利子は薔薇の名で〜悪徳金貸しと売られた伯爵令嬢〜
大陸の北西。
森と水晶の小国ヴァルデンでは、神の定めによって、契約は血より重いとされる。
神の名にかけた誓いよりも、王の印章よりも、魔術師の刻んだ契約文字は人を縛るのだ。
紙に落とされた血判は、ただの赤い染みではない。
そこには名と魂の一部が絡め取られ、破約した者の舌を焼き、手を震わせ、眠りの底にまで声を響かせる。
だから、父がその『契約書』に署名したと知った時、ローゼ・フォン・ローヴェンは自分の家が終わったことを悟った。
ローヴェン伯爵家は、古いだけが取り柄の家だった。
魔王領に近い森境に砦を持ち、代々、王都から遠い霧の土地を守ってきた。
名誉はある。
歴史もある。
けれど銀山はなく、水晶脈もない。
しかし、領民から過剰な税を搾るほど父は冷酷ではなかった。
よく言えば清廉。悪く言えば愚直。
古い貴族として誇りを守ることだけは上手く、金を増やすことだけは最後まで覚えなかった。
その家を食った男の名は、セヴラン・クラウス。
商会を営む、王都で最も若く、最も美しく、最も悪名高い金貸しだ。
表では、傾いた競合商会を救う新興実業家。
王妃の慈善会へ多額の寄付をし、教会の孤児院に冬の毛布を贈り、夜会では王女にすら丁重に膝を折る紳士。
裏では、利子で貴族を首まで沈め、裁判官の椅子を買い、政敵の愛人に宝石を贈り、破産した家の肖像画まで競売にかける男。
彼に金を借りた者は、たいてい二度と自分の足で立てない。
立っているように見える者も、糸はクラウス商会の指に結ばれている。
ローゼは、彼を一度だけ見たことがあった。
冬の終わり、王都の夜会でのことだ。
彼は大広間の中央にいながら、まるでそこが自分の部屋であるかのように静かだった。
騒がない。
媚びない。
誰かを追いかけない。
黒髪を後ろに流し、青灰色の瞳で人々を眺め、微笑むべき相手には微笑み、切り捨てるべき相手には目だけで牽制した。
恐ろしい男だと思った。
けれど、美しい男でもあった。
そう思ってしまった自分を、ローゼはその場で叱った。
美しい毒を、毒と知りながら見るのは愚かだ。
まして自分は、森境の貧しい伯爵家の娘である。
王都の権力者と関わることなどない。
そのはずだった。
夜会の終わり、ローゼが露台で冷たい空気を吸っていると、背後から声がした。
「失礼、ローゼ嬢?」
振り返ると、そこにセヴラン・クラウスが立っていた。
彼は手にした杯を掲げるでもなく、夜会らしい甘い挨拶をするでもなく、
「貴女は、誰の誘いにも頷かないのですね」
そういって、ただ彼女を見ていた。
「踊るのが苦手ですので」
「嘘ですね」
初対面でそう言われ、ローゼは息を呑んだ。
だが彼は失礼を詫びなかった。
ただ、セヴランは面白そうに目を細めた。
「貴女は踊れる。先ほど、足元だけで三人分の癖を読んでいた。相手が下手だから断ったのでしょう」
どきりと、心臓が跳ねたのを、ローゼは必死に隠し通した。
「仮にそうだとしても、初対面の方に指摘される覚えはありません」
「では、初対面ではなくなればよい」
いけしゃあしゃあと、セヴランはそうのたまった。
「貴方のお名前は存じています」
関わるべきではない。
そう判断して、ローゼは会話を打ち切ろうとして、
「名を知っていることと、相手を知っていることは違いますよ」
夜風が、露台の薄いカーテンを揺らした。
広間の楽の音が遠のき、二人の間だけが妙に静かになる。
セヴランの淡々とした言葉に、ローゼは、露台の欄干に置いた手に力を込めた。
この男は危ない。
近づけば、言葉の縁で服を引っかけられる。
笑顔で会話しているつもりが、気づいた時には逃げ道を塞がれている。
「私は、貴方を知りたいとは思いません」
「私は、貴女を知りたい。ローゼ・フォン・ローヴェン」
名を呼ばれただけなのに、首筋に冷たい指を滑らされたような気がした。
夜会の誰もが彼女を「ローヴェン嬢」と呼ぶ中で、彼だけが名前を拾い上げた。
