第五話 接触
聡恵は受付で借りた有名スポーツブランドのジャージに着替え、二階のダンススタジオに入った。入って右手の壁は全面鏡になっていて、その反対、ビル正面側は大きな一枚のガラス張りになっている。天井にあるいくつもの白色の照明が部屋全体をまばゆく照らし、動き回る生徒たちの影を散らばせていた。
聡恵は、レッスンをしている集団の邪魔にならないようにそっとスタジオを横切り、隅でストレッチをしているユーコーの傍で腰をおろした。
「あれ、すごいね。あんな動き真似できないよ」
聡恵はインストラクターの手拍子に乗って踊る生徒たちの様子に見とれながら言った。手足をしなやかに、滑らかに動かしていて、見ていると小気味が良かった。
「サトちゃんも練習すればできるようになるって。あんな風に踊れるようになったら、きっと爽快だよ」
ユーコーは前屈をしながら言った。膝が曲がっていない状態で、額が膝にぴったりついている。聡恵もそれを真似ようと試みたが、爪先に手の指先をひっかけるだけで精いっぱいだった。
しばらくユーコーのストレッチの真似をしていると、三橋がやってきた。
「お待たせ。隅っこで申し訳ないけど、始めようか」
ユーコーと聡恵は立ち上がって、よろしくおねがいします、と一礼した。
「あの」聡恵はおずおずと申し出た。「私、運動苦手なんで……お手柔らかにお願いします」
「大丈夫、まかせて」三橋は笑って頷いた。
そうして、三橋の体験レッスンが始まった。教わったのは、両足を交互に前へ蹴り出す動作を繰り返すものだった。それだけだとたいした見栄えにならないが、一方の足を蹴り出している間に、軸足を地面を滑らせるようにして後ろに下げるという動作が入ることで、それらしい動きになる。これはヒップホップダンスの基本ステップで、『ポップコーン』と呼ばれているらしい。
聡恵は三橋が見せてくれた手本を真似てみたが、ぴょんぴょん跳ねながらキックをしている自分の姿を鏡で見ると、不格好で情けなく思えた。
「オーバーでもいいから、軸足はしっかり後ろに滑らせて。そこから膝をしっかり曲げて、前へ蹴り出す感じ」
三橋に手取り足取り教わりながら、聡恵は練習を繰り返した。ユーコーは呑み込みが早いらしく、すんなりとできるようになったので、聡恵が手こずっている間、レッスン中の他の生徒の様子を見ながらその動作の真似をしていたようだった。
三十分ほど練習して、聡恵はようやくコツを掴むことができた。動作はゆっくりではあるが、ダンスと呼べるくらいにはなっていると思う。
「うん、だいぶカタチになった」三橋はうれしそうに頷いた。「あとは速くできれば完璧ね」
「これでも初歩的な動きなんですよね。難しいです……」聡恵は膝に手を当てて言った。
「この動きができるようになれば、いろいろ応用がきくわ。どう? 楽しかった?」
「そうですね……思い通りに動けるようになるのは楽しいですね」
「上半身も使って踊れたら、もっと楽しくなるよ。こうやってね」
三橋は別の生徒達のレッスンで流れているBGMに合わせ、『ポップコーン』に腕の振りを合わせたものを披露した。さすがプロ、という感じで格好よかった。
少し離れた場所で踊っていたユーコーが近寄ってきて言った。「楽しいと思うなら、続けてみるといいよ」
「うん、ぜひ」
三橋は聡恵に笑いかけたのち、ユーコーの顔を見て片眉を吊り上げた。
「あなたには教えることが無かったわね……見た感じ、ダンスの経験あるんじゃない?」
三橋の問い詰めるような視線に耐えかねたのか、ユーコーは申し訳なさそうに苦笑した。「――まあ、実は」
「え、そうなの?」聡恵は驚いた。
「うん。ニューヨークにいた時に、ブレイクを」
「へえ!」三橋の目が輝いた。「ちょっと見せてみてよ」
ユーコーは少しためらう仕草をみせたが、
