1-3 見知った~
う・・・。クソッ、頭痛が痛い。
俺が次に目を覚ましたのは、どうやらプラスチックのベンチの上だった。
目を開けた俺の目に、蛍光灯の明かりと石膏ボードの天井の白はきつかった。
「うおっ、まぶしっ。そして知ってる天井だ。」
俺が下らない事で声を上げると、起きたことに気付いたのだろう、ソノさんが話しかけてきた。
「北村さん、頭、大丈夫ですか?」
何と巫戯けた事を言うのか、こいつは!
「大丈夫だ、問題ない。正気か狂気かの判断は君に委ねる。」
俺の憮然とした物言いに一瞬思考停止したのか、驚いたように目を見開き、直にすまなそうな顔になって
「いえいえ、頭の怪我は大丈夫かって事です、すいません言葉が足りなくて。」
と続けてきた。
「いや、分かってるよ。からかっただけだっつぅの。それにしても頭が痛ぇな。」
それを聞いてソノさんが傷ましそうな顔で先程の説明をしてくれた。
「ええと、さっきの廊下で叫び声を聞いた主任が来て、問答無用で辞典殴りしてましたね。一応、主任が来たことを知らせたんですが・・・。」
「う、辞典とか・・・。『みだれうち』?」
「いえ、『ためる』2回から『踏み込む』ですね、あれは。ダメージ9999でポップしてましたよ。」
「うっは。酷い話だと思わないかね、ワトソン君。」
「うちのカミさんが言うにはね?流石に自業自得というものではないかなぁと。」
「どうしてこうなった。」
「そりゃ、怯えた婦女子を言葉で追い詰めればそうなるのではないか、と。」
ふむ、自業自得らしい。
「ってことで今どうなってんの?」
そう言って頭を擦る俺に、主任が話しかけてくる。
「ようやく目が覚めたか。先ずはコーヒーでも飲んで確り目を覚ませ。後になってからボケてました、じゃ済まされない状況だな、これは」
そう言いながら、黒のボウタイブラウスに白衣を引っ掛けて両腰に手を添えた主任は、顎でコーヒーを淹れてる黒いのを指す。
ケンタは俺が見ているのに気付くと、コーヒーのマグを軽く掲げてみせる。
やや、黒いのはヤツのワイシャツであって、腹じゃないぜ?
白衣を脱いだ時は、ワイシャツの袖を2回折り返すいつものスタイルだな。
「やや、これはお気遣いどうも、主任。後頭部の殴打についてもお気遣いはあったので?」
「黙れ性犯罪者め、寧ろゲバ棒で殴られなかっただけマシと思え。」
主任は、どうもイラついてるか焦っているかしてるらしい。
普段は此処まで乱暴な物言いはしないはずだ、多分。
ちょっとは真面目にやった方が良さそうだ、クワバラクワバラ。
「余りに痛くて、明日には冷たくなってそうな勢いなんですが。」
ケンタからマグを受け取って啜ると、見事なまでに完璧なインスタントコーヒーの味がした。
ケンタに向けてマグを掲げ、謝意を示すと苦笑いを返してくるが、その顔には影が差しているな。
「よし、そこに横になれ。うつ伏せだ。後頭部に風穴を開けておけば、血が溜まる事も無いだろう。」
主任も余り余裕は無さそうだ。
此処は手早く状況説明とやらに行ったほうが問題無さそうだネ。
「ドロリ濃厚ブレインジュース垂れ流しは勘弁ですね。では、状況をどうぞ。」
主任は考えを纏めているのか、暫し目を瞑っていたが、それでは、と前置きして語りだす。
「お前が変態行為に走った所までの状況はいいな?ソノに聞いたが、こちらも似たり寄ったりだ。ベンチに寝ていたら地面に投げ出された。何を言ってるのか分からないだろうが、という状況だ。」
恐らくソノさんが説明した時の言い方をそのまんましゃべったんだろうな。
俺は変態行為についての抗議は後に回し、それで、と先を聞くことにした。
「実のところ、ソノに話を聞くくらいの時間しか経っていない。推定『田原の下半身』についても詳しく調べたわけではないな、話を聞きながら確認した程度だ。気になるならお前がひん剥いて調べてもいいんだぞ?」
うくっ、やや調子が戻ってきたなこの人。
俺は余計なことを言わずに肩を竦めるだけで『否』と返す。
「それで今後のことだ。まあ、悪戯という線は無い。全員が同じ状況だ。そして我々以外に、大掛かりな悪戯を立案、計画し実行に移せる部署、人員は存在しない。」
