兵藤佐助は赤点を免れたい(起)
聞いていない。
聞いていないぞ、と兵藤佐助はいつになく焦っていた。
額にだくだくと汗を大量にかきながら、担任の出水泉からの言葉を脳で再生する。
『赤点を取った人は補習を受けて、再度試験をしてもらうからねー』
追試験。
定期試験において、合格点に満たなかった者が受けるものである。
四ツ谷高校の時は、馬鹿ばかりであったため、追試などあったらほとんどの生徒が受けるであろうため、そのようなことはなかった。補填として課題が課せられるくらい。
ただここは進学校。
補習と追試があるのは珍しくないだろう。
まあ姫ヶ丘の生徒は優秀な生徒ばかりであるため、受ける生徒はごく一部。
――否、それは過去形になる。
なぜなら現在、姫ヶ丘には粒揃いの馬鹿がいるのだから。
「やっべー無理だよ」
「ほんとそれな。まじ無理ゲー」
赤点を取った際の処置を聞かされ、男子たちは例外なく意気消沈していた。
ご多分に漏れず、一番前の席の少年もまた同じ。
(どうするどうする。一夜漬けとか言っている場合じゃねえぞ)
基本、定期試験の時、佐助は前日に寝ないで勉強をして臨む。
げっそりと、ものすごい目の下にクマを作って。
今回も同じようにしようと考えていた彼だったが、それじゃあ無理だと悟る。
(だって、確か中間でもめっちゃ科目あったよな……)
今回は9科目試験がある。
古典、現代文、数学1、数学A、英語、ライティング、生物、地理、世界史。
高校によって科目が違うのは当たり前だが、四高時代は5科目程度であった。
まず数が違う。
そして難易度が違う。
三日間みっちりやるので三徹は厳しい。
(うーわ、これ……まじで無理だろ)
最低限の配慮として、姫ヶ丘の女子生徒とはレベルを下げた問題を男子生徒には出される。内容こそ同じであるが、問題などが易しく作られたものだ。そうであったとしても、四高などとは比べものにならないくらいのレベルであるのは間違いない。
(一週間でなんとかするしかねえ)
だって補習でもしてみろ。
(放課後の生徒会に出れないことで迷惑をかける+勉強できないことで十条の俺への評価が下がる!)
である。
どういうわけか、生徒会長の十条聖寧から嫌われていると思っている彼はこれ以上自分の醜態を晒すわけにはいかなかった。
(とにかく、勉強だ。こういうちょっとした休憩時間も利用して勉強しないとやばい)
机の中に突っ込んである教科書類を取り出す。
「まずはノートでどこをやっているか確認を――」
白紙だった。
まっさらだった。
ぱたん、とノートを閉じる。
「ふう、やれやれ。じゃあこっちは――」
落書きしてあった。
下手くそな絵だった。
ぱたん、とノートを閉じる。
「これはちゃんと受けたはず――」
文字が書いてはあったが、途中からなにを書いてあるのかわからなくなっていた。
完全にうつらうつらと舟をこいでしまったということだろう。
「…………ふっ」
詰んだ。
不真面目すぎる自分のせいで詰んでしまった兵藤佐助。
(どうしよう。同じクラスの男に頼んだって同じだろうし。小十郎は別のクラスだからいろいろと違うところがあるだろうし……)
ああ、補習確定だと彼が項垂れた時だった。
「大丈夫、兵藤くん?」
隣の女子生徒から声をかけられる。
可憐な瞳が儚げに揺れ、愛らしい容貌が心配そうにこちらを窺っていた。
髪をひとつにまとめ、どこか控えめな様子が彼女の性格を表しているかのよう。
「ああ、いや……。悪い、変なところ見られたな。気にしないでくれ」
隣の席になった有栖川莉々珠だ。
特に仲が良いというわけではなく、事務的な会話しかしたことがない。
佐助の印象としてはあまり積極的に話すようなタイプではないと認識している。そんな彼女が勇気を振り絞って話しかけたのは容易に想像がつき、自分がそれほどやばい顔をしていたのだということが同時に知る。
「そう、ならいいけど」
心配無用だと告げると莉々珠は次の授業の準備を始める。
至って真面目な彼女は特に友達と話すということはせず、次の授業の予習をしていた。
こういう生徒は珍しくないし、もはや慣れたものだ。
