記念日 :約2500文字 :コメディー
とある刑務所の刑務官休憩室。
一人の若い刑務官が机に肘をつき、退屈そうにスマートフォンを眺めていた。大きなあくびを一つ漏らし、手のひらで頬をこね回す。丸まった背中が徐々に沈んでいき、ついには顎が机についた。
そのときだった。先輩刑務官が室内に入ってきた。後輩は「あっ」と小さく声を上げ、慌てて椅子から腰を浮かせた。
「お疲れ様です」
「……おう」と、先輩は短く返し、小さく頷いた。
「ゲームか?」
先輩は壁際へ歩きながら訊ねた。
「いや、まあ、そうっす」
後輩は椅子に座り直し、スマートフォンの画面に視線を戻した。
「そうか……ふーん」
先輩は壁の染みをぼんやり眺めながら呟き、そのまましばらく室内をうろうろと歩き回った。貼られているポスターを眺め、机の角を指先で撫で、時折ちらりと後輩に視線を向けた。そうして部屋を二周ほどしたあと、ぴたりと足を止めた。
「来週……決まったから」
先輩は壁を向いたまま、ややうつむき加減でそう言った。
「はい?」
後輩は顔を上げ、先輩のほうへ振り返った。
「死刑執行。来週に決まった」
「……え?」
「初めて……だよな」
先輩は眉間を指先でぽりぽりと掻いた。
「え、えっと……来週、ですか」
「ああ。まあ、手順は知ってるよな。三つのボタンの前に、それぞれ一人ずつ立つ。三人で同時に押すと床が開いて、死刑囚が落下し、首が……な。そのあとの処理もあるが……まあ、予行演習があるから大丈夫だ」
先輩は振り返り、口元にかすかな笑みを浮かべてみせた。励ましのつもりだったのだろうが、後輩は表情を強張らせ、ゆっくりと視線を落とした。
「来週……」
「ああ……わからないことがあったら何でも聞いてくれ。大丈夫だ、大丈夫」
「来週って、ちょうど七日後ってことですか?」
「ああ……短いよな。もう少し早く伝えられたらよかったんだが、こればかりは決定が出るまで、こっちにもわからないからな……」
「無理……無理です」
後輩は激しく首を横に振った。
「自分には……できません……」
「わかるよ。誰だって好き好んでやりたくはない……だが、これも職務だ。誰かがやらなきゃならないことなんだよ。おれだって最初はお前と同じだった」
先輩は目を閉じ、当時を振り返って噛み締めるように頷いた。
「記念日なんです……」
「ああ……ん?」
「その日、妻との結婚記念日なんです」
「おお……?」
「高校時代から付き合っていた彼女との結婚記念日なんですよ!」
後輩は顔を上げ、声を張り上げた。先輩はその勢いに思わず一歩後ずさりした。
「しかも、しかもですよ。告白して付き合い始めた日でもあるんですよ。それだけじゃありません。僕たちが初めて繋がった日もその日なんです」
「繋がったって……いや、一年も待ったのか。すごいな」
「いいえ? 即日ですけど」
「早いな。まあ、ない話ではないか」
「さらにですよ。僕が初めてお酒を飲んだ日もその日ですし、免許を取った日もその日ですし、初めて飛行機に乗った日もその日ですし、初めて鯛を釣った日もその日なんですよ」
「鯛はどうでもいいだろ」
「もちろん、プロポーズした日だってその日なんです」
「即結婚したのかよ」
「いいえ? 一年後に結婚しましたけど」
「よく一年待ってもらえたな。いや、おまえその日に集中させすぎだろ。フルベットかよ」
「記念日だから! 記念日! あああ……」
後輩は再び深くうなだれた。
「……いやまあ、なんだ。そういうこともあるさ」
先輩はどう言葉をかけたものかわからず、困り顔でとりあえずそう言った。
「ずらせませんか……?」
「は?」
「処刑日、少し前倒しにできませんか?」
「いや、できるわけないだろ」
「なんなら、今からやりません?」
「無理に決まってるだろ。せめて延期を希望しろよ」
「そこをなんとか……やりましょうよお……ねえ……」
後輩は椅子を引きずりながら、縋るように先輩へ向かって手を伸ばした。
「寄るな寄るな」
「僕、ボタン三つとも押しますから……」
「そういう問題じゃないだろ」
「結構得意なんですよ。ゲーセンの音ゲー。三つ同時だろうと正確に押す自信があります」
「いや、タイミングの問題じゃないから」
「本人が了承すればいいですよね? 今からお願いしに行きます!」
「やめろやめろ! 了承するわけないし、当日まで本人には知らせない決まりなんだよ!」
「でも無理ですよお……せっかくの記念日が台無しじゃないですか」
「だから、どうしようもないんだ。いい加減折れろよ」
「あの、あのですよ。驚かないでくださいね……初めて自転車に乗れた日もその日なんです」
「知らねえよ。よくそんなことまで覚えていたな」
「初めて歯医者に行った日もその日です」
「どうでもいいだろ」
「初めてバイトした日もその日なんです」
「だからどうでもいいって。というか、お前がその日に合わせにいってるだけじゃないか?」
「その日だけはなんとかなりませんか! お願いします!」
後輩はそう言って深々と頭を下げた。先輩はしばらく黙って後輩を見つめていたが、やがて「はあ……」と深くため息をついた。
「もういい、わかった。仮病でもなんでも使って休め。他の連中には黙っておいてやる」
「先輩……でも……」
「気にするな。ただし、今回だけだからな」
「処刑はしたいんですよねえ」
「……は?」
「いや、前から興味はあったんですよ。でも、彼女との記念日に重ねたくないじゃないですか。その日はハッピーなイベントだけで固めたいんですよ。だってあれでしょ、首を吊ったらおしっことか漏らしたりするんでしょ? その処理とか最悪じゃないですか。ああ、でも歯医者に行った日は勇気を出して乗り越えた日だから別ですよ。ええ、これとは全然違います。できれば、初めて喧嘩で人を殴った日と重ねたいですねえ。ジャンル的に。わかりますよね。だからええと……あっ、三日後ですよ! ええ、この日がいいです。天気も晴れみたいですし、これはもう運命じゃないですか? ああ、スマホに記念日を全部メモしてあるんですよ。これを眺めている時間が一番幸せなんですよねえ。ふふふふふ」
「お前、今日でクビ」
スマートフォンの画面を眺めてニヤニヤしている後輩に、先輩はそう言い放った。
後輩は顔を上げ、何度か目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「先輩、それは六日後がちょうどいいです」