とんでもない事を何でもない事のように断言しやがったこの人、何と恐ろしいお方か・・・。
「では、先ずは現状把握という事でいいですね?通報とライフラインは?」
「そうなるな。電話は駄目、内線も誰も出ない。電気は使えるが何時までもつかは正確に分からんし、水道も同様だ。外に出ようかとも思うが、全員が無事、という条件で出られるかな?」
俺の頭に『アレ』が思い浮かび嫌な気分になる。
あの所業を一人で出来るとはとても思えない上に、通報出来ない今の状況。
体験型アトラクションとか勘弁してくれ、命が掛かってるんですけど。
「研究所からの出入りは一階のみ、他の階にはめ殺しの窓はあっても開閉可能な窓は無し。ガラスは壁と同じ厚さのブロック仕様で人力での破壊は困難。非常脱出手段として屋上のヘリポートと避難梯子。」
主任の声が建物の構造に及び、
「映画でおなじみの空調ダクトは垂直方向にのみ設置、最上階で全ての空気浄化と熱交換を行う特殊仕様。」
この研究所が脱出困難なパニック映画の舞台に思えてきて泣けるわ、これ。
「まあ、あれだけの大事をなしておきながら此方には手を出していない。恐らく手を出す必要がない状況、つまり元より手を出す予定がないか、手を出さずとも事態が悪化する虞が無い、逆に言えば手を出せば事態が悪化すると分かっているということか?」
確かにそうなんだけど、と納得してしまうが敢えて出る必要も無いんじゃないかなーと思っていると、
「通報すること自体は向こうに都合が悪いが、此方を拘束するつもりは無い。という事は既に脱出しているか、出入り口を確保していると見ていいだろう。という訳で此処に立て篭もる手もあるが、ここは敢えて外に出て情報を手に入れることにしようか。まあ、出入り口に近づかなければこれ以上何かされるとも思えんのだが、楽観過ぎかな?」
うう、何でこの人こんなにアグレッシブなんだよ、と頭を抱えたい気分ではあるものの、この人の予想ならまあ大外れって事も無いだろうな、と思い、直に如何こうされることも無いのでは、と答えると一つ頷き、
「それでは、これから3人で周り、3人がここで待機する。1時間毎に交代するが、はづきは出なくていい。お前は謝罪と賠償としてはづきの分まで働け。」
主任が俺を見ながらニヤリと笑う。
うっ、忘れてた。
俺は慌ててはづきちゃんに向き直ると、
「ご免、はづきちゃん。あの時の俺はどうかしていたんだ。決して許されるような事ではないけど、だが、僕の誠意を見て欲しい。君の代わりに調査をする事にするよ。例え田原をあんなにした奴がどんな奴であれ、僕は死なない。きっと生き残って帰って来て見せるよ。だけど、若しかしたら相手は人間どころの話じゃなくて絶体絶命の状況に追い込まれるかもしれないけど僕は誰も恨まない。そう誓うよ、君もきっとそうするよね?うん、やっぱり僕の思った通りだ。君は誰かを恨むような人じゃない、人を許せる優しい人間だ。ほら、もう僕のことも許してるんだろう?貴方は素晴らしい人だ。ありがとう、こんな僕を許してくれてありがとう。」
俺は、はづきちゃん、の後は一気に捲し立てた。
彼女が、え?、はあ、はい、と困惑しながら相槌を打とうとしてる傍から一息に、だ。
うむ、俺は許された!彼女に幸あれ、素晴らしき彼女の人生に栄光あれ。
というか、彼女は悲鳴以外にほぼ発言していなかったな、ううう、不憫な子。
「とにかくお前ははづきの代わりに出ろ。何が有るか分からん、咄嗟の時に動けないのは困る。」
天の声により、俺は戦いの地へと赴くことになりそうだ。
最後には異端として火刑に処されるのかしらん。
「主任も外に出るのですか?」
トシがそう聞いてきたので、主任は姿勢を正して宣言するかのように言った。
「私は責任者だ。全ての決定に対する責任がある。そこから逃れるつもりは毛頭無い。例え死地を歩行者天国でするように暢気に練り歩くことになってもだ。無論、私は君達を『結果』から守る。君達は私を『過程』から守ってくれるのだろう?」
