6. 娘が保護しに参りました
翌朝――――。
「よろしくて、お母様。理由は三つございます」
宿の食堂で、娘は指を一本ずつ立ててみせた。卓の上には宿の朝食――豆のスープと黒パン。フェリシアはそれに手を付けず、姿勢だけは完璧である。誰に似たのだか。
「第一に、世間体。侯爵家を出た奥方が安宿を泊まり歩くなど、聞いたことがありません。第二に、お身体。お母様はこの春まで、お屋敷からほとんど出たことのない方ですのよ? 第三に――」
「第三に?」
「……その、なんですの。とにかく、心配ですの!」
三つ目で段取りが崩れるあたり、娘はまだ若い。わたくしは匙を置いて、提案を差し上げた。
「では、今日一日、ついていらっしゃいな。それでも連れ戻したくなったら、そのときは荷物をまとめますわ」
「本当ですわね? 言質を取りましてよ」
娘は勝った顔で黒パンに手を伸ばし、一口齧って、目を丸くした。おいしい、と小さく言ってから、慌てて眉を吊り上げ直す。忙しい人である。
箱は今日、開けないことにした。紙片は逃げないけれど、娘は逃げるかもしれないのである。
湖畔の町の朝市は、娘の知らない音でできている。呼び売りの声、桶の水音、氷屋の鋸、鵞鳥の抗議。娘は日傘を広げ、わたくしに差しかけようとする。わたくしは日なたへ出る。三歩ごとにそれが繰り返され、やがて娘は諦めて日傘を畳んだ。鼻の頭にそばかすの一つも増えるだろう。良いことである。
人波に肩をすくめて歩いていた娘は、焼き串の屋台の前で、鼻だけが正直に立ち止まった。羊の脂と香草が、炭の上でぱちぱちと言っている。
「フェリシア。買い食いというもの、なさったことある?」
「あるわけがございませんでしょう」
「わたくしは先週、覚えましたの」
一本ずつ。娘は串を国宝のように両手で持ち、あたりを三度見回してから、意を決して齧った。それきり、黙る。屋台の親父に「べっぴんの姉妹かい」と世辞を言われ、「親子です!」と憤然と訂正しながら、二本目は自分の銅貨で買っていた。脂で手巾を一枚だめにして、その手巾を、娘はなぜか少し得意げに畳んだ。
得意げの理由なら、わたくしには分かる。汚した手巾は、型の外へ出た勲章なのである。二十八年、この子にも型ばかり着せてきた。脱ぎ方は教えぬまま嫁がせた母が、いまさら隣で串を齧っている。……教え直すのに、遅すぎるということはないと思いたい。
昼は湖畔を歩いた。葦の間で水鳥が昼寝をして、干し網が風に鳴っている。娘は歩きながら、連れ戻しの口上を思い出したように再開する。お屋敷が、とか、世間が、とか。湖を渡る風がその端々をさらっていくので、半分も届かない。
途中、借り物のわたくしの麦わら帽が風に取られた。護衛殿が大真面目に追い、水際まで長靴ごと踏み込み、帽子だけを高々と掲げて、仁王立ちのまま戻ってくる。膝から下がしたたるのに、顔は任務完了の顔である。
――わたくしは、声を立てて笑った。
湖まで届くような笑い声である。自分でも驚いたくらいだから、娘が驚いたのも無理はない。フェリシアは足を止め、まじまじとこちらを見ていた。
「……お母様って、そんなふうにお笑いになるのね」
「だって、おかしかったのだもの」
「おうちでは」と娘は言いかけ、少し迷ってから、続けた。「おうちでは、笑っていらしたかしら」
「口の端ではね、いつも。……声に出すのは、忘れていたみたい」
娘は湖のほうを向く。しばらく、水鳥を数えるふりをしていた。水音だけが、母娘の間をゆっくり流れていく。
わたくしは、その横顔を眺める。この子はわたくしの型で育った。背筋、扇の角度、笑い声の仕舞い方まで。……教えた覚えのないものまで写っているのが、母親というものの怖さである。声を立てて笑う母を、この子は今日まで知らずにいた。見せそびれたものの目録を作るなら、紙片三十七枚では、とても足りない。
夕餉は湖の魚の塩焼きで、娘は骨の外し方を護衛殿に教わっていた。教練の口調で魚をほどく男と、真剣な顔で頷く伯爵夫人である。給仕の娘が笑いを堪えていた。
食後、宿の縁台で、娘は護衛殿の値踏みを始めた。扇こそ持っていないけれど、目つきが社交界のそれである。
「あの方、どなた?」
「護衛よ」
「ふうん……?」
「なあに、その節回し」
「別に? ……ただ、護衛の方って、帽子ひとつのために、あそこまで濡れるものかしら」
娘の目が、ちらりとこちらを見る。
「真っすぐな方なのよ」
「帽子に、真っすぐ……」
娘はそれ以上を言わず、湖に石をひとつ投げる。跳ねずに沈んだ。段取りは得意でも、水切りは初めてらしい。血筋である。
翌朝、迎えの馬車が来た。乗り込む前に、娘は一度だけ振り返る。
「お兄様には、なんて書くおつもり?」
「あら、わたくしが書くのではなくてよ。あなたが書くの」
「……連れ戻せませんでした、と」娘はそう言ってから、首を振った。「いいえ。連れ戻す理由が、見つかりませんでした――そう書きますわ」
「上出来」
「秋になったら、また点検に参りますからね。それから、その……串のお店、あとで文で教えてくださいまし」
馬車の窓から、娘は振り返らなかった。振り返らないのが矜持であるらしい。窓の桟を握った指だけが、いつまでも名残を惜しんでいた。
見送りながら、胸の奥に祈りに似たものがひとつ灯る。祈る神の当てはないから、これは願いである。――あの子が「いつか」と書き溜める夜を、一枚も持ちませんように。手本というものは遅れて届いても効くのだと、母は身をもって証明していく所存である。
馬車が土埃の向こうへ小さくなるのと入れ違いに、宿の女将が手紙を一通運んでくる。侯爵家の――いいえ、嫡男セドリックの署名である。書き出しはこうだ。「母上の御旅は、家名に関わります」。
「……家名、ねえ」
わたくしは手紙を畳み、文箱のいちばん遠い隅、先客の手紙の上へ重ねた。あの隅も、そろそろ賑やかになってきた頃である。家名というものは、こちらが捨てても、向こうから追いかけてくる。追いかけてこられるうちが、先方の花である。
「それにわたくし、いまはエヴレットですのよ」
誰にともなく申し上げて、蓋を閉じる。湖の上を、夏の雲がゆっくり北へ渡っていく――。




