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「君は、潔癖症なだけだ、山根木君」
柴田が断定する。
「ものは言いようだ」
山根木は否定した。
「声を張り上げ、官憲に立ち向かうだけが表現方法ではないと、君自身さっきそう言ったではないか。ペンは剣よりも強し、なのだろ?」
「……」
柴田は台所へ行き、勝手知ったるなんとやらで、コップに水を入れて戻ってくる。それを山根木に差し出した。
「頭を冷やしたまえ」
「……」
「生活すべてを小説に活かそうとつなげて考えてしまうのは、君たち物書きの習性だ。それを悪いとは思わない。しかしそうと自覚し、認め、あまつさえ疑わないのも問題だ」
「どういう意味だ?」
今度は柴田が山根木を促し、二人一緒に腰をおろした。
「その彼女、やはり君は恋に落ちたのだと私は思う」
「だからッ」
気色ばむ山根木を押しとどめて、柴田はできるだけ客観的な言い方を選んで、聞かせた。
「色恋沙汰に不慣れな一人の男が、一人の女性にひと目惚れをした。男は一方で物書きの卵でもあったので、その女性に創作意欲をもかき立てられた」
柴田は一旦言葉を止めて、口を噤んだ山根木をちらりと見た。
続けてもだいじょうぶ――ちゃんと話を聞く姿勢であることを確かめた。
「君はあくまで小説家を目指しているのであって、まだ小説家ではない。卵でしかない。だから君は、男としての自分と、物書きとしての自分の境界に、はっきりと線引きができないのだ。何もかもを小説につなげて考える作業は日常的に自然に行われているので、その状態が自分というものだと錯覚している。ゆえにそれが正しいかどうかなど疑わない。疑わないからこそ、実に清々しく自己を否定し、自分の本性を見た気になったのだ」
「…そう、なのか?」
目から鱗が二枚半くらい落ちたような顔つきで、山根木は視線を彷徨わせる。
友人の言うことが真実だったらいいのに、ではなく、本当にそんな単純なことなのだろうかと、むしろ疑いを深くした表情が面に出ていた。
しかし半面、話してくれているのが柴田だというのも、山根木にとって変に信憑性があった。
何しろこの男は嘘は言わない。相反する可能性を並べることはあっても、物事を騙ることはしない。彼にある浪漫的要素が古典に落とし込まれる一因が、もしかするとこういうところにあるのかもしれなかった。
――だから、山根木の不確かな疑問に、さあ、と応えが返ってきたとき、一瞬きょとんとしたものの、この突き放したような反応がなんとも柴田らしいと思ったのである。
「畢竟、私にそう見えただけの話にすぎない。君の本性やら深層心理やら、そういった煩雑なものは友人といえども、他人である私の与り知らぬことだからね」
さらにこんな身も蓋もないことを言われてしまうと、いやでも肩の力が抜けていく。
「勝手な」
本当に勝手な男だ。勝手に家に上がり込むし、勝手にひとの小説(書きかけ)を読む。勝手に相手を分析して語るくせに、微塵も己の発言に責任を持とうとしない。これほど不愉快な人間もないのに、どうしてだか柴田が言うと正しいのか、正しくないのか、いっそどうでもよくなる。
何も解決などしないのに、気分は妙に晴れやかなほうへ導かれていく。
この忌々しいまでの勝手さ加減が、山根木をして好ましく感じられた。きっとそれが一番腹立たしいのだ。
「君の友人としてはちょうどいいさ」
「ほざけ」
「何はともあれ、悩み苦しむがよろしかろう。戦争にしたって、結局私たちは当事者ではないからなんとでも言えるのだ。それにその恩恵に預かっているからこそ、君は――私もだが、こうして瑣末なことにのた打ち回っていられる」
「辛辣だね、君は」
「口先だけさ」
苦笑するしかない場面で、山根木は表情筋を制止するような愚を犯さなかった。
柴田のような友人を持ったことは幸か不幸か。
少なくともこの先の人生で、二度と現れないタイプの人間であることだけは、わかりすぎるほどわかっていた。
「さて、非建設的な話はここまでにしよう。ここからは建設的な話だ」
「終わりじゃないのか?」
「愚か者。自分の小説が一頁目で止まっていることを忘れたか」
「だから僕は書けないって…」
「つまり私は、これ以上、一人で悩むのは時間の無駄だと言っているのだ。乱歩も横溝も今すぐ捨てろ。ついでに変な卑屈さもだ」
「いや…でも――」
「当代の社会風潮を映すばかりが小説ではない。源氏を見ろ、雨月を見ろ。馬琴も近松も読んだことがあるだろう。君はただ、自分の気持ちの赴くまま書けばいいんだ」
「気持ちの赴くまま…」
「その先にいるのが乱歩だろうと横溝だろうと、それは単なる結果で、ただの結末だ」
「……」
「もっと素直に――赤裸々に、恋愛について書いてみたまえ」
三度目の沈黙はさきの二度よりも軽やかな鱗粉を振り撒いていた。
軽やかすぎて、山根木はたまらず噴き出してしまい、十五秒は笑い転げた。
「そんなこと言ったって、つまるところ君は、個人的に、坂の上の彼女が気になるだけだろ」
「この面白味のない文字の羅列はともかくとして、な」
言ってろ、と山根木は笑いすぎて眦に浮かんだ涙を拭う。
勝手にな、と、柴田も意趣返しのつもりで同じ言葉を使って、負けじと切り捨てる。
見方を変えれば実に仲の悪そうな二人であった。
「――と、その前に」
何やら空気が和んできたところへ、柴田がはたと我に返る。
「鍋の火を止めてこなければ。筑前煮は明日の楽しみにとっておかなければならなくなったしな」
恐ろしいことをあっさり言ってのける友人に、山根木は驚愕した。
「火をつけっぱなしで来たのか!? このぼろアパートを燃やす気か!!」
もっともな叱責である。
ところが何故か柴田はこういう方面において反応がすこぶる鈍い。動じる心を母親の胎内にでも置き去りにしてきたのか、平然としている。
「だから今から止めてくると言った」
「普通は止めてから離れるものだ!!」
三百六十度どのから方向から見ても、正当性は山根木の悲鳴にある。
なんでこいつは変なところで常識が欠落してるんだと詰め寄るに先んじて、靴を履いた柴田がくるりと振り返った。
「そうだ。山根木君」
「なんだ! 早く行け!!」
「君の小説、私は嫌いではないよ」
まったく裏のない、本心からの笑みを残して、バタンとドアが閉まる。
不意打ちのセリフに呆気としている間に、隣のドアが開いて、また閉じた。
山根木は気をそがれて、文机に戻る。
書きかけの原稿用紙を手に取り、一字一字丁寧に目でなぞった。
今ならわかる。
マスのひとつひとつに嵌っている文字は確かに自分のものなのに、いつにも増して切羽詰まっていた。文字の端々から、自身が気づかずに持て余した感情が滲み出ている。
しばらく眺めていると、また笑いが込みあげてきた。
久しぶりに――本当にどれくらいぶりだろう。晴れ晴れとした気持ちで畳の上に大の字になった。
おわり
20170802
お読みくださり、ありがとうございました。
だからどうした、という感じの内容ですが、二人のやり取りを楽しんでいただければ嬉しいです。