これを聞いて、ケンタはニヤリと笑った。トシはなんとなくは理解したようだが、ソノさんは今一理解がついていかないようだ。
俺は少しばかり噛み砕いて言ってやることにした。
何しろ過程から守るのは俺の担当らしい。
「つまりだ、少佐殿は作戦で何かあったら貴様らの汚いケツを拭いてくださる。だが、戦場で飛び交う弾からは貴様らがお守りするのだ!」
俺が先任的なノリで補足してやると、
「アイ、マム!」
ケンタ、ソノ、トシの3人は俺の悪乗りに合わせて声をそろえる。
主任は苦笑いでそれに答える。
「まぁ赤ん坊の尻を拭くのは母の仕事ということだ、それがどんなマヌケな悪戯でも、地獄のデスマーチでも、ささやかなバーベキューでも変わりは無い。分かったら出るぞ?キタ先導、トシ記録、残りはここで待機。周囲の音には気を配れ、携帯の電波も逐次確認しろ。さあ動け、時間は敵にも味方にもなるぞ。」
主任はパンパンと手を叩いて合図とし、行動を促す。
母?なんとなく引っ掛かったが特に気にするような事も無いか。
俺は、倉庫からモップを取り出してヘッドを外し、肩に担いで主任に確認する。
「ンじゃま、出ますけど時計回りでいいですか?」
「ああ、この階はそれほど時間を掛けてもいられん。寝る前にこの階に居たのは、恐らくここに居るので全員だし、我々に対して害意があるならとっくに終わっているだけの時間は有った。『アレ』が事件なのか事故なのか問われれば事件と言えるだろうが、この階で何か情報を得られるとするなら『アレ』の周囲でだけだろう。」
では、とドアを開けるとトシの時刻を読み上げる声が聞こえた。
トシの手には記録用のビデオカメラがあり、こちらを撮影している。
「トーフ・サバイバー開始でッス、難易度はお好みでどうぞ。」
今のお前はボディアーマー装備じゃない、上下グレーのポロとスラックスに白衣で、見るからに端役のやられキャラなんだがな?
「クッソ、お前、俺が先頭なんだぞ分かってんのか。きっとお前は天井から伸びてきた手に引き上げられる、最後尾に着いてる最初の犠牲者確定だ。」
「喧しい、緊張にチビりそうなのは分かるが気を引き締めて行け。」
クソッ、余裕の表情だ、こっちは何かあったらホントにチビりそうだ。というか、寝る前からトイレ行ってなかったの思い出したわ!
「イクにも時と場所があるんすよ。」
俺が減らず口を叩くと
「北川さん、巻いて逝きましょうよ。」
トシも乗っかってきた。
こいつもホントのところはビビってるんだろうがな。
それなりに有名なフラッシュホラーゲームを真っ暗な研究室でプレイさせたら、吃驚して固まってたからな。
二度とやりません、二度とやりません、て暫くの間は尾を引いてたわ。
そんなことを考えながら隣の部屋に入ろうと思ったがのだが。
その前に・・・。
「ちっとばかし所用で抜けさせてもらいます。」
三人で部屋を出た所で主任に向かって言うと、俺の手を見て頷く。
俺の右手の親指は、後ろのトイレを指していたからだ。
そそくさと中に入って用を足すと、ジッパーを上げながら振り向いたところで気がついた。
ふむ、今度は靴か・・・。
とりあえず手を洗ってハンカチで手を拭きながら見るに、大の方の洋式便器の中に右足が、便器の横に左足が。
両方とも膝下辺りでスッパリ切り落とされたモノが転がっていた。
今度のも天井に血で円を描いたように血痕が残っていた。ご丁寧に二箇所。
何か慣れてきてる自分がイヤだった。
普段なら、絶対に大慌てで雄叫びを上げる事になるだろう光景なのに。
まぁ、悲鳴と言わない所がつまらないプライドと言えるな。
じっと見ててもしょうがない、二人を呼んで来る事にする。
トシの方は、ヒッ、と軽く悲鳴を上げたがそれでも確り記録を続けるあたり研究者気質があるんだろうかと思う。
いや、ただ単に自分の目で直に見るのが怖くてカメラ越しに見てる可能性もあるが。
主任は、興味深い様子で左足の方を観察している。
と言うより早速、とばかりにモップで個室から出して来て、タイルに切断された足を立てて切り口やら切断された高さを確認している。
「なあ、キタ。切断された位置に思うことはあるか。」