あまりにまっすぐ言われて、ローゼは返す言葉を失った。
彼の声に熱はなかった。
けれど、その冷たさがかえって本心に聞こえた。
戯れで囁く男たちの甘さとは違う。
花に寄る蝶ではなく、獲物の輪郭を測る獣の声だった。
「なぜです」
ローゼは思わず、そう問うてしまった。
「退屈しなさそうだから」
答えはあまりに短く、飾り気がなく、だからこそ侮辱より深く刺さった。
悪びれることなく向けられるセヴランの瞳は、まるでローゼの思考を読むようで――怖い。
「失礼な方」
「美しいと言えば、許しましたか」
「いいえ」
きっぱりと、ローゼは否定した。
美辞麗句など、こういった社交の場では嫌ほど聞かされる。
「では、失礼なままで結構です」
彼は拒絶を受け取ってなお、少しも傷ついた顔をしなかった。
むしろ、その拒絶こそ望んでいたもののように、薄く笑う。
笑いながら、セヴランは一歩近づいた。
「貴女は、怒った時の方が綺麗ですね」
ローゼは一歩退いた。
「褒め言葉のつもりなら、下手すぎます」
背中が、欄干に触れた。
「下手で構いません。貴女が、私を忘れなければ」
彼は、それ以上近づかなかった。
「忘れます」
距離を測るように止まり、彼女が逃げる余白だけを残した。
「では、忘れられないようにしましょう」
言葉が落ちた瞬間、ローゼは初めて、自分が逃げ遅れたことを悟った。
余白をあっという間に埋めて、男は、ローゼの髪を一房手に取り、唇を落とし囁いた。
「白金の糸に、朝焼けの薄紅で染め上げたようなストロベリーブロンド。まるで神が遣わせたような奇跡の色。……ええ、ぴったりですね」
何に、とは言わなかった。
その時の言葉を、ローゼは何日も忘れられなかった。
――忘れたかったのに。
そして半年後、父の書斎で、彼女はセヴラン・クラウスの署名を見た。
流麗で、冷たく、美しい字。
まるで、白い喉に刃を当てる手つきのような字だった。
契約の返済期限は三日後。
しかも本来ならば、二ヶ月前が期限のものを、延長されている。
元金は領地の年収、五年分。
利子はさらにその倍。
到底、払えるはずがなかった。
「お父様」
ローゼは契約書から顔を上げた。
「どうして、こんなものに署名を」
父は椅子に沈んでいた。
母は隣で泣き崩れ、弟は何もわからぬまま唇を噛んでいる。
「砦の補修費が必要だったのだ。森境の崩落を放っておけば、次の春には道が塞がる。王都に願い出ても金は出なかった。親族も皆、うちの没落を待っていた。……クラウス殿だけが、すぐに貸すと言った」
道理はわかる。
放置して被害を受けるのは、罪なき領民たちだ。
「返せる見込みは」
よりにもよって悪名高いクラウス商会の手を借りるとは、ローゼには思いもよらなかったのだ。
「秋の税収と、叔父上からの援助があれば……」
「……叔父様は先月、鉱山投資に失敗しました、よね?」
ローゼの言葉に、父は顔を覆った。
ローゼは、もう一度契約書を見た。
条文の中に、見慣れぬ一節がある。
『返済不能の場合、クラウス商会はローヴェン家の任意財産、権利、婚姻交渉権の一部を取得する』
――婚姻交渉権。
指先が冷えた。
そこで初めて、ローゼはあの夜の言葉を思い出した。
『忘れられないようにしましょう』
喉の奥が、焼けるようだった。
彼は、最初から忘れさせるつもりなどなかったのだ。
◇ ◆ ◇
三日後の夕刻、クラウス商会の馬車が来た。
黒塗りの箱馬車だった。
車輪には銀の装飾、扉には水晶の紋章。
御者まで黒衣で、馬のたてがみには王都でしか見ない細い金鎖が編み込まれている。
雨は降っていなかったのに、空は低く、森の奥から冷たい霧が流れていた。
馬車から降りた青年を見て、家の者たちが息を呑む。
ローゼだけは、息を殺した。
やはり美しい男だった。
それが腹立たしかった。
黒髪は濡れたように艶があり、青灰色の瞳は冬の湖面に似ている。
上質な外套の下に細身の黒い礼服を着て、手袋の指先まで乱れがない。