「しばらくやってないんで、失敗するかもですけど。じゃあ――」
そう言って、シャツの袖をまくった。
ユーコーは木の床に両手をつき、軽やかに両足を上へ持ち上げて逆立ちの姿勢になった。そして、まるで手が足に成り変わったように軽やかに飛び跳ね、身体を回転させ始めた。すばやく回転していたかと思うと、突如動きを止めて、片手をついて下半身をくねっと曲げてポーズをとる。それから背中の上のほうを床につけ、そこを軸にして身体を激しくスピンさせた。テレビなどでも見かけることのある、これぞブレイクダンスという動作だ。それから、仕上げといわんばかりに、エビ反りの姿勢から勢いよく飛び上がって、鮮やかに両足で着地した。
「ブラボー!」
三橋が拍手とともに驚嘆の声を上げた。いつのまにか、レッスン中だった生徒たちもこちらに見入っていたようで、そちらからも歓声が上がっている。
「ありがとうございます」
ユーコーは照れくさそうに頬を人差し指でかいた。
聡恵はあんぐりと口を開けたまま、言葉が無かった。テニスもうまかったらしいし、色々と引き出しの多い人だ。いったいあとどれくらい器用な特技を持っているのだろう。
「もしかして、ダンス留学してたの?」三橋は興奮気味に問いかけた。「ニューヨークって言ったら、ブレイクの本場だし」
「いや」ユーコーは首を横に振った。「ただ成り行きでやることになっただけですから。まあ、けっこうハマりましたけどね」
「成り行き、ねえ……なんだかもったいない気がするけど」三橋は髪をかきあげ、腕を組んで壁にもたれた。「それだけ踊れるんだもの。そりゃアタシが教える事なんてないわね」
「そんなことないですよ。あの子たちが踊ってるようなポップダンスは経験ないんで」
言って、ユーコーはレッスンに戻った生徒たちのほうを振り向いた。
そこで、ユーコーの動きがぴたりと止まった。
三橋もユーコーの視線を追う。そして、「あ」と声を発した。
「優佳、来たわ」
見ると、艶のある長い黒髪を携えた女性が、こちらに近づいてきていた。
その人物こそ、横江優佳だった。写真でも美人だと思ったが、実際に見てみるとより瑞々しく見えた。芸能人を見かけたとき、よくテレビで見るよりも綺麗だったと言われることがあるが、それと同じ原理かもしれない。
三橋が声をかけた。「こんばんは、優佳」
「こんばんは――」
落ち着いた声色で呟いた横江の視線は、ユーコーに向けられていた。
「ミツさん、その人は?」
「ああ、この子たち、優佳に会いにきたんだって。でも優佳が来るまで時間があったから、体験レッスンを受けてもらってたの」
「私に会いに?」横江の表情が変わった。眉をひそめて、ユーコーと聡恵に険のある視線を送る。「知らない人みたいだけど……」
ユーコーが横江の前に歩み出た。「突然おしかけてすみません。俺は、風山っていいます」
聡恵もユーコーの横に並んで言った。「私は、花菊です」
横江は、こちらを警戒するような表情のまま目礼した。
ユーコーが言った。「ちょっと、横江さんの気になる噂を耳にしたので。会って話を聞きたかったんです」
「噂……?」
「あなたが前にパシェに書き込まれた件です。何か悩みがあるんじゃないですか?」
ユーコーが直截的に用件を切り出すと、横江の顔に明らかな困惑のいろが浮かんだ。
「そんな話、どこで……」
聡恵は事情を説明した。「私、横江さんと同じ大学なんです。新入生ですけど。二年の人から聞きました。内部生の人たちのあいだで、噂になったみたいで……」
「だから、もし悩みがあるのなら力になりたいんです」
ユーコーが意気込んだ声で言うと、横江は俯いたまま黙ってしまった。
そのまま、しばらく沈黙が降りた。隣のレッスンの喧騒がよそよそしく響く。
やがて、やり取りを怪訝そうに見つめていた三橋が声をあげた。「あ、玲。こんばんは」
