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9. 三十七年ぶりの、焼きたてを

 ポーレット、という名前である。


 エヴレットの領地の、パン屋の三番目の娘。わたくしとは同い年で、木苺の茂みと、川端の洗い場と、パン窯の前が遊び場だった。わたくしが十六で王都の宮廷へ行儀見習いに上がった年、あの子も王都のパン屋へ奉公に出て、市の立つ日にはよく落ち合ったものである。焼きたての端っこを半分こにして、水路の縁で足をぶらぶらさせて。


 文が絶えたのは、婚礼からである。平民との文通は侯爵夫人に相応しくない――嫁ぎ先の指図は、それだけである。わたくしは逆らわなかった。逆らわなかったことを、三十五の記念日の夜に、一枚の紙に書いたのである。


 指図そのものより、あっさり頷いた自分の声を、わたくしは長く憎んだ。文を絶つというのは、返事を書かないことではない。届いた文を、読まなかったことにする作業である。あの子の字を三度、そうやって見送って、四度目からは届かなくなった。飲み込んだ言葉は喉に沈むけれど、読まなかった手紙は、もっと深いところに沈む。


『昔の友達に、いま会いに行く』


 あの子が湖のこの町でパン屋の女将になっている、というのは、ずっと昔、行商人の噂で耳にした。名前を覚えるのと同じで、人の行方も、わたくしは忘れない。夏の袋に湖の札があったから、この土地を選んだ。そうしたら、いつでもの袋がこの札を寄越したのである。運というものは、たまに粋な段取りをする。


 平民街は、朝の匂いでできている。竈の煙、洗い場の石鹸、干した川魚。パンの焼ける匂いは、その中でいちばん腰が低くて、いちばん強い。角を二つ曲がる前から、店のありかは鼻で知れた。


 ――さて、口上である。


 三十七年、文のひとつも寄越さなかった詫びを、どこから申し上げるべきか。道すがら組み立てた口上は、我ながら上出来の三段構えである。それなのに、角を曲がるたびに段の順番が入れ替わる。五十四歳にもなって、幼馴染ひとりを訪ねるのに、この胸の音である。


 店の敷居をまたいで、一段目を言いかけた。


「ごめんくださいませ。あの、わたくし――」


「いらっしゃいませ! はいはい、焼きたてなら今――」


 粉まみれの女将が、盆を持ったまま顔を上げる。


 止まった。


 盆が台に置かれる、ことん、という音。それから、前掛けで手を拭きもしないまま、女将はまっすぐ回り込んできて、わたくしを抱きしめた。粉が舞う。焼きたての熱と、汗と、遠い昔の川端の匂いがした。


 抱きしめられて、腕が一拍、行き場を探す。三十七年、わたくしの挨拶は膝を折る型ばかりで、腕を回す型を、身体が仕舞い込んでいたのである。思い出すのに一拍。回してしまえば、あとは早い。


「――馬鹿ね」


 耳元の声は、少しも老けていない。


「三十七年も、待たせて」


「……口上が、三段ございましたのよ」


「そういうのはいいんだよ。ほら、座んな。端っこの焼けてるとこ、あんたの分」


 店の中は窯の明かりで蜜色で、天井から干し香草が下がり、空気を吸うだけで少し腹が膨れる。店先の縁台で、焼きたての端を割った。ぱり、と皮が鳴って、湯気が立って、中身は雲のようである。十六の市の日と同じ食べ方で、同じところが一番おいしい。縁の欠けた縁台だけが、あの頃の水路の縁より少し高い。


「で?」とポーレットは自分の端っこを齧った。「侯爵夫人さまが、お供一人で、うちの端っこを齧ってると」


「離縁されましたの」


「知ってるよ。行商人ってのは、パンより噂を運ぶからね」


「あら。では話が早いこと」


「で、次はなにをやらかすんだい?」


 三十七年ぶりでも、この子の相槌は変わらない。わたくしは文箱の札の話をして、燃やした七枚ぶんを指折り数えてみせる。湖で浮いた話では、腹を抱えて笑われた。


「あんたが? 水路も跨げなかった、あのあんたが?」


「跨げましたわよ。裾が重かっただけ」


 それから話は縦横に飛んだ。旦那の腰痛、長女の縁談、三女の駆け落ち未遂、孫の歯の生え具合。わたくしの三十七年より、あの子の三十七年のほうが、よほど波乱に富んでいる。笑って、笑って、ポーレットは一度だけ、前掛けの端で目を押さえた。


「……あんたの手紙が来なくなった年にさ。うちの人が言ったんだ。『貴族ってのはそういうもんだ』って。あたしは、違うって言ったんだよ」


 わたくしは、うまく返せなかった。


「三十七年かかったけど。ほら、あたしが正しかった」


 勝ち誇った顔が、粉で白い。わたくしは、詫びの三段構えを胸の中で破り捨てた。この子に必要なのは詫びではなく、続きなのである。目の奥が、急に熱を持つ。……粉のせいである。パン屋というところは、目に粉の入る商売なのである。


「ポーレット。文箱にね、新しい宛先を書き足してよろしい?」


「今度切ったら、王都まで怒鳴り込むよ」


「ええ。今度のは、誰にも切らせませんわ」


 夕暮れ、窯の火を落とす前に、とポーレットが手招きをする。


「札、燃やすんだろ? うちの窯は、なんでも焼くよ」


 三十五歳の字を、パン窯の残り火に置く。紙はパンより早く焼き上がって、灰の花になった。三十五のわたくしへ。――続きは、取り戻しましたよ。


「残り、二十九枚」


「なんだいそれ。呪文かい?」


「ええ。とびきりの」


 窯の熱が、頬にほてって心地よい。この火は明日も、あさっても、この町のパンを焼くのである。三十七年ぶんの文も、これから何通でも。約束というものに、こんなに軽い種類があったとは。侯爵家の約束は、どれも封蝋と証人の要る目方だった。月に二通。焼きたての端は、端のうちに。……この軽さなら、三十七年でも運べる。


 帰り支度をすませると、あんたの分も焼いといた、と包みを押しつけられた。田舎パンは、両腕でようやく抱える大きさである。


「多すぎましてよ?」


「三十七年ぶんだ。文句を言うんじゃないよ」


 帰り際、ポーレットはふと、店の外に立つ護衛殿を見上げた。中へ誘っても、警備の癖で入り口を守っていた人である。女将の目が、すっと細くなる。


「……あんた、どこかで」


 護衛殿は否とも応とも言わず、ただ一礼した。礼の角度だけが、妙に丁寧である。


「いや、気のせいかね。でかいのは、みんな似て見えるから」


 気のせい、で流すには、あの子の勘は当たりすぎる。なにしろ、パンの焼き加減と同じ勘である。外れたためしがない――。

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