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1. 三十七年目の記念日に、離縁を頂きました

「エレオノール。君は妻として、十分に働いてくれた。――もう、好きにしていい」


 結婚三十七年目の記念日の朝、夫はそう言って、書斎の机の向こうから一枚の紙を滑らせてきた。


 離縁状である。


 窓の外では菩提樹(ぼだいじゅ)の若葉が朝の光を透かし、庭師の撒く水が石畳で跳ねている。水音の合間に、芝を刈る鋏の音がひとつ、ふたつ。刈られた草の青い匂いが、閉めた窓のこちら側までうっすら届く気がする。書斎はインクと葉巻と革の匂いに、昨夜の暖炉の名残がひとさじ。好きでも嫌いでもない。ただ、三十七年ぶんだけ知っている匂いである。


 今朝もわたくしは夜明けに起き、旦那様の好みどおり書斎の花を白に活け替えさせ、それからこの部屋に呼ばれた。三十七年目の記念日の朝の予定としては、なかなか新しい。


「……あら」


 三十七年の総括としては、われながら簡潔な返事だと思う。


 滑ってきた紙は上等で、朝の光を受けて骨のように白い。彼の署名は堂々として、わたくしの欄だけが空いている。インクは乾いて久しい。この文面は、ずいぶん前から今日を待っていたわけである。ただ、今日が何の日かを覚えているのは、この部屋でわたくしひとりらしい。


「イヴェットを正妻に迎える。君も、薄々は知っていただろう」


 ユベール・モンフォール侯爵、五十八歳。若い恋人の隣でだけ、背筋が二十年前に戻る人である。


「存じておりますわ。お屋敷のことは大概、わたくしの耳に入りますの」


「相応のものは払う。屋敷も、望むなら別邸を――」


「お気持ちだけ頂きますわ。持参金と、わたくしの箱をひとつ。それで結構」


「箱?」


「あなたの知らない箱ですわ」


 夫は眉を寄せ、それ以上は訊かなかった。――三十七年、一貫して、訊かない人なのだ、この人は。


 卓上のペンを取る。軸は指先にひんやりと冷たく、けれど手は驚くほど静かである。空いていた欄に、名前を書き入れる。ペン先の音は、思いのほか軽やかだ。十七で嫁いだ日、震える手で書いた名前を思い出す。五十四歳の手は、揺れもしない。


「……即答か」


「三十七年、考える時間はございましたもの」


 離縁状を彼のほうへ滑らせ返す。この部屋で書いた字の中で、いちばん迷いのない署名だと思う。


 退がり際に一礼して、花瓶の白い花を見た。今朝、この部屋で最後に整えたものがあの白だと思えば、悪くない置き土産である。


 荷造りは半日で済んだ。嫁いできたときは馬車三台ぶんあった荷が、出ていくときは一台の半分にもならない。衣装部屋は絹と、防虫のラベンダーの匂い。置いていくものは、ドレスの海と、扇の山と、描かせるたび若返っていく肖像画。持っていくものは、旅着と文箱と、小さな石が幾粒か。石は、いざという時のためである。


 最後に、鏡台へ結婚指輪を置く。かちり、と小さな音がして、三十七年がそこに収まった。今までで、いちばん静かな片づけものである。外した薬指には、指輪の幅だけ白い痕が残っている。三十七年、日の当たらなかった場所である。――まあ、これから焼けばよろしい。


 玄関に並んだ見送りは、古株ばかり数人である。磨いた床に朝の光が長く伸びて、みんなの影を細くしている。料理長は目の縁を赤くし、料理番の娘は焼き菓子の籠を押しつけるように寄越してくる。籠はまだ焼き窯の温度がして、バターの匂いが立ちのぼった。ひとりずつ、名前を呼んで礼を言う。名前を覚えるのは、わたくしの特技なのだ。呼ばれた順に、みんな顔が崩れていく。娘はとうとう前掛けで顔を覆ってしまった。


 廊下で、若い薔薇の香水とすれ違う。イヴェットは扇の陰で目を伏せ、勝った側の礼儀として殊勝な顔を作ってみせた。わたくしは立ち止まり、心から申し上げる。


「お屋敷のこと、よろしくね。特に、秋の大猟祭」


「大猟祭……?」


「あら、ご存じない? ……頑張って」


 嫌味ではない。あれは、頑張るしかないものである。


 馬車に文箱を積んだところで、娘のフェリシアが駆け込んできた。頬に汗がひとすじ光っている。


「お母様、正気ですの?」


「ええ。三十七年ぶりに」


 わたくしは座席で、(かし)の文箱の蓋を開けた。古い紙とインクの、乾いた匂いが立つ。黄ばんだ紙片がぎっしり詰まっている。全部で三十七枚。一番底の一枚だけが、裏返しに敷いてある。


「最初の一枚は、婚礼の前の晩に。あとは毎年、結婚記念日の夜に一枚ずつ――その年いちばん諦めたことを、書いたの」


 娘が紙片をつまみ上げ、読み、絶句する。夜祭で、朝まで踊る。湖で泳ぐ。誰もわたしの名を知らない宿で眠る――娘の指が、一枚の上で止まった。


「……朝寝坊。お母様、こんなことも、できませんでしたの?」


「できなかったのよ。不思議ね」


 娘は何か言いかけて、やめて、紙片をそっと箱に戻した。窓の外を、屋敷の門柱がゆっくり後ろへ流れていく。三十七年出入りした門を、馬車の中から見送るのは初めてである。


「これを、どうなさるの?」


「使うのよ。全部」


「五十四歳で?」


「五十四歳だから、急ぐのよ」


 ――その夜。王都の小さな宿で、わたくしは箱の紙片を一枚ずつ読み返した。蝋燭は一本きり。めくったのは三十六枚。底の一枚は、裏返しのまま置いておく。


 十八の字は撥ねが若く、三十の字はどこか急いでいて、五十の字は静かである。文字が、わたくしと一緒に年を取っていた。一枚めくるごとに、その年の夜がひとつ、指の下で目を覚ます。三十七人のわたくしと、順に目を合わせていく夜である。『言い返す。最後まで』の上では、指がしばらく動かなかった。あの年に何を飲み込んだのかは、指が覚えている。底の一枚だけは、指先が一度触れて、離れた。これはまだ、めくらない。


 それから絹の小袋を五つ並べ、夏、秋、冬、春、いつでも――と札を仕分けた。誕生日の一枚だけは、日付のお約束ゆえ蓋の裏へ。底の一枚は、底のまま。持参金は慎ましく二年分――それを一年で使い切る旅程を組んだ。段取りは、わたくしの特技である。行き先はわたくしが決める。順番は、運にお任せする。それが公平というものだ。


 夏の袋にいつでもの袋を混ぜ、最初の一枚を引く。指先に、乾いた紙の角が触れた。


『夜祭で、朝まで踊る』


 十八歳の字だった。引いた札は、胸元へ。使う日まで、そこが定位置である。窓の外では、王都が夏至祭の(やぐら)を組み始めている。木槌の音が、夜気の底をこつこつと渡ってくる。祭りは、三日後――。


「……ちょうどいいこと」


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