主任は何か思索しながら、と言う様子でこちらに問いかけてきた。
「は?位置ですか?」
一瞬、何のことか分からずに質問で返してしまう。
「ああ。部位ではなく、二つの意味での位置だ。」
切断された足に向けていた視線をこちらに向け、挑むような強い眼差しを向けてくる。
「部位と、二つの意味ですか?」
俺の方はまだ主任に追いつくことが出来ず、思考がまとまらない。
「まだ起きてなかったかな?下半身と膝下、それから。」
主任の指は天井の血痕を指していた。
「つまり、特定の部位を狙って切断したものではないと?そして・・・そうですね、切断面の高度としての位置ですか。」
やっと思考が追いついた俺は、『部位』のところで手をブラブラさせるのを見せた後、天井の血痕を睨む様に見ながら言う。
「そうだな、特定の部位を蒐集する訳ではないようだ。田原の方はともかく、こちらは死んでいない可能性がある。」
主任は床の足を見ながらそう答える。
「すぐさま治療すれば、という但し書きが付きますけどね。」
つまり、これらが事故ならともかく、猟奇殺人というならば、それが計画的か突発かでは生き残るための難易度が桁違いだと言うことだ。
何しろ、路上や駅のホームで他人の肩を押すのと訳が違う。
一般人が易々と入って来てどうこう出来る場所じゃないのだ。
人は思ったより簡単に死ぬ。しかし大の男一人を正面から殺しにかかったところで、容易には死なない。
特定部位の蒐集。即ち狂人の類、つまり職員であれば生き残る難易度はEasy、外部の人間だと言うならHard、組織立ってならLunaticより酷い。
「それと高度と言うのも興味深いな。見ろ、あの天井。床に着いた足から上がった血ではあんなところに綺麗な円は作れんだろうな。」
狂人ならば、動機には当人だけとは言えども納得する理由があるが、行動そのものは理路整然とした合理的なものにはならずにどこか粗が出るものだが、今回は逆。
結果から見れば見事な状態であるが、複数の職員を狙うその動機については不可解であるとしか言えない。
たかが一地方研究所の職員にこんな大掛かりな殺害方法を取るどんな理由があるってんだ。
いや、この足の落とし主は死んだか如何か知らないけど。
「ええ、あんなところに血痕を付けるなら、まあ居れば、と言う前提で言うなら犯人が作成したというのが最も確率が高いですね。次点で上から漏ってきている、という線ですか。」
犯人がとっくに脱出しているのでない限り、最低でもLunaticだなと考えて、いや、そもそも既に安全な状況にあるという希望的観測に身を委ねる事自体を戒めねば、俺もガンダムAパーツになると思い身震いする。
「天井付近で切断した?」
単なる思いつきといえる内容を何気なく呟くトシ。
「まさか。膝から上が邪魔だし、どうやってあんな天井付近に人を固定するんだ。」
飛び散った血痕に乱れが無い以上、大勢が動き回ったようには見えないから、流石にそれはないだろうと思い否定したが。
「まだ調査を始めたばかりだ、結論を焦る必要は無いさ。」
主任は否定も肯定もなく保留とすることに決定したようだ
「安全の確保は急務ですがね。」
そうだな、と呟くと主任はトイレから出て行く。
俺達も主任の後に続き、トイレを後にする。
その後は特に新たな発見はなく、(女子)仮眠室、倉庫、資料室、田原(但し上半身除く)、倉庫、下半身、工作室・・・といった具合に回って一周し、階段。
再びトイレ前まで戻ってき・・・おい、そこ!下半身が一個多いのに気付いた奴!
余計なこと思い出させんな、クソが!
下半身はもう一個あった。
数え方って「個」だっけ?
田原と同じ様に考えると、上の階でこいつに該当するのは・・・○○市在住、梨絵(仮)クン、43歳、ヘヴィスモーカー、交際歴、結婚歴無し。
クソが!ヘヴィスモーカーのオーバー40なんぞがどうなってるか分かるだろうが!
それがスカートが外れて丸出しになってる所為で、ファンシーな綿パン履いてるという死ぬまで知りたくなかった機密情報がだだ漏れだよ!ホント巫戯けんなよクソが!
