもキツそうなのはヤだし――それで、ダンスならいいか、って」
「へえーそんな理由だったんだ」優佳は茶化すように言った。「それで、体重は減ったわけ?」
「……ちょっと増えた」玲は不機嫌そうにいった。「ま、筋肉がついたからだと思うけど」
いや、玲の場合、身長以外の部分が成長したせいではないか、と聡恵は思った。
「ま、きっかけは不純かもしれないけど、今じゃ純粋に楽しくて続けてる」
言って、玲はころころと笑った。
「いいね」ユーコーも笑みを浮かべた。「なら将来は、プロのダンサーになるとか考えてるの?」
すると、優佳は様子をうかがうように玲の顔を見た。「プロは、ねえ……」
玲は苦笑した。「さすがにキツいよね」
「でも」聡恵は言った。「コンテストで入賞するくらいの実力があるって、三橋さんが――」
優佳は目線を外して、きまり悪そうに髪をいじった。「まあ……私たちが出たことのあるコンテストは、それなりのレベルだったから」
「それなら、もっとレベルの高いコンテストで結果を出せば、プロへの道も開けるんじゃ――」
「いやいや」優佳は苦笑をうかべて聡恵の言葉を切った。「私たち、別にプロになりたいわけじゃないから。コンテストだって、高校までは部活の方針で出てただけで、大学に入ってからは出てないし」
「え、そうなんですか?」聡恵は意外に思った。
優佳が続ける。「まあ正直、プロのダンサーに興味もったことはあるよ。それで、ちょっと調べてみたけど、やっぱりかなり厳しい世界だよね。収入はかなり不安定だし。生活に困ってまでやりたい、って気持ちにはならないかな」
玲が頷く。「趣味で続けられればいいって感じ。ショーイベントなら、プロじゃなくても参加できるし」
ユーコーが聞いた。「でも、コンテストにはもう出ないの? プロ目指してなくても、コンテストで結果を出せば、ショーに出るときの前評判も変わると思うよ」
「そりゃそうだけど……コンテストって審査員が点数をつけて、順位を決めるためのものでしょ? 別に競うためにダンスやってるわけじゃないから、出ても面白くなくて。やっぱ、ダンスの面白さはショーのステージに立つことにあると思う。実際にショーを見に行って、そう思ったよね?」
言って、優佳は玲に目配せした。
「うん」玲が同意する。「ステージでカッコよく踊るダンサーを見て、アタシたちもあんな風に観客を沸かせて、歓声をもらいたい、って思ったね」
聡恵は二人の気持ちを何となく理解できた。何かをする目的は人によって異なる。自分だったら身内だけで楽しく踊っていれば満足だと思うが、コンテストで実力を競い、高みを目指すためにダンスをする人もいれば、優佳と玲のようにショーで観客を魅せるためだけにダンスをする人もいる、というわけだ。
「まあプロ目指してるわけじゃないけど、マジだから」優佳は凛とした表情で告げた。「明日は、前みたいな悔しい思いは絶対したくない――」
優佳と玲がダンスに対して真摯であることは、練習中の姿勢からよくわかっていた。それだけに、初めてのショーで経験した悔しさは計り知れないものがあったのだろう。いまはもう次のショーでリベンジするべく熱意をたぎらせているが、そう易々とは切り替えられなかったはずだ。
そこでふと、ある考えが聡恵の頭に浮かんだ。
「もしかして、その悔しさからあの書き込みを――」
そこまで口にして、聡恵ははっとして固まった。それはKPSの団員として、対象を積極的に探ろうという意図ではなく、まさに無意識に口をついて出てしまったものだった。
聡恵の不用意な発言により、ここだけ周りの喧騒から切り取られたようにしんと静まった。優佳の表情は戸惑いのものへと急転し、玲は気まずそうに目を泳がせている。
「ごめんなさい……」
聡恵はすぐに謝罪した。しかし、これまでの仲が壊れてしまうほど取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、聡恵は血の気が引く思いだった。
「……そういや、聡恵とユーコーはその件が知りたくて、わざわざ私に会いに来たんだっけ」
そう言って、優佳はぎこちないながらも笑みをつくってくれた。おかげで聡恵は大いに救われた思いだった。
「でも、それとダンスは全然関係ないよ。さすがに、ダンスショーがそんな甘くないのはわかってるから。私らみたいな、プロからしたら素人同然なチームの初めてのショーが、いきなりうまくいくわけないし。最悪ブーイング受ける覚悟もしてた。でも現実はさ、ブーイング以前の話で、きちんと見てさえもらえなかった。それが悔しかったの。だから、ユーコーをチームに引き入れるっていう強引な手を使ってでも、観客の気を引きたいと思ったわけ」
優佳の話は、いきさつがきちんとつながっていて出鱈目さは微塵も感じられなかった。ショーでの悔しさから、例の書き込みをしたわけではないということは間違いないようだった。
「そうだったんですか……軽率な考えでした。本当にすみませんでした」
聡恵は頭を下げた。それで、この居心地の悪い空気をすっかり打ち消そうとした。
だがそこへ、ユーコーが明け透けに突っ込んだ。「じゃあ、なんであんな書き込みしたの?」
「ちょっと、まだこの話題引きずる?」
しかめ面をした玲がきつい口調で言い放った。
ユーコーは肩を竦めた。「だって、優佳は話したくないとは言ってないし……いやもちろん無理に聞こうとは思わないけどさ」
聡恵はユーコーに横目で冷ややかな視線を送った。「そんなの、言わなくてもわかるでしょ?」
険悪な雰囲気をつくった張本人である自分にとやかく言う資格はないとは思うが、全く空気を読まないユーコーにはさすがに苛立ちを覚えずにはいられなかった。
そのとき、クスっというその場に似つかわしくない音が聞こえた。見ると、意外にも優佳の顔に自然な笑みが湛えられていた。
「ユーコーって変わってる」優佳は言った。
「そうかな?」ユーコーは困惑交じりの笑みを返した。
「――悪いけど、そのことについては、今は話したくない。明日に集中したいし」優佳は真顔に戻って言った。「みんなで、絶対明日のショーを成功させよ? そしたら……打ち上げの時にでも、あの書き込みのこと、笑い話をするくらいな感じで話してあげられると思うから」
ユーコーは微笑して頷いた。「わかった」
明日のダンスショーにかける思いは、いまやチームで一つになっていた。練習を重ねるうちに、いつしか聡恵も、おそらくユーコーも、ショーを成功させてみせるという優佳と玲の情熱を共有するようになっていた。そこにはもはやKPSの理念は関係なかった。不安はあるけれど、自分の力を信じて精一杯やりきろう。