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山根木は今日も文机に向かい、埋まらない原稿用紙と睨めっこしていた。
郷里の母親が送ってくれたちゃんちゃんこに袖を通し、悩みに悩んでいる。
大学で勉学に励む傍ら小説家を目指している彼は、ここしばらくきちんと一作品を書き上げていない。脳内を明滅する情景があるのに、それをうまく表現できないのだ。何度も書き直しを試みるが、気に入らない。
今日はカリカリとペンを走らせて、前回投げ出してしまったところの続きを数行。書き進めてみたものの、ペンが止まり、唸り声ひとつ。そして頭を抱える。
もやもやとしたものがブラックホールを形成し、あげくの果てに歓迎のツイスト・ダンスを仕掛けてくる。素直に乗って――吸い込まれて――やるべきか、それとも一目散に逃げるべきか。そんなばかばかしい妄想に気が滅入った。そもそもブラックホールがどうやって腰振りダンスをするというのだ。そこでまたずんっと落ち込んだ。
そんなところへ、ガチャリと古い下宿のドアがなんの前触れもなく開いた。
「やあ、山根木君。ごきげんよう」
小説が書けず苛立ち気味の山根木に対し、神経を逆撫でするかの如く明るく登場したのは、隣の部屋の住人・柴田だった。同じ大学の同級生である二人は、学部こそ違うが、友人同士と呼んで差し支えない関係である。
その相手に、さわやかすぎて鼻につく、とはいくらなんでも言えるはずもなく、山根木はノックもなしに入ってきた友人に、正当な苦情だけを言うことにした。
「勝手に入ってくるなよ」
「よいではないないか。私と君の仲だ」
「どんな仲なのかは思惟するのも煩わしいが、なんの用だ? 確か君、今日は勅使河原なんとかって奴の、なんとかって集会に行くって言ってなかったか」
普段はそうでもないのだが、山根木はこの友人が相手だと、いつも以上に饒舌になる自分を自覚している。それは柴田が山根木の書く小説を正直に批評してくれることに起因した。初めて小説を読んでもらったとき、良いところも悪いところも隠さず直言してくれたのがありがたかった。以来、山根木は柴田の前では言葉の良し悪しをあまり意識しなくなっていた。
当の柴田もそういったことに無頓着なところがある。何を言われても、どんな言葉を使われてもさほど気にとめない。もっとも、この男の場合、まったく他人のことを言える立場ではないのだが。
「『ベトナム戦争について考える有志の会』」
柴田は皮肉げに肩をすくめてみせた。
「しつこく誘うから一度だけはと思い、顔を出してきたのだが…」
自国とは関係のないところで行われている戦争は、かつての大戦を歴史としてしか認知していない若者の関心を買っていた。有識者と自称するものたちはその是非を論じ、また論じる事自体がさもステータスのように思われた。
柴田が赴いた会もそのひとつで、学生の間ではさほど珍しいものでもない。ただ摩訶不思議なのは、途中から何故か話が「報道だけでは戦争の悲惨さはすべて伝わらない。有志諸君! 我々は現地へ赴いて反戦を叫ぶべきなのだ!」という方向に流れていくものだから、会にも勅使河原何某にも興味がない柴田はしらけたという。
「で、帰ってきたか。それは、それは」
「その勅使河原何某、ぜひ山根木君にも集会に参加するよう私に説得してほしいそうだ。君とは通じるものがあるらしい」
そうなのか、それは知らなかったという、どこかニヤついた目線を流してくる友人に、山根木は奇妙な風に眉を寄せた。
「あってたまるか。去年、政治学の授業で一緒だっただけで、まともに話もしたことがないのに」
なんだ、と柴田がおもしろくもなさそうに鼻に皺を作る。
けれどもそんな仕草はただのポーズなのだと、山根木にはわかっていた。
とにかくややこしいのは、柴田という男は、山根木がわかっているだろうことを承知の上で表情を作ったりするため、どこまでが本気なのかときどき測りかねる点である。
「あれは嬉々として世論に踊らされている典型だな」
鼻の皺はどこへやら。一転しておもしろそうに言ってのける柴田は、本当にときどき測りかねて、非常に面倒くさい。が、山根木は案外、彼のそういうところを小憎たらしいと思う反面、たいそう気に入ってたりもする。
「僕だって戦争は反対だ。でも、だからといって声を張り上げるだけが正しいとは思わない。じゃなかったら、ペンは剣よりも強しなんて言わないだろ?」
「けだし、名言だ」