いや、取り乱してすまない。
そうだな、この緊急事態の中だ、しっかりしていなかったら、生きていられない。
やさしくなれなかったら、生きている資格がない。
オーケー、オーケー。
俺はしっかりしてる、だから動じない。
俺は優しい、だからBBAにも好きなパンツを許す。
問題は無い、何も。
そう、問題は、無い。
わけあるがああああああああああどぢぐじょうがああああああああ
はづきちゃんの水色が台無しだヴォケェェェェエエ
俺が全くの素の表情で、キリッ、としながら歩くなか、脳内で1000万転1億倒してるうちに階段を一階登り、三研のフロアに出る。
さぁて、サービス画像の一枚絵が表示されるロード画面が終わったからには戦闘開始だぜぃ。
「戦闘開始だ。」
そう俺が呟くと、すかさず反応したトシが踊り場から廊下に躍り出て、サッ、サッと左右に顔を向け鋭く警戒する。
持ってるのはカラシニコバじゃなくて、大砲なんだがな。
ノリは良いけど目の前で真っ二つになってくれるなよ?
「行くぜ、トシ!」
「りょーかい!」
俺の声に反応して、トシが時計回りになるように次の曲がり角まで駆け抜ける。
それに続いて俺も駆けて行き、次の角に当たるエレベーターホールの前の曲がり角の手前で止まる。
トシがしゃがんでカメラを突き出して角から次の廊下を覗き込み、俺は立った状態で覗き込む。
「ぶは。」
思わず噴出してしまった。
やっべ、マジやっべ。
さっき思った通りだった。
これなんてスウィートホーム?
そこにあったのは『田原の上半身』という物体だった。
血に塗れて腹から下が失われているのが見えた。
「うっげ、マジっスか。げへへ、先生、お願いしますぜ。」
「何をお願いすんだよ、越後屋。主任!おねしゃーす。」
トシに文句をつけて、主任にワンタッチでバックパスを回す。
こっちに歩いてくる主任は、何か言いたそうで・・・というか言ってきた。
「何がおねしゃーす、だ。腰抜けと感想を述べておこう。キタはここで監視してくれ。トシに来てもらおう。」
うげ、と呟いたトシを連れ、主任が田口じゃねぇ、田原の確認に行く。田原だよな?アレ。
暫くして、主任がキタ、と呼んで手招きしたのでそちらに行く。
代わりにトシを着ける事にしたのか、こちらに歩いてくる。
うっは、顔色悪・・・。
トシは直にでも吐くんじゃないか、という顔色で歩いてくるが足に力が入ってないのがよく分かるな、フラフラだし。
『田原の上半身』に近づくにつれ、解剖したような、ってか正にそんな血の臭いが強くなってくる。
近くで見ると苦悶の表情を浮かべているソレが、やはり田原であるのが分かる。
ここにあるのはAパーツだけのようで安心した。
下にBパーツがあるのに、ここにもあったら火サスから金ローになっちまうからな、ちと難易度が違うぜ。
安心した、とは言え刻一刻とSAN値が削られてく中で余り長話したくもないし、手早く済ますべきだな。
主任はやはり臭いが気になるのか、『ソレ』から少し手前側に立っており、俺が近づくと胸の前で組んでいた両腕を解いて左手の親指で『ソレ』を示す。
見て来いってか。
俺は何も言わずサッサと終わらせることにして『ソレ』を確認する為に近くでしゃがみ込む。
顔はまあいいとして、切り口ってヤツか、切断面は下半身と同じ感じだが、何か違和感がある。
血は床に広がってる分だけで、壁や天井には飛び散っていない。
凶器の類はないし廊下には血を滴らせて歩き回ったような形跡がない・・・。
「どう思う?」
立ち上がって考えを纏めようとしたところで主任が短く聞いてきたので、右の手の平を見せてちょっと待って欲しいと示す。
何か違和感が拭えない、嫌な感じがあるのだ。
ううう、Aパーツ、Bパーツ・・・。
コアブロッ・・・。
そうだ!コアブロック!
もう一度切り口を確認すると、やはり。
切り口は腹腔ではなく、胸腔だ!
「ええと、いいですか?」
俺がそう主任に言って、頷くのを確認すると話を続ける。
「まず、ガイシャは田原、これに間違いはないですね。凶器は不明ですが生きたまま殺されたのはほぼ間違いないでしょう。ここまでは説明が付きます。」
そこで一旦止めると主任は、続けてくれ、と呟く。
主任の片眉が動くのが見えたので、突っ込もうか迷ったのが分かる。
「説明が付かない部分ですが。まず、切断時の高さ。さっきのトイレもそうですが、これが気に喰わない。床に田原を寝かせて切ればいいんでしょうが、何か覆いを被せて切った様に周りには血の撥ねが無い。にもかかわらず血の広がりは綺麗なもんです。一番近いのは、血の入ったバケツを床面近くで傾けていった、というイメージですね。」
ここまで説明したが、主任の顔には驚きのようなものは見られないから、予想には入っているのだろう。
「何より不味いのが、此処に腹部と下半身が無い事、それから此処以外の廊下に血痕が無いことですかね。」
俺はそこまで言って田原を見ながら沈黙する。
そう、多人数の関与する疑い、これだけは本当に不味い事だ。
そのせいですぐさま外に出る、という手が取り難い。
つまり、余程の大人数で処理しない限り、上半身なり下半身なりを移動させた痕跡を消すなんて出来ないということで、それだけの人数を動かすにはそれ相応の理由を必要とする。
仮に、元々殺してからぶった切っていた田原を置いて血を後からブチ撒けたとしたらどうか。
これ自体は一人で何とかなるのか?
