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「さて。私は誤魔化されないからな。いい加減坂の上の彼女について話したまえ」


 山根木の葛藤は知ってか知らずか――たとえ知っていたとしても、ここで斟酌するやさしさをわざと下水道に投げ捨てるのがこの男で――柴田は追及の手を緩めない。どことなく裁判官のような雰囲気を漂わせて山根木を見つめた。

 その視線にさらに一段といたたまれない気持ちを増幅させられ、山根木はフイッと顔をそむけた。


「……君はちょっと…勘違いしてる」

「勘違い?」

「君は僕が色恋沙汰で悩んでいると思い込んでいるようだが」

「違うと?」

「いや、端的に見れば違わないかも。僕は確かに彼女を二度見かけたし、図らずとも二度とも声をかけてしまった」


 そこまで言って、山根木は窺うような視線を柴田に寄越すので、柴田も同じく視線で続きを促した。

 欠片も引く気を見せない友人に内心項垂れ、微量ながら戸惑いの粒子を飛ばして、山根木は躊躇いがちに続けた。


「一度目も同じ坂だった。彼女は…なんて言えばいいのか、万人が振り向くような美女ではないが、すごく雰囲気のあるひとで、ひと目見た瞬間、僕の背筋を何かが駆け抜けていった。その…たとえるなら…滾るような熱さと、震えるような冷たさを共存させた、何か…」

「…それはまた、随分と即物的だな」


 この場合、あっけらかんと言われたほうが恥ずかしいのか、それとも親身になってくれる態度のほうが恥ずかしいのか。

 どちらにせよ意志の力では顔が赤くなることを制御できない。穴があったら入りたいとはこのこと。山根木は柴田の視線から逃れるように、文机に向かってドカッと腰を下ろした。


「はっきり言ってくれる」

「言葉を美麗に飾り立てても仕方なかろう」

「それは――そうかもしれないが……」

「ようするにその女性は君の…好み、だったわけだ」


 柴田の顔が視界に入らなくなったせいか、山根木の心にふつふつと自嘲の念が湧き出る。


「そういうことになるんだろうね。何しろ名前も知らない彼女のことが頭から離れないんだから」

「それこそ『恋』だ」

「恋、か……。本当に恋だと思うか?」

「何故」


 山根木の問いは予想外だった。柴田は目を瞬かせた。どちらかと言えば即座に否定してくるものだと思っていたのだ。

 それに山根木の口調に自嘲の旋律が加わったのも気になる。いくら奥手な男だからと言って、まさか恋愛そのものを忌避しているわけでもあるまい。何をそれほど否定したがるのか、柴田には皆目見当もつかなかった。

 沈黙が流れる。

 一人は腰を下ろして友人を見上げ、一人は立ったまま友人を見下ろすこと、数秒。

 柴田から返答を催促するような素振りもセリフもなかったが、山根木は観念して、身振りで柴田に座るよう示した。続いて文机横の本棚から本を二冊の取り出し、置いた。

 江戸川乱歩と横溝正史。

 古典文学以外一ミリも興味を持たない柴田でさえ知っている名前。

 どちらも当代の大人気作家である。

 それがどうかしたかと柴田が山根木を振り向くも、見えるのは山根木の背中ばかり。本を置いてすぐ、山根木は逃げるようにして立ち上がり、柴田から二歩分ほど離れて、背を向けていたのだった。


「たとえば」


 と前置きして、山根木は目を閉じた。


**********


 深夜の神社は不気味だ。風が起こす葉擦れの音が恐怖心を煽る。

 寺ではないから墓はない。墓はないから何も出ない。男は自分にそう言い聞かせながら足早に参道脇の林を進んだ。

 そこへ。かさり。風の所業にしてはやけに大きな音だった。男は反射的に足を止めた。

 かさり。かさり。

 かさり…ふふ。

 たちまち全身が硬直したのがわかる。聞き間違いか。自問した次の瞬間、ふふふ…、自答する間もなく己の用意した答えは打ち砕かれた。

 かさり、かさり、かさり――ふふふ、ア。

 好奇心はなんとかを殺す。やめろ。もちろんそんな自制は役に立たない。男はなるべく音を立てないよう声の先を探した。

 甲高い声は途切れ途切れに届く。近づけば近づくほど、その歓声が男の耳を焼く。腹に凝った膿を蕩かせるほどそれは熱く、子供のころ親に折檻されるときの痛みを思い起こさせた。そしてその熱を掻っ切るように、男の黒い視界を白い影が刷いていった。足だった。真っ黒で蠢く影に呼応して幾度か宙を蹴った。

 男は恐る恐る視点を定めると、真っ赤に弧を描く唇の上で、森羅万象を見透かしたかのような濡れた眼睛が、静かに、こちらを見つめていた。


**********


 自身が生み出す熱風にとり憑かれでもしたのか、山根木は一気にまくしたてた。その意図するところはわからないが、言いたいことはなんとなくわかった。

 柴田の顔は興味深げに輝いた。


「乱歩を真似たにしてはやけにエロティズムが控えめだな」


 山根木は友人の短い寸評を無視して、さらにたとえばと言って続けた。


**********


 青年は若いながらも、刑事だった。すべての出来事が一本の糸でつながった刹那、女の笑みが脳裏で再生された。それはもはや陽だまりのように暖かくもなく、春風のように柔らかくもなかった。

