14/猟犬チャップス②
チャップスはいつもであったなら獲物を見つけた後もララヌイの傍を離れず、その指示があるまで隣で待機している。
でも、その時は違っていた。チャップスは自分から主人の隣に行き、彼の指示通りにヘミンの隣で待つのがいつもであるなら、その時は彼の傍に寄らずにヘミンの元で動けないでいた。
ララヌイは案にチャップスがヘミンを守れという命を口にせずに感じ取ったのだと思っている。しかし、そうではなかったのだ。
なんだかとても嫌な臭いがする。鼻腔から脳天を突き抜けるその臭いが何の混ざった臭いなのかチャップスには思いつかなかった。胃液と食べ物が混ざり腐った臭いと死体の臭いだというのは分かる。しかし、それは動いている。
犬でしかないチャップスにはそれが何を意味しているのか考えがつかない。彼の中の野性が囁いている。近寄るなと。しかし主人とその連れはあの馬車にどんどん近付いて行ってしまう。
どうすればいいか分からない。
彼の中の野性と理性は今までになく衝突していた。ヘミンはそんな彼の葛藤も知らずに、彼にパンとミルクを皿に入れて差し出す。
町で今日焼かれたパンの香ばしい匂い。中からは焼けた林檎が芳醇に香る。ミルクは少し臭い。どこの農場で買った物なのだ。
その間も主人はあの危険な物に近づいて行ってしまう。まだ子犬であった時に拾われた私に狩りを教えてくれたのは誰だったか?私と彼は狩猟の際は間違いなく最高の相棒ではなかったか。過去に疎んじられていた時期もあったことは今はどうでもいいことだ。
初めて野兎を狩り、口に咥えて持って来た時の彼の喜びようといったら。
しかし、今はそれどころではない。ララヌイが馬の脚を止めるのと同じ頃、両側の森の中に同じ嫌な臭いを感じ取った。それも一つや二つではない。
チャップスの優秀すぎる鼻にとって、その強烈な悪臭は森全体から感じられるほどだ。数など分かりようがない。周りを正体不明の悪臭に囲まれた事で観念した野性をチャップスは振り払い、やっと動くことができた。
与えられてミルクの入った皿を右足で蹴り飛ばしたことなどどうでもいい。チャップスは一目散に主人の元、いや、その先の死臭のする馬車に走り出した。
「チャーップス。チャーップス!」
ヘミンの叫び声が後ろから聞こえるが振り返らない。
「チャップス。どうしたチャップス」
主人を横切る時に声をかけられたが今は応えない。
チャップスは唸りを上げながら牙をむき、先ほどまで手を頻りに振っていた男の首筋に突き立てた。
引き裂いた首からは鮮血が飛び散り、チャップスの重さに体制を崩し倒れ、地面で悲痛な叫びを上げながら男は地面をのた打ち回る。
はずであった。
突き立てた牙には嫌な感触があった。固かったのだ。思いのほか硬直した筋肉に牙は刺さっている。血の勢いも思いのほかない。男は倒れはしたが苦痛に地べたを踊らない。その表情からは感情が読み取れない。そんな男の顔の中で動くものがあった。眼球だけが横に動きチャップスを捉えた。恐怖であった。力の限り噛み付いたのに男は全く動じていなかった。
その時チャップスの中に何かが侵入してきた。耳や口から何かが入ってくる。チャップスは侵入される不快感を無視し、もう一度男に噛み付こうとする。
馬の脚が見えた。馬は脚を天高く空へと突き出すように掲げた後チャップスを男もろとも踏みつぶそうとして来た。チャップスは身を翻しそれを避けようとしたが横っ腹に掠った。背中の左側にめりめりと馬の蹄がめり込む音が聞こえた。
肋骨が悲鳴をあげている。
馬の蹄は男の頭を潰し、地面とキスをした。馬に蹴り飛ばされたチャップスはよろよろとよろめきながら立ちあがる。
「チャップス!そこで待て。今行く!」
耳鳴りがするので主人の声が実際よりも遠くから聞こえる。
いいから早く逃げてくれ。
そんな事を思うチャップスに次の異変が襲いかかる。
とてつもない熱さが首から上に感じるがその下からは震えるほど寒気がする。脳が焼けつけるように熱い。熱い熱い熱い。
チャップスはその苦痛に発狂しそうになるも何とか意識を保つ。男に噛み付いた時に病気を移されたのか。犬同士でも意思疎通ができなくなるほどおかしくなった犬たちを思い出す。
自分は病気にかかったのだ。
このままではやがて気が動転して相棒に噛み付いてしまうかもしれない。チャップスは森に向かって走り出す。腹の痛みは激しい頭痛に掻き消され感覚は麻痺している。それからチャップスは気絶するまでの間、森の中を力の限り無我夢中で走ろうとした。