顔立ちは若い。二十五歳と聞いている。
けれど、そこに若者らしい不安定さはなかった。
氷ではない――刃だ。
冷たいのではなく、触れたものを切るために澄んでいる。
「ローヴェン伯爵」
セヴラン・クラウスは父へ一礼した。
平民にしては、異様に礼儀正しかった。
だからこそ、ローゼは恐ろしかった。
「期限です」
冷徹な宣告に、父が膝をついた。
「クラウス殿、どうか、もう少しだけ猶予を」
「猶予は売り物です。ですが、伯爵はすでに猶予を買う金をお持ちではない」
もう二ヶ月待ったのですよ。
そう、冷静に告げる。
「領地を担保に」
「森境の痩せた土地です。買い手がつかない」
「砦を」
なおも食い下がる父に、セヴランは首を振る。
「あの砦は王の防衛資産です。私有物ではありません」
「では、屋敷を」
「古すぎる。解体費の方が高い」
セヴランは淡々と言った。
淡々と、人の家を値踏みした。
母が泣き声を漏らした。
弟が父の袖にしがみつく。
使用人たちは壁際で顔を伏せている。
ローゼだけが、青年を見ていた。
彼は、この惨状を楽しんでいる。
笑ってはいない。
だが、退屈もしていない。
獲物が罠に落ちる瞬間を眺める、静かな満足が瞳の奥にあった。
「では、何をお望みですか」
ローゼは一歩前に出て、そう言った。
父が叫ぶように名を呼んだ。
「ローゼ!」
セヴランの視線が、初めて彼女に向いた。
その一瞬、部屋の中にいた誰もが、彼の本当の目的を理解した。
金でも土地でもなく、視線の先にいる娘こそが、この男の取り立てる利子なのだと。
半年前の露台と同じ目だった。
彼はローゼを覚えていた。
いいや、覚えているどころではない。
この日のために、父を、家を、領地を、弟の未来まで計算に入れてここへ来たのだ。
そう理解した瞬間、ローゼの胸に怒りが灯った。
同時に、目を逸らせない自分がいた。
恐ろしい男。
最低の男。
けれど、自分だけを見ている男。
その視線の濃さが、どうしようもなく彼女の肌を粟立たせた。
「お父上と違って、ご令嬢は話が早い。胆力もある。今日は、貸した金の取り立てではありません」
「では、何を取り立てに来たのです」
ローゼは、背に両親と弟を隠すように、セヴランの前に立ちはだかった。
「利子を」
「利子?」
「ええ」
たった二文字が、刃物のように床へ落ちた。
誰も拾えない。
誰も否定できない。
セヴランは懐から、もう一枚の契約書を取り出した。
「それは……」
父が目を見開いた。
「同じものをお持ちでしょう? 追加条項です。期限内に返済不能の場合、クラウス商会はローヴェン家の任意財産、権利、婚姻交渉権の一部を取得する」
セヴランは微笑んだ。
その笑みは優しかった。
優しすぎて、残酷だった。
「元金はいりません。ローヴェン伯爵家の負債も、私が引き受けましょう。砦の補修費も追加で出します。弟君の教育費も、奥方の療養費も、使用人の給与も、すべて私が支払う」
父の顔に、愚かな希望が浮かんだ。
ローゼは、その希望を見て胸が潰れそうになった。
次に来る言葉を、彼女はもう知っていた。
「その代わりに、追加条項を受け入れてください。そして『利子』として、ローゼ・フォン・ローヴェン嬢をいただく」
部屋の空気が凍りついた。
「妾に、という意味ですか」
ローゼは尋ねた。
自分の声が思ったより冷静だったことに、ローゼ自身が驚いた。
怒鳴れば、泣けば、彼の思う壺になる。
そう直感していた。
セヴランは少しだけ眉を上げた。
「私が、欲しいものをそんな半端な場所に置くと思いますか」
「では、……妻に?」
ローゼには決まった相手はまだいない。
それを知ってか知らずか、セヴランは笑った。
「いいえ、婚約者として屋敷へ迎えます。正式な婚姻は、あなたが二十歳になってからで構わない。そのための『婚姻交渉権』ですから」
ですよね、とセヴランは父を見た。
「貴族の皆様なら、政略結婚でもっと早くに婚姻を結ばれるでしょう? ですが、平民の私がローゼ嬢に