と、そこまで軽口での応酬を楽しんで、山根木はあっと我に返った。
「すまない、すっかり立ち話をしてしまった。それで? 柴田君。用件は?」
ああ、と柴田もたった今思い出したとばかりに頷く。
「筑前煮を作ろうと思い立ってね。ところが我が家の醤油瓶が空腹を訴えるので、君ならばその情け深い心で喜捨くださるだろうと忖度し、参上した次第さ」
「なくなったから貸してくれと素直に言えないのか、君は」
「それでは会話に情緒がなかろう」
「日常会話にそんなものはいらん」
「小説家を目指している男がこうも無粋だなんて、嘆かわしいと思わないかい、山根木君」
「醤油の貸し借りに無粋も洒落もあるか」
いつもながら友人の持って回ったような言い方に若干呆れつつも、慣れた風にあしらい、ちょっと待ってと、山根木は狭い部屋の小さな台所へ向かった。
備え付けの、これまた小さな棚を開ける。
そのとき、柴田は文机とその周辺に散らばっている原稿用紙に、遅ればせながら気づいた。
「これは失礼。創作中だったか」
執筆の邪魔をしたことに対しては一応すまなく思うも、許可なく部屋に上がることに対しては何も思わないらしい。
すこぶる自然な足取りで文机の傍に立った。
「おや、新作? 読んでもいいかい?」
まったく油断していた部屋の主は驚いて振り向くも、柴田はすでに書きかけの原稿用紙を手に取っていた。
これだから狭い部屋は! と山根木が心の裡でグッと拳を握っても、時すでに遅し。
なになに…、と呟きながら柴田は文字を追った。
「『坂の上の貴女(仮)』。かっこかりに免じて、このいささかも芸のない題への寸評は控えよう」
勝手な友人は相も変わらずオブラートと無縁の次元で生きている。いつもならば忌憚ない評価を歓迎するところだが、今回の「新作」はまったくの逆だった。未完成という意味ではない。ましてや柴田だからというのでもない。たとえるなら隠れて春画を見ているさなかに、横から覗き込まれた感覚。簡単に言えば、ようするに恥ずかしいのだ。
固まって動けなくなった山根木の隙をついて、柴田はさらに読み進めた。
「『彼女は坂の上で立ち尽くしていた。その佇まいはあまりにも凛としていたから、坂を下りようとしているのか、それともたった今のぼってきた坂をもう一度見下ろしているのか、とっさには判別できなかった』。ふむふむ。君にしては珍しい切り口だね。太宰に鞍替えかい?」
目線を合わせて、まっすぐそんなことを尋ねられたものだから、山根木はカッと頬がほてるのを感じた。おかげで息を吹き返すことができたので、友人の手から遅ればせながら原稿用紙をひったくって取り戻し、まるで子供のように背中に隠した。
「そんなわけあるか。太宰に傾倒するなら彼女の一人称で書くさ」
「それはそうだ。――が、それもある種の偏見ではないのかね」
「うるさい。古典しか興味ないくせに、聞きかじった知識でものを言わないでくれ」
「何を言う。『敵』を知らずして語るなど愚の骨頂ではないか」
「…その心意気は買うけどね」
山根木は原稿とは反対の手に持っていた醤油瓶を、ずいっと柴田に押しつけた。
「ほら、醤油。残り少ないし、あげる。だからさっさと出ていってくれ」
「そうつれなくすることもなかろう、青年。新作の続きを拝読する栄誉をどうかわたくしめに」
柴田は平時から持って回ったような言い方をするため、同輩先輩問わず煙たがれる傾向にある。しかしそれがこの男の表現方法なのだろう。一向に改めようという姿勢が見受けられない。
そしてセリフ回しが一段と大げさになること、それすなわち何がなんでも引かないという心情の表れであり、証左なのであった。
こうなった柴田はしつこい。
山根木は嘆息した。まだ一頁も書いてないから見せられるほどのものじゃない、と情に訴えかける言い方を試してみた。わかりきっていたことだが、柴田は揺らがない。よきかな、よきかな――なんて時代劇の殿様よろしく、執筆者の手から再び原稿用紙を奪うのだった。
「『風が通り過ぎるたび、薄い緑色のワンピースのひだが視界で揺れた。まるで頬を撫でられているかのような錯覚に、僕は彼女に吸い寄せられていった』。表現は平凡だが、君にしては積極的だね」
「そんなんじゃないよ」
山根木の口ぶりはヤケと開き直りがきれいに調和していた。
今さらこの友人に小説を読まれたからといって恥ずかしがる道理はない。――ないのだが、今回に限って言えばだめなのだ。とにもかくにも、非常にいたたまれない気持ちになる。先へ読み進められれば進められるほど、その程度は春画を凌駕してゆく。