 美しい微笑みからは血が垂れ、首を濡らし、胸を流れ、やがて全身を赤く染めていく。一連の惨劇は彼女にとって復讐ではなく、ちょっとした意地悪でしかなかったのだ。友達が自分のお人形に触れているのが気にくわず、奪い返したのと同じ理屈だった。彼女は赤い湖に身を浸して、華麗に踊り続けただけ。包丁を胴に突き立てたのも、ひもを首に食い込ませたのも、人体を切り刻み、切断したのも、彼女にとってダンスのステップでしかなかったのだ。

 若い刑事は戦慄した。人が人を殺めるには必ず理由がある。殺さざるを得ない理由が――あるべきだ。そう信じていた青年の良識は儚い現実となって消えた。

 事件は解決した。しかし果たしてこれは喜ぶべきことなのかどうか…。若い刑事の胸中に風が吹き抜けた。


**********


 柴田はますますおもしろそうに眦の皺を深くした。

 楽しんではいけないけれど、恋ひとつで深刻になる友人の不器用さが、どうしようもなく愛しく感じられた。


「で、人殺しが横溝風か。ドイルもアガサもさぞ嘆くだろうね」


 柴田は、ここで果たすべき己の役割を理解した。

 できるだけ軽く、そしてわかりやすく、この愛すべき臆病な友人の心の糸を解いてやらなければ。彼の思い違いと勘違い、それから思い込みを砕いてやらなければならないのだ。


「柴田君。君ならわかるだろ? 僕が彼女に恋をしてるっていうのなら、なぜ僕はこんなことを思いつくんだ?」


 山根木の顔は悲痛ですらあった。


「僕は彼女に声をかけた。かけずにはいられない衝動に駆られた」

「男とはそういうものだ」

「そうかな。僕は知ってる。『失礼。肩に虫がついています』なんて言って、僕はただ彼女に触れたかっただけなんだ」

「それのどこがいけないと言うんだい」

「彼女の目にあったものを教えてやる。隠そうにも隠しきれない、不信感だ」

「初対面の男に対し、女が警戒するのはあたりまえさ」

「あたりまえか…。二度目のときも僕は彼女に声をかけた。あの目がよぎらなかったわけじゃない。それでも僕は自分の欲望を抑えられなかった」

「それで『またやってしまった』か。君はいつから大昔の聖職者になった。欲望というが、僧侶すら結婚するこの日本で、男が女に惚れて声をかけるごとき出来事など、欲望のうちに入るものか」

「君は彼女のあの目を知らないからそんなことが言えるんだ!」

「知らないからこそ言うのさ」

「あの目を思い出すと、僕にはもう、もっともらしいことは言えなかった。そこで閃いた。どうせ彼女は僕に会ったことなんて覚えていない。だったら今度はいかにも文学者っぽいことを言って――」

「二度目の第一印象をより良いものにしようとしたわけだ」


 まさしく図星だという顔で山根木は言葉に詰まった。

 柴田は友人の狼狽を横目で見つつ、緩やかに畳みかけた。


「そして、『無鉄砲な勇気』を自覚しつつも、『坂に魅入られてはいけません』と続けた」

「彼女は僕を覚えていた。いや、覚えていなかった。いいや、どっちでもいい」


 山根木の目に、いつになく奇異な光が灯っている。

 決して自己否定の強い人間ではないのに、このとき、何がなんでも自分を――自分のすべてを否定しなければならないという、そんな歪んだ気迫が柴田の表皮を叩いた。


「ただ彼女の記憶が目を通して言ってるのがわかった。汚らわしい! 偽文学者! 傍観者気取りの偽平和主義者!」

「待て。ちょっと待って。支離滅裂だぞ。何故そこにつながる」

「僕が彼女にひと目惚れしたとでも君は言いたいんだろ? ああ、そうさ。認めるよ。でも君の言うのとは違う。結局、僕はどうしたって小説の題材として彼女にひと目惚れしたに過ぎないんだ」


 ――そういうことなんだと柴田は思った。

 山根木という男は生真面目で、融通が利かなくて、そのうえ感情面では青臭いほど潔癖症なところがある。

 だから許せないのだ、自分自身が。

 だから直視できないのだ、己の心を。


「……いけないかい?」


 山根木が落ち着くのを待って、柴田は諭すように、ことさら言葉に重みを乗せて渡した。

 受け取ったほうはしばし逡巡の末、またもや自嘲を露わにした。


「滑稽じゃないか。知りもしない女の肌を想像して、裸にして、暴いて、娼婦にして。知りもしない女の笑顔を歪めて、意味を曲解して、理由をつけて、殺人者に仕立て上げて」

「……」

「僕は――」

「……」

「どうしょうもないな……」


 山根木がぽつりと小さくこぼすと、再び沈黙のヴェールがおんぼろアパートの一室をふわりと包み込んだ。

 沈黙と静寂は一心同体だ。

 どちらも長く留まろうとしないくせに、何度も何度もやってきては人を困らせる。まるで悪戯っ子そのもので、人々の間を飛んだり跳ねたりして渡ってゆく。

 彼らは決して捕まらない。

 何故なら捕まったその瞬間、沈黙は沈黙でなくなり、静寂は静寂でなくなるのが定められているからだ。

 そして捕まえたものには発言権が与えられる。強制・自発にかかわらず、沈黙と静寂を犠牲にして。


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