「どうも。今日は新しい人が来てるの?」
黒のスウェット姿の金髪のボブカットの女性が、こちらへやってきて言った。今日のメイクは写真より控えめだったが、野本に間違いない。
三橋が答える。「ううん、この二人はなんかワケありで、優佳に用があるみたいなの」
野本は不審そうにユーコーと聡恵を眺めると、横江に「知り合い?」と、耳打ちした。
横江は俯いたまま首を横に振った。
「――優佳に何の用?」野本は尖った口調でユーコーに言った。
「野本さんですね。初めまして、風山です」
ユーコーは柔和な表情で応対し、聡恵に向かって右腕を拡げた。
「彼女はうちのスタッフの花菊です。昨日、パシェであなたとメッセージのやりとりをしたコです」
「昨日って……」
そこまで呟いたところで、野本は事情を察したようで、聡恵をきっと睨み付けてきた。
「アンタ、まだわかってなかったの? どうやって調べたのか知らないけど、こんなとこまで来て、優佳も迷惑してるって!」
ものすごい剣幕でまくしたてる野本に、聡恵は思わず後ずさりしてしまった。
ユーコーが野本の前に立ち、フォローに入った。「まあ落ち着いて。俺が頼んだんです」
「アンタがヘンな組織の代表? 迷惑だから、早く帰ってよ。これからレッスンがあるんだから」
野本は興奮冷めあらぬという感じだった。
「わかりました。それじゃ、レッスンをしてもらってかまいません」
意外にも、ユーコーはあっさり身を引いた。
「……ミツさん、はじめましょ」
吐き捨てるように言って、野本はぷいと背中を向けた。
三橋は困った表情で腕を組んだ。「そうね……じゃあ、体験レッスンはここまでってことで――」
「待って」
その声に、野本が振り返る。
声の主は、横江だった。
「今日はその人たちも一緒にレッスンしてもらうってのはどうかな?」
いったいどういう風の吹き回しでそんな提案が出るのか、聡恵は理解できなかった。ユーコーも同じ思いらしく、目をぱちくりさせている。
「はあ? ふざけてんの?」野本は、今度は横江に噛みついた。「せっかくミツさんにつきっきりのレッスンしてもらってるのに、時間がもったいないでしょ?」
「わかってる」横江は冷静に言った。「けど、その人がさっき踊ってるとこを見たんだけど、すごいの。目を奪われるって、こういうことを言うんだと思ったくらい」
「この人が……?」
野本は疑いの眼差しでユーコーの姿を検めた。ユーコーは苦笑いで応じた。
「でもだからって、なんで一緒にレッスンする必要があんの?」
野本のその問いには答えず、横江はユーコーと向かいあった。
「あなたが何者なのかは知らないけど、すごいダンサーだってのはわかる。こんなこといきなり頼むのはおかしいとは思うけど……私たちと一緒に、ステージに上がってくれない?」
ユーコーは、きょとんとした顔を聡恵に顔を向けてきた。聡恵は肩をすくめてみせた。本当にいきなりの申し出だ。
「ちょっと優佳、マジでなに言ってんの?」野本は唖然とした顔で横江に詰め寄った。
「次のショーでは絶対注目されたいの」横江は強い口調で言い放った。「玲だってそうでしょ?」
「それは、そうだけど……」言って、野本は口を噤んだ。
すると、ユーコーが聞いた。「二人は、ショーの経験があるんだ?」
横江は頷く。「まだ一回しか出てないんだけど。その最初のショーで、観客に見向きもされなくて……」
そう言って下を向いてしまった横江を代弁するように、三橋が言う。
「優佳と玲は、コンテストで入賞するくらいの実力はあるの。でも、クラブでのショーイベントとなると話は別。有名ダンサーがいるとか、よっぽどのインパクトが無いと、オーディエンスにそっぽを向かれることもあるワケ」
