反撃のスライム
(……あ、うう)
牙を突き立てられてはいるが、やはりスライムには痛みはない。ただ、その代わりに激しい喪失感が押し寄せてくる。
大海原に流れ漂う小舟のように自身の感覚が曖昧になり、突き刺さる牙の合間からどろりと溢れる薄水色の体液と共に自我というものも損なわれていくみたいだ。
(死ぬんだ、私は。こんなところでーー)
果てのない喪失感の茨に身を縛られて、スライムの動きは止まる。
もはや抵抗する素振りもなく、ただ脱力に身を委ねる。
もう終わり。
無理だ。この程度の魔物にも負けるようでは、あの勇者には到底及ばない。
いや、最初から無理だったのかもしれない。
彼には、喰われることこそが相応しい弱肉強食下位のスライムにはこの終焉こそがお似合いなのだろう。
スライムは薄れ行く意識の中で諦観の境地に至る。
が、それと同時に別のことも思っていた。
(嫌だ)
彼の魔物としての本能はとっくに匙を投げていた。
それなのに……。
スライム自身の想いは、同化を直前にしても別のところにある。
(何もなすこともないままただ喰われるなんて……絶対に嫌だ)
体は動かない。魔力を喰われる喪失感に駆られて、スライムの体はもう動かない。
……そのはずだった。
「!!!」
不意にスライムの体から伸びた触手が、狼の眼球を貫き、そのまま奥まで強引に突き進めた。
「ガァアーー!!!」
狼の悲痛な声が一帯に轟いた。
何があったのか。
何をしたのか。
それはスライム自身にも分からなかった。
ただ、このまま喰われることだけは御免だと想ったスライムは、ほぼ無意識の内に自身の体の一部を伸ばして、狼に向けた。
それが眼球を穿ったのは、これまた偶然。
だが、自然界ではよく起きる、必然にも等しいほどの偶然である。
本来ならばスライムの攻撃など、この狼には通じない。
でも、それは普段の狼に関してのみの話だ。
今の狼は、スライムを喰らうことに夢中になっていた。
生き物は食事中は、無防備になる。
その刹那の間隙のせいで狼はスライムの最後の力を振り絞った攻撃に対応することができなかった。
「う、ガァア」
そして、スライムはその隙を逃さないとでもいうかのように狼の眼窩に押し込んだ体の一部から、まるでストローで中身を吸い込むみたいに狼の魔力を喰らう。ーーが、それは直ぐに振るわれた狼の前足によって断ち切られた。
「っ、うぎゅ」
ふらりとよろめく狼は、追撃が来るのを恐れてか一気に引き下がった。
(い、まだ)
狼が引き下がるのと同時にスライムもその弾力性を生かして、引き下がる。
(……え)
そこでスライムは驚いた。
ぼよんと今までのように跳ねただけなのに少しだけ前よりも早く、そして高くなっていた。
(これは……)
スライムは狼に奪われた自分の一部を取り返すつもりだった。
ただ、それだけのつもりで狼の一部を喰った。
だけどどうやらスライムは思いの外、狼の魔力を多く取り込んだようで、僅かに自身の能力が上昇していた。
勿論、ほんの僅かに、だが……。
なので今このまま狼と戦闘を仕切り直したところでまた直ぐに同じ展開になる。
恐らく十回闘って十回とも負けるだろう。
だからスライムは直ぐに一つの結論を導き出した。
(逃げるなら今だ)
スライムはそのまま転がるように木々の合間を抜けてゆく。
逃げの一手。それこそが今の最善。
ちらりとスライムは後ろに意識を向ける。
追いかけてはきていない。
どうやら狼は眼球ひとつを失ったことで怯んで、その場で蹲っているようだ。
(……よかった)
スライムは木々の合間を落ちるように抜けてゆき、逃げ去った。