(けど、有栖川は中でも一番真面目だよなあ。ほら、ノートとかきっちり――)
盗み見ていた佐助はそのノートを見て、閃く。
「なあ、有栖川!」
「ひゃいっ!?」
いきなり名前を呼んだことで幽霊に遭遇したみたいな反応をされる。
「悪い。そんな驚かせるつもりはなかったんだ」
「あ、うん。こっちこそ驚いてごめん。……わたしになにか用?」
まだ緊張している彼女は、どこか上ずった声で聞く。
「その……有栖川のノートを写させてくれないかな?」
単刀直入に言うと、莉々珠はきょとんと目を瞬かせて、固まる。
「いや、すげえ言いにくいんだけど、俺って結構授業中とか寝たりしてて板書してなくてさ。今確認したら全然書かれてなくて。でももうすぐテストだろ。それで有栖川がよかったら、ノートを見せてくれないかと……。あと図々しいかもだけど、テストに出そうなところとかも教えてもらえたら嬉しい、んだが」
「ああ、そういうこと。いいよ」
「だよな、そんなの自業自得だよ――いいの!?」
特に仲良くしていたわけでもない相手なので断られる前提で話し始めてしまった彼は、あっさりと承諾されたことに驚きと嬉しさの同居した声が上がる。
「うん。それくらいなら全然。テストのこともわたしがわかる範囲なら協力するよ」
「まじでいいのか?」
「いいよ。赤点取ったら放課後に補習受けなきゃだもんね。兵藤くんは生徒会に入っているから受けたくないんだよね?」
「ま、まあそれもあるんだけど……。ただちょっと私的すぎる理由でもあるんだが」
言いにくそうにする佐助に莉々珠はくすっと小さく笑う。
「兵藤くんって結構積極的なのに、意外と相手のこととか慮る節があるよね。わたしがいいって言っているからいいのに」
「え、ああ。おもんぱか……る? なんだかよくわかんねえけど、いいってことだよな」
「うん。今からじゃあ難しいから、昼休みとかにする?」
「おう、そうしよう。ありがとな」
約束を取りつけたところで予冷が鳴り、担当の先生が教室に入ってきて授業が始まった。
――
図書室。
本が雑多に並び、卒業生などから贈られてくることでその蔵書量は計り知れない。
毎日入ってくる雑誌や新聞、自己啓発本や参考書、専門書や小説などジャンルは多岐にわたる。
図書委員がカウンターで仕事をし、周りの生徒たちは本を読んだり、勉強をしたりと各々静かに取り組んでいた。
「なんで国語とか数学とか英語でひとくくりにしないんだろうな。面倒くせえ」
「大まかに分けるとそういうくくりになるんだろうけど、やっている内容が全然違うからね」
ただの佐助の愚痴にも対応してくれる莉々珠。
優しすぎるそんな少女を前にしたら、自分の愚かさが身に染みてくる佐助だった。
「でもまじで助かるわ。貴重な休み時間に俺の勉強見てくれるとか」
「ううん、全然。わたしも勉強するつもりだったから」
教室ではなにかと騒がしいということで昼食を摂り終えたふたりは集中できるであろう図書室に来ていた。
「ほんとか? でも俺の勉強に付き合っているだけじゃないか?」
「教えるほうも勉強になるんだよ。一石二鳥ってやつ?」
「なるほど。なにはともあれ、助かる。ありがとな」
「今日だけで何回もお礼言われている気がするんだけど……」
ふたりして笑うと周囲から視線が集まったように感じ、互いに両手で口を塞ぐ。
「とは言っても、わたしも嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
ひととおり笑いが止まると莉々珠がぽつりと言葉をこぼす。
「うん。わたしってあまり友達とかから頼られることなかったから。こうして兵藤くんに頼られたことが嬉しかったから引き受けたの」
「そうだったんだ。でも有栖川くらい真面目なら頼る人いると思うけど」
「ううん、真面目って言っても友達に比べてわたし、あまり成績よくないから。一年生の一学期なんかいっぱいいっぱいで……。二年生になった今ではそれなりに平均以上はとれるようになったけど、それでもまだまだで」
有栖川莉々珠の成績は下の中くらいの平凡以下の生徒だ。赤点を取ったことだってある。
