4/兵士ローバス②
「隊長。その本何度も読み返していますけどそんなに面白いんですか」
青空の下で読書に夢中になっていた私は新米兵士ジャーンがすぐ隣で本を覗き込んでいることには気づきもしなかった。
彼はコーマックに馬車へ馬を繋ぐのを命じられた兵であるが、彼の馬の扱いの上手さは今まで戦場で何人もの名騎士の馬捌きを直に見た私でさえ驚くほどであった。年をとり人のいうことを聞きづらくなったであろう老馬がまるで生まれたばかりの仔馬が母馬に寄り添うように彼にだけは懐いている。
結局、他の者にはこちらの老馬が繋がれた馬車を動かすことができるはずもなく私の隣でこの四日ばかり一人でずっと馬と触れ合っている。
「かなり古い本だが読んでみるか?」
「いえ、自分は字が読めないものでして」
こちらを向きさわやかに笑う若者。素直な若者だ。どんな風に育てばこうまで屈託なく笑えるのだろうか。
「こら余所見をするな。こいつらから眼を離すとどこに向かわれるかわかったもんじゃないよ」
「す、すみません。以後気を付けます。ですが、案外人懐っこいですよこの子たちは」
ジャーンは少し委縮した様子を見せたが、すぐににっこりとして馬の性格や今の体調について語りだした。
初めの出会いが悪かったのでほとんどの兵に私は怖がられているが彼だけはこの四日の間でずいぶん私に慣れたものだ。話を聞くに、彼は牧場の出らしく動物の扱いは嫌でも上達したという。
それにしても出合ってすぐ老馬を手懐けた様子は目を見張るものがあった。
きっといい騎兵か戦車乗りになる。
そんなことを思う私といえばこの四日間をほぼ全て読書の時間に費やし、兵たちとの会話など彼以外とは皆無に等しい。明日からでも彼らと親交を深めねばなるまい。意思疎通の全く無いトップダウンの部隊の危うさを経験している私はそう思うが、実際に部下を持ってみるとどうにもやり方が分からない。
私はその不安から逃げ出すように読書に耽っていたのだろう。ジャーンはそんな私に気さくに話を振っては曖昧な返事しか出さない私に自分の生い立ちを話していたのである。
彼はずっと馬の世話をしているため他の新兵と会話する時間が少なく、私しか話す相手がいなかったこともあるだろうがなんだか彼に悪い気がした。
「次の休息地では、他の者に馬はまかせる」
「え、馬からはもう眼は離しません。どうか自分に任せてください!」
ああ、少々言葉が足らなかったか。
今のお互いの立場ではそのように受け取られてしまうのも致し方ない。私も気を付けなければ。
「いやいや、そのような意味じゃない。君ばかりに手のかかる馬車をまかせていたのでは他の兵の訓練にならないのだよ」
「ですが――」
「ですがも何もないよ。今日まで君の実力は十分見せてもらった。帰ったら騎兵隊か戦車隊の馬預かりからでもなれるように兵士長に具申するからそっちで頑張りなさい」
「はあ、分かりました。でも、あの兵士長に軍の人事にまで口が出せるのですか?」
「ジャーン君、口には気をつけなさい。兵士長の本名をコーマック・レストレイク。レストレイクを聞いたことはないかね」
「いえ、自分は辺鄙な村のただの牧場主の息子なので。長い名前ですねびっくりです。なぜ短くお呼びしているのですか」
「レストレイクは名ではない家名だよ。君の故郷にも一人はいるだろう。領主は誰なのだね?」
「あんなところに領主様は出向いてこられないですよ」
「では誰が村の統治を」
「統治がどうとかは知りませんが一応、私の祖父が村長をしていたことが」
「そんな所があるのかい」
「これから行く所もそうですよ。たしか領主様なんていません」
私は今日一番に驚いた。長い間兵士として故郷を離れている間に王国領の価値観が激変してしまったのか。一昔前なら領主のいなくなった領地など真っ先にどこかの三流貴族に居座られるか、人々がみんな離れて行ってしまっていたのに。
たしかに戦線は広がるばかりではあるが僻地を見捨てるほどまで王国は疲弊しているのか。
「では町に国の常備軍はいないのかね」
「さあ、今は知りませんが自分が幼いころに父の商売について行った時は四五人王国の兵士らしき人がいましたが」
私は困り果ててしまった。私の時代の教練と言えばその土地に駐留する経験ある兵士の元で万全を期して行う物であったのに。
そうかそれで私が選ばれたのか。しかし、それでは我々が猛獣狩りをしている間の町の守備はどうするのだ。まさか兵士が一人もいないなんてことはないと思いたいが、町の人々に教練の間自衛に勤しめなどとは言えない。
「大丈夫ですよ。町の自警団もいますでしょうし」
暢気なものだ。その自警団では歯が立たないから王国に救援を要請したのであろう。
これは教練などと悠長なことを思っていたが、これでは話が違う。
「ところでなぜ貴族様が兵士長なんかになっているのですか」
「ああ、騎士長の命に背いて与えられた部隊を全撤退させたのだよ。いくら貴族でも、一騎士が騎士長の命令に背いたのだ。しかし、その時の騎士団の被害の責任を取らせようにもレストレイク家は名門中の名門だから王国の大臣たちも困っていたというような話を聞いたな。そこで他にも跡取りがいたためレストレイク家側が彼の家名と爵位返上を提案したそうだ。実質的な縁切りだな」
「貴族様でなくとも騎士様では今もいられたでしょうに」
「あの撤退は国の損失を防ぐためだった。大局が見えずに突っ走って国の宝である多くの騎士と兵を失った騎士長こそ反逆の罪で縛り首にしろ。こんな奴の下ではもう働けん。と啖呵を切って自ら騎士の位までかなぐり捨てて平民の一兵士へ成り下がったんだよあの男は」
「これまた随分と度胸のある」
「それがただの愛国心からの行動とも思えんのだよ。彼の与えられた部下には彼と同じく貴族の出の新米騎士などが大勢いたようだが、彼の事件を切っ掛けに文官や神官、地方領主や交易商人に鞍替えした者たちがいる。一見すればただの左遷だがレストレイク家が次期当主を放逐までしたのに他の貴族たちには特別何も刑罰はなかったんだ。風の噂では彼が自ら辞するのを条件にレストレイク家に裏で手回しをさせたんじゃないかなんて言われているよ」
「それが何か問題でもあるのでしょうか。無駄に命が奪われなかっただけ良かったのでは」
「問題はないさ。だがあの男が家を捨てることで逃亡の罪から逃れて、あまつさえ多岐に亘る分野に大きなコネを作ったことになるのは事実だ。彼のお陰か取りつぶしを逃れた下級貴族なんかは後継ぎと家を守ってくれた彼には今も頭が上がらない。命を救われた本人たちは彼を信奉しているし当主になった者、事業を成功させてなりあがった者もいるだろう」
「いい話じゃないですか。自分を犠牲に他者を盛りたてるなんて」
「騎士長殿の身にもなってみろ。何もなしに逃げ出すが言い逃れする悪知恵は働く。これほど後ろをまかせられない味方はいないさ。そんな男が今も力を持っているんだ。はらわた煮えくり返る思いだろう」
「はあ、分かりました。兵士長は信用できないということですね」
「いや、悪い。信用はできるんだ。私が補償する。ただ兵士長は結局は今も貴族ってことなのさ。平民とは全く考え方が違う。やっかいな上官だよ。だから、口には気をつけなさいとね。何が彼の気に触れるか分かったもんじゃない」
「自分もなんだか少し怖くなりましたよ」
「ああそうさ、彼は怖いよ」