第一話 初体験
喧騒に包まれた、渋谷のとある居酒屋の一角。男女が座敷の机を挟み、三人ずつにわかれて座っている。
「それじゃ、今日は彼女たちの初合コンを祝して、乾杯!」
ビールの入った中ジョッキを手にした長髪ポニーテールの男の声に続いて、全員が乾杯、と声をあげ、それぞれのグラスを触れ合わせていった。
乾杯の音頭のとおり、大学に入学してから一か月ほどの花菊聡恵にとって、これが人生初の合コンだった。同じく初参加だという、同じ学部のアイミとナユに誘われて、今この場にいる。こういった華やかな付き合いが苦手な聡恵は、ふだんは積極的にこういうイベントに参加しようとは思わない。だが、大学生にもなれば合コンをして当たり前、という半ば社会通念のようなものがあり、合コンしたことがないなどと言ったら白い目で見られるような風潮さえあるため、とりあえず経験しておこうという気持ちで誘いを受けたのだった。
ファーストドリンクを口にしながら、それぞれ簡単な自己紹介を終えると、歓談が始まった。
「いやみんなホント若いよね! だって一か月ぐらい前まではJKだったわけじゃん? マジやべえ!」
男性陣の真ん中に座る、短い金髪をツンツンに立てた男が言って、こちらを指差しながらゲラゲラと笑った。ピアスをつけた鼻が奇妙にぴくぴくと動いている。
「久々に新鮮な女の子にありつけたわ――あ、これ失言?」
座敷の奥に座った無精ひげの男がそう言って、赤のキャップをかぶった頭に手を当てて鳩のように首をへこへこと前後に振った。
「出会いなんてゴロゴロ転がってるけどさ、その分当たり外れも……ねえ? でも今回はマジアタリ! 初合コンの若い子達とできるなんてさ。オレたちも初体験気分、って感じ?」
通路側に座る、幹事のポニーテールの男が、セラミック治療を施したであろう真っ白な歯をチラつかせながら語った。ただでさえ目立つ筋肉質な腕には、色鮮やかなタトゥーが入れられている。
無精ひげの向かいに座る聡恵は、友人の反応を見ようと隣をちらっと見た。アイミもナユも屈託なさそうに笑っている。それを真似るようにして、聡恵も笑顔をつくった。
「若いっていっても、みなさんだって大学生なんですから、そんなに変わらないですよ」
女性陣の中央に座るアイミが、猫なで声で愛嬌をふりまいた。
「いやいや、成人迎えて、酒を知ると急激にトシとるんだって!」
鼻ピアスがアイミに人差し指を突き付け、酒焼けした声で叫んだ。
「いいじゃないですかあ、お酒。早く飲んでみたいですう」
ナユは上目づかいで、駄々をこねるような甘えた声を出した。
すると、鼻ピアスがいやらしい笑みを浮かべた。「じゃあ俺がお酒、教えちゃおっかなあ?」
「ダメダメ」ポニーテールが割って入った。「最近じゃお店も厳しいから。通報されるよ? 未成年の飲酒、ダメ、ゼッタイ! ってね」
「てか、そしたらココにいる時点でアウトじゃね?」と、無精ひげ。
「いやいや、俺みたいな良識ある大人がついてりゃ、オーケーオーケー」ポニーテールは大げさな口調で言った。
「――オッケー牧場?」
唐突に言って、無精ひげが得意げな顔で親指と人差し指で丸印をつくってみせた。
「お前、古すぎ!」
鼻ピアスが突っ込んだところで、一同にどっと笑いが起きた。
それから、しばらく取り留めのない話が続いた。男たちの酒も幾分か進み、やがて席替えをしようということになった。そうして、聡恵の隣にやってきたのは鼻ピアスの男だった。
「キミ、名前なんていうんだっけ?」鼻ピアスが聞いてきた。
「あ、ハナギクです」
「じゃなくって、下の名前!」
聡恵はおずおずと答えた。「サトエ、ですけど……」
「サトエ? ああ、やっぱね、ほかの二人とはなんか違うよね」
意味が分からず、聡恵が小首を傾げていると、鼻ピアスは別の話をしているアイミとナユを指さした。
「あっちは、カワイイ系?」
そう真顔で告げると、鼻ピアスは聡恵のほうに指先を変えた。
「で、おカタイ系?」
言って、鼻ピアスは下品な笑い声をあげた。