姫ヶ丘学園に入学できたのも奇跡と呼んで差し支えない。
一年生の頃などは何度挫折して、転校しようと思ったか。
けれど、彼女は強い子だった。
努力を怠らず、真面目に授業を受けた結果、ようやくついていけるようになった。
そんな彼女がだれかから頼られたのならば、それに応えたいと思うのは普通だろう。
なによりも自分と同じような境遇であろう彼のことが放っておけなかった。先ほど声をかけたのだってそうだ。彼が困っていそうだったから。
「こんなわたしでもなんとかなったから。兵藤くんもきっと大丈夫だよ」
「こんなわたしって言うけどさ、有栖川みたく努力できるやつはそういないと思うぞ」
自分を卑下する少女へ佐助は言う。
「このノートだって、黒板に書いてあることだけじゃなく、先生が言ったことや自分で重要だと思うことにチェック入っているし。わからない言葉とか調べて書かれてたり、付箋を貼って区分ごとにわかりやすくしたり、字とか図とかめちゃくちゃ綺麗で見やすい」
人のノートと比べるようなことではないが、ここまで丁寧なノートというのはあまりないだろう。普段の授業からここまで取り組む生徒というのは珍しい。
なにもだれでもよかったわけではない。
たまたまではあったものの、このノートを見たからこそ、佐助は彼女を頼ったのだ。
「自信持っていいと思うぞ。こんなすげえことしてるんだから」
「あ、ありがとね、そう言ってくれて」
こういうことを言われることに慣れていない莉々珠は頬を赤く染める。
すると佐助はどこかバツが悪そうに彼女から視線を外す。
「つーか、そんな努力している有栖川を利用しようとしている俺ってちょっとあれだな」
「利用だなんて」
「言ったろ。結構、私的な理由があるって」
理由を告げれば莉々珠はあまりいい気持ちはしないだろう。けれど、このことを言わなければ失礼に当たる、佐助はそう思ってしまったのだ。
「俺さ、十条にいいところを見せようとしているんだ」
「え、十条さんに……?」
「ああ。その……いろいろあって、十条からの印象がすげえ悪いみたいで。これ以上悪く思われたくないんだよ。生徒会でもあんまりいいところ見せれてなくて、ここでも駄目だったらって思うと……。だから、俺。十条にやるじゃんって思われたいんだ」
ただ赤点を逃れたいというわけではない。
そこにはあまりにも褒められたような理由は存在していない。
律儀に彼は言い、もう一度彼女に問う。
「こんな俺だけど、教えてくれないかな?」
断られることも覚悟で頭を下げる佐助の前では莉々珠の思考がフリーズ寸前だった。
(んん……? 十条さんにいいところをってなにどういうことなの? そのまんまってことではないはず。だって兵藤くんからは罪悪感にも似たような感じが窺えるし……)
いや、兵藤佐助はそのまんまの意味で言っている。
(やっぱりいいところを見せたいっていうのは……格好良いところってことで、つまりは兵藤くんは十条さんに格好良いところを見せたいという意味で……だから――)
彼女は人を好きになったことがなかった。
恋愛というものがあまりわかっていなかった。
(自分の色恋にわたしを利用してしまう――だから兵藤くんはそんなことを……)
兵藤佐助は十条聖寧が好き。
有栖川莉々珠の中でもうそれは確定してしまった。
でも、と彼女は思う。
(言えない。わたしも姫ヶ丘学園に入りたいがために勉強した理由が、ただここの制服に憧れただけだったなんて!)
姫ヶ丘学園の制服はセーラー服である。
清楚な白を基調としたもので、丸みのある小さな襟に赤いリボンタイ。
めちゃくちゃ憧れだった。近場じゃあ、ここくらいだった。
「教えるよ」
有栖川莉々珠は言う。
勉強をやるのに、理由なんてどうでもいいとばかりに。
「わたしは全然そういうのアリだと思う! むしろ応援する!」
任せてと親指を立てる。
これまで以上にどこか頼りのある彼女に佐助はただただ嬉しかった。
(こんな俺のために協力してくれるとか、なんていいやつだよ!)
やはりいつもの出来事は変わらず起きる。
まあ。
なにはともあれ、佐助の試験勉強は始まった。