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「坂に魅入られてはいけません」
揺れる陽炎に惑わされたのか、僕はそんなことを口走ってしまった。
え、と彼女は振り返った。
白い肌にあって、黒の瞳が驚きにきらめいた。涼しげでさえあるその組み合わせは、しかし真夏の厳しい日差しを中和してはくれない。僕に思い起こさせたのはシュプレヒコールを叫ぶ市民の熱気だ。彼女の視線から感じたもの、それはあの人々同様、他者を排斥する意志にほかならなかった。
…ああ、またやってしまった。僕は己の無鉄砲な勇気に
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「勇気になんだ」
「その先が書けなくて!」
小説家にとって、自身の作品を音読されることほど気恥ずかしいものはない。ましてや文章という以前にこれは自信のない文字の連なりだ。いっそう羞恥心を掻き立てる。
山根木は原稿用紙を友人の手からひったくり返した。実に不本意ながら、頬に熱がさしていることは無視したくてもできそうにない。
「もういいだろ!」
「『僕』の無鉄砲な勇気はともかく、『またやってしまった』という一文は悪くない。なかなか読者の興味をそそる」
「君の個人的な興味の間違いじゃないのか」
「それがどうした。私は貴兄の友人として、貴兄の心境の変化に多大なる興味がある。ましてや友人の実体験ともなれば、真相を確かめずにはいられない。そうだろ?」
「なっ――!!」
ただでさえうまく取り繕えないところへの爆弾投下である。
山根木は瞠目絶句し、その手から原稿がはらりと畳に落ちた。
柴田はこれまでにない友人の動揺をからかう風でもなく、原稿を拾う。
「女に金をかけるのはばかばかしいと言っていた男が、小説の一道具としてではなく、人間としての女性を描こうとしている。それは初めての挑戦ゆえ、ペンが進まない。違うかい? 異論あれば拝聴するが」
「…か、勝手に言ってろッ」
「白状したまえ。君とこの女性の真実を――つぶさに。そして君は何を『またやってしまった』のか…」
意味あり気にじっと見つめられて、山根木は唐突に息を吹き返した。次いで何かを探すように、広くもない部屋の中をまわる。
押入れの戸の裏。箪笥の抽斗の裏。文机の裏。天井、窓枠……
「山根木君? 何をしてるんだい?」
しばらく黙って見ていた柴田だったが、やがて首を傾げる。当然だ。山根木の行動は探すというよりはもはや捜索に近い。
山根木はあっちこっちを丹念に調べながら、訝る友人にこんな言葉を投げかけた。
「君は近現代文学にまったく興味がない」
「そうだ。大概が殺伐としていて趣に欠ける」
「古典こそ浪漫の極致と言っていた」
「まさしく」
話の主旨をさっぱりつかめなくても、自分の信念に対して柴田は頷く。
しかしまさか、次にくるセリフが想像の範疇を軽く突き抜けていくとは、いくらなんでも考えが及びつかなかった。
山根木曰く。
「もしかすると式神とかお札とか、その類のものを僕の部屋に仕込んで、僕の日常生活を覗き見しているんじゃないかと思って」
さすがの柴田も驚倒するやら焦るやらで、堪らず声が張り上がる。
「ばかも休み休み言え! そんな低俗なスパイ小説のようなことに興味はない!」
私を侮辱する気か? と予想以上の剣幕が返ってきたため、山根木は目を丸くする。
「いや、今のはむしろオカルトの領域だが…まあ、いいや」
もともとただの思いつきで言ってみただけのことで、山根木とて柴田が自分の部屋に変なものを仕込むなどという、非現実極まりない事象はありえないとわかっている。
だのに自宅捜索という行動至ったのは、眼前の友人の洞察力が、ゼロの可能性をもなぎ倒す薄気味悪さを備えてあったからだ。
「柴田君」
シンク下まで開けて確かめた山根木が戻ってくる。
「君こそ小説家になるべきだ。その観察眼を眠らせておくてはない」
「褒めてくれるのはありがたいが、山根木君。生憎私は小説家に人生の趣を見出せないので、その未来は謹んで君に譲るよ」
山根木の口から深いため息がついて出た。
「どうした」
「疲れた」
「急に部屋中動き回るからだ」
そこじゃない、とよほど言ってやりたかったが、きっと言っても詮無いことなんだと心底理解しているため、山根木は飛び散った精神力をかき集めて、再度出かかったため息を意地で呑み込んだ。




