58/死霊術師ヒリエム⑪
恐ろしくなった。私は禁忌を破った罪人である。その罪人があんなものを目にしてしまったら逃げるほかない。しかし、しかし。
とてつもない後悔が私に襲いかかる。もしあのまま逃げなければばれなかったかもしれない。追われる事などなかったかもしれない。
しかし――恐ろしかったのだ。
私があんなに苦労してやっと退治した液体の怪物があんな一瞬で消炭に、良く燃える様は私があのように簡単に処刑されてしまう事を容易に予想させた。
もしあの場にいたら嘘を吐き通せただろうか。あのような凶器を隠し持った人間を目の前に平静を保つ事ができただろうか。
否、あんな物は人間ではない。
怪物よりも恐ろしかった。あの液体の怪物が醜い男の意思の反映か、あのように恐ろしげな眼で襲ってくる事よりも。
同じ人間の様に笑い、悲しみ、怒るであろうあれが、あの化け物が恐ろしかった。私にはあまりに衝撃的だった。この技術を手にしても尚。自分が操る馬を見る。
こんなのはまだ可愛い物ではないか。あんな物に比べれば遊びだ。何が禁忌だ。お笑い草である。無から炎を呼び出すなど、それこそが禁忌だ。神の所業と同じ。とても理解できない。
そうだ。私には行かなければならない場所があるのだ。そのために今は逃げているのだ。決して恐怖に屈したからではない。そう思うのだ。
しかし、今も恐ろしい。あの男と同じような者が二人も追ってきている。
なんとかしなければ。しかし、私には思いつかない。逃げ切る最適な方法が。
手当たり次第に死体を蘇らせても一瞬で燃えて消える。それでは意味がない。
ただ私は走るしかなかった。都合の良い事にこの死馬は私が支配している。走らせるのだ。全力で。足の筋肉が千切れ、脚が捥ぎれるその時まで。
絶対にだ。絶対に。逃げ切るまで走らせるのだ。
ここは北ハイルの東の最果てクッタリアの町。雲が空を覆い隠さんとするばかりの中、誰もいない町中を馬で駆けずり回るすみすぼらしい姿の罪人が一人。
ローブの中の読み古した聖ノートルニア時代書は今はただの粗末な本だ。ヒリエムは友人の形見の古いスコップを掴むと、ついこの間まで己の役割を知らずに、ただ変わり果てた友人の事を疎ましくも思っていた自分を謗る。彼の形見はこれで最後だ。これからなすことと信仰との狭間で煩悶するがもう苦しくは無い。自分宿命を知り、最後にまた友人とも会えた。次はいつ会えるか。
私の約束の地には何が待っているのか。
私を追っていた魔法使いの化け物の追手は既に撒いた。これから幾ら探してもクッタリア周辺には、この王国の領地内には私はいない。旅に出るのだ。
私は北ハイルで信仰されている形容しがたきノートルニアの神々への祈りは毎日欠かしたことがなかった。これからも欠かすことは無いだろう。今日というこの決別の日に、信仰は確信に昇華したのだ。神の所業は存在すると。
ここから南五百キロも行けば王国からの追手は誰も来る事が出来ない。そこは南の異種族が治める土地であるのだから。この馬で行けるかそこまで。いや、行くのだ。馬が駄目になったら代わりを見繕えばいい。殺して私の下僕とするのだ。墓地の主たちに目覚めの時だと語りかける。地面から這い出て来るまで待つつもりもない。追手は二人、全員で追ってきても十やそこらだ。それに対しこちらの手駒は数えきれないほどこれから出てくる。私はこの町に一つの命令を出した下僕を徘徊させる。主人を追う者は殺せ。
ただそれだけだ。あの化け物相手では時間稼ぎにもならないだろうが。
ヒリエムが町に村への到着から一時の内に、クッタリアの町は魔物で埋め尽くされた。同じく死馬に乗り、ローブを纏った亡者を多数従えた主人はこれから南の領域を越え、約束に地へと向かうために歩みを進めた。
それから王国の魔法使いたちはただ闇雲に周辺地域を捜しまわることとなった。
結果的にヒリエムは南の地に乗り込む事には成功した。囮に町の人々の先祖たちを使った事など気にも留めない。
神との対話。無の世界での存在の確立のために、蘇らせた死者に細かく死後の世界について問いただしても、彼らが答えることはない。私にまだ死者の意識を保ったまま蘇生、もしくは転生させる知識が足らないのだ。
あの男は言った。意識を保ったままの転生に成功したと。あれが嘘であれどうであれ、私の友人の蘇生に役立つかもしれない。実験してみる価値はある。いくらでも材料は揃うのだから。
南の領地に入るなりヒリエムは何度も何度も術を行使した。南は異人種の土地だ。どこに死体を埋葬するのか。どのように死体を処理するのか知るためだ。この先を抜けるには力がいる。それも並大抵の力ではいけない。南の異人種がどんな手で不穏分子を、異人種の人間である私を襲うとも限らない。
ヒリエムは既に自分の力に酔っている。しかし、他の魔法使いを警戒する冷静さは恐怖から失わずにである。彼は短い時間に多くの事を知りすぎた。そして、訳も分からず約束の地などという場所へと向かっている。それが彼の友人との再会を約束するものだと信じて。