横江は再びユーコーの顔を見た。「だから、何としてでも目立ちたいの。あなたのダンスなら一瞬でお客さんの目を引けると思う。そしたら、私たちのダンスだって見てもらえるはず――」
「まあ、ブレイクは派手だからね。優佳の考えもわかる。でも、彼に全部持ってかれる可能性だってある。それでもいいの?」
三橋の指摘に、横江は「それは……」と、言葉を濁した。
すると、ユーコーが陽気に口を開いた。「じゃあ、ショーの出だしだけ、派手にやって注目を集めるよ。あとは君たちのバックで踊るってことで」
横江の表情がぱっと明るくなった。「いいの?」
ユーコーは頷いた。
そして、思わぬことを口にした。
「それから彼女――サトちゃんも一緒に出させてくれないかな?」
一同の視線が聡恵に集まる。
「え、なんで? 私なんか下手だし、邪魔なだけだって」
焦りで手を顔の前でバタバタさせながら、聡恵は訴えた。
ユーコーは呑気に言った。「下手とかうまいとかじゃなくってさ。みんなで何かに向かって一緒に頑張るって、きっと楽しいし、仲を深めるいい機会だと思うんだ。ほら、俺たちだって知り合ってまだ短いしさ」
ずるい――そんなこと言われたら、もう断れない。
聡恵は睨むような視線をユーコーに送った。それに恐れ入ったのか、ユーコーは「まあ、どうしても嫌なら仕方ないけど……」と、ぼそぼそと付け加えた。
ダンスショーに出るなんて、自分からは絶対しない。第一、人前に出るのは大の苦手なのだ。幼い頃習っていたピアノだって、発表会が嫌で拒んでいたくらいだ。
でも、アグレッシブなユーコーと関わる以上、苦手なことに挑戦しないとやっていけないような気がする。それに、横江さんと仲良くなれれば、彼女の心の問題について聞き出しやすくなるかもしれない。
聡恵は意を決し、小さく息を吐いた。
「頑張ってみるけど……難しいことはできないからね?」
聡恵は周囲に聞こえるように言った。
「私は別にかまわないけど。玲は、それでいい?」
横江が野本に聞いた。最終決定は野本に委ねられたようだ。
「てかさ……」言って、野本は少し間をおいた。「その人、そんなにすごいの?」
横江は首肯した。「見ればわかるよ」
「じゃあ悪いけど風山さん、もう一回パフォーマンスしてやってくれない?」
三橋が依頼した。ユーコーはそれに笑顔でうなずいた。
アンコールを受けたユーコーは、さっきよりノリにノったという感じで、動きの派手さが増していた。宙返りしてから右腕でしなやかに着地する動きなんかは、どうしてケガをしないのか不思議なくらいだった。
ユーコーがパフォーマンスを終えると、歓声が再びその場を包んだ。
「ほんとプロ並み! 文句ないわ!」野本は興奮をあらわにして言った。
三橋が笑う。「決まったみたいね」
そうとなれば、とにかく練習しなくては。聡恵はやると決めたからには足を引っ張りたくなかった。
「ショーって、いつなんですか?」聡恵は横江に聞いた。
「次の日曜」
「ええ?」聡恵は思わず驚嘆の声を漏らした。「そんな――間に合わないですよ」
「大丈夫。エントリーの締め切りは明日だから。早速、追加の申込みしてくる」
見当違いな答えを残して、横江はそそくさと行ってしまった。
聡恵は呆然とした。今日は火曜日だから――ショーまでは実質あと四日しかない。まさかそんなに直近だなんて。レベルの高いユーコーはいいとしても、自分には時間が無さすぎる。
そんな聡恵の心情を察してか、三橋が優しく肩に手を置いてきた。「あなたは、さっき教えたステップを完璧にしましょ? 大丈夫。バックダンサーとしてなら十分ステージに立てるわ」
「はあ、ありがとうございます……」聡恵は悄然と呟いた。
まさかこんなことになるなんて――この先待ち受ける苦難を思うと、聡恵は背筋が寒くなった。
不安に駆られる聡恵をよそに、ユーコーは見るからに清々しい表情で汗を拭っていた。