だが二研の全員をベッドやベンチから落としたという事実は一人ではどうにも出来ないことだ。
そう、全員が研究の一段落した明け方に仮眠に入っている。
主任の話では、寝たのが5時過ぎで落とされたのが6時過ぎと言うから、1時間程だ。
少なくとも寝る前に俺が廊下に出た時点で何も無かったのだから、上の階は兎も角、二研のフロアで作業するのは1時間だけか。
最初から一人では無理そうだと思ってはいたが、『組織的に』という言葉が付くだけで脅威度は鰻上りだな、ついでに鯉も熨し付けてやるぜ!
「なるほど。」
と主任の声がして、思考を止める。
「何かもう一押しの情報が欲しいな。さっきの足はトイレだったな。」
主任は腕を組んだまま、田原を眺めながら呟くように言う。
「気は進まないですが。」
俺がおどける様に両手を左右に開いて肩を竦める。
「進むも退くもないな。知りたいなら知ればいい。」
いつも巻き込まれて被害を受けるのは俺なんですがね?と声を出さずに溜息をつく。
「トイレだ。」
主任はそう言って歩き出そうとするが、結果は目に見えてるな、と俺の士気はだだ下がりだ。
「小用ですか、首を長くしておま・・・。」
と言ったところで反転した主任に白衣の襟を掴まれてしまった。
仕方がないな、行きますよー行けばいいんでしょーと、もう自棄を起こしてトボトボとついて行く。
まるで学生の時のような遣り取りに、思わず苦笑が漏れてしまう。
1コ上のおねーさん、学ランのカラーを引っ掴んでは引き摺り回して、散々引っ掻き回しては巻き込んで、うん、それでも頼りになる人だった、巻き込まれてない人には。
主任は俺とトシを伴ってトイレに入る。
トシは見張りをしなければ、と嫌がったが、恐らくいらん、の一言で引き摺り込まれた。
さて、トイレでは予想通りの展開があるかと思ったが、そんなことはなかった。
何故、予想通りでなかったのか。
それはトイレで見たモノが予想より遥かに酷いモノだったからだ。
俺は精々が足を切られた男が助けを待っているか、或いは出血多量で死んでいるかぐらいのものと思っていた。
俺達がトイレに入った時、個室の方から血が流れていたので、まあ予想通りと言えただろう。
当然、使用中なのだから鍵は掛かっている。
まあ此処まではいい、ジャンケンに負けた俺が上から入って鍵を開けることになったのも。
だが、個室に入るために上から覗き込んだ俺はそこで絶句した。
俺が見た個室の中は床も便器も塗り潰す様に血塗れだった。
人の姿は無かった、人の形を模したパーツならあったが。
俺は個室に入らずそのまま下りて、気力を振り絞って一言言った。
「次、行ってみよう。」
後でトシに聞く所によると、余りの無表情さと血の退いた顔色っぷりに、ホンモノだけが持つ・・・云々。
熱く語られる程のふいんき(何故か変換されない)を纏っていたそうだ。だからどうした。
暫くの間、食道を競り上がって来る胃液の感触を押さえて唾を飲み込んで落ち着くのを待ち、再度主任に訴える。
「次、行ってみよう。」
それはもういい、と叩かれた、テヘッ。
分かりました、と言ってモップを持ってきて上から鍵を外す。
スライド式の硬い鍵でなくて良かった、太いバーを軽く回すタイプで良かった。
中に入らずに済む、その感慨に咽び泣きながら戸を開ける。
流石は主任、乙女の雫は無かった。
しかし、汚吐子の雫は盛大だった。頑張れトシ、カメラだけは死守しろ。
改めて見ても、中の様子はやっぱり凄惨としか言いようが無い。
便器の中には男の頭が入っていた。
両脇には両腕が、前には両足の一部が。
まるで便器から生えてるようだった。