「おいおい、失礼だろ?」
話を聞いていたらしいポニーテールが参入してきた。フォローする台詞のわりには、面白がっているような、にやけた顔をしている。
「なになに、何の話ですかあ?」
アイミたちも興味を示したらしく、全員の視線が聡恵のほうに集まった。聡恵は身が縮む思いだった。
鼻ピアスが軽薄な笑いを浮かべたまま尋ねてきた。「サトエちゃんみたいな控えめな子はオレ、初めてなんだよね。どんな男がタイプなの?」
「私、別にタイプとか、そういうのは……」
聡恵は苦し紛れの笑顔をつくってやり過ごそうとした。
だが、無精ひげがしつこく首を突っ込んできた。「じゃあさ、俺たちの中で言ったら? もち、誰もいないってのはナシで!」
「え? ええと……」
聡恵は返答に困り、うつむいてしばらく考え込んだ。
そうしている聡恵の顔を下から覗き込み、鼻ピアスが口走った。「サトエちゃんって……処女でしょ?」
聡恵は面食らった。「な、何言ってるんですか!」
「じゃ、違うの?」鼻ピアスは執拗に聞いてきた。
聡恵は閉口した。鼻ピアスの指摘は事実だった。だがそれを他人に口外するなどとてもできなかった。別に男性経験がないのを恥じているわけではない。そのような事実をこの場で語るなど、恥の極みと思うのだ。
「――やっぱそうなんだ!」
何も言わない聡恵の様子から、勝手に事実と認定したらしく、鼻ピアスはシンバルを持ったサルの玩具のように手を叩いて面白がった。その場にいた一同からも驚き交じりの歓声が上がった。
「合コンだけじゃなくって、アッチの初体験もまだなんだ! やっべ、超レアじゃん!」あろうことか、鼻ピアスは大声で喚き散らした。
男性陣は顔を見合わせ、表情を緩ませきっている。助け舟を出してくれると期待したアイミやナユまでも、聡恵に好奇の目を向けているように見えた。
「でも、おしゃれに気を使ってないわけでもなさそうだし、けっこうカワイイと思うよ。すぐにカレシできるって、たぶん」
ポニーテールが聡恵をじろじろと眺めながら、申し訳程度のフォローを入れてきた。
「よかったら、オレがいろいろ教えたげよっか?」鼻の下を伸ばした無精ひげが聡恵をからかった。
聡恵は喉が詰まって、何も言えなかった。ただ、ひきつった笑顔で対応するしかなかった。怒りなのか、悲しみなのか、いま自分がどんな感情なのかもよくわからない。とにかく、一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
その後はどんなやりとりがあったかも覚えがない。聡恵の頭のなかは真っ白になっていて、まるで壊れたからくり人形のようにその場に佇んでいた。それを不気味に思ったのか、下衆な男どもの興味も失せたようで、聡恵に絡んでくることも無くなった。
そうして、ようやく店の予約時間が過ぎると、聡恵は重い足取りで店を出た。
「大丈夫?」ナユが心配そうな顔で聡恵にささやいた。「まあ、あんま気にしないで」
「うん……ありがとう」
「えっとね、このあとカラオケ行くけど、どうする?」
「ごめん……今日はもう帰るね」
聡恵は力なく答えた。こんな状態の自分が行っても困らせるだけだろう。
「そっか――じゃ、またね」
ナユは申し訳なさそうに言うと、そそくさとメンバーのいるほうへ駆けていった。そして、アイミとともに聡恵に向かって軽く手を振ってきた。聡恵もなんとか精一杯の笑顔をつくって手を振り返した。男たちは聡恵を気にかける様子もなく、アイミとナユを引き連れて、夜の街のなかに消えていった。
そして聡恵は一人、駅に向かって歩き出した。
帰路の途中、思い返したくもないはずなのに、先ほどの場面が頭の中で繰り返されていた。他のことを考えようと思っても、無慈悲な男たちの言動と、含み笑う同級生の顔が頭に浮かんで離れなかった。
下宿先のマンションに着くと、聡恵は真っ先にシャワーを浴びた。そして、誰もいないワンルームの部屋で、濡れた髪も乾かさぬままベッドに倒れこんだ。
とたんに、涙が堰を切ったように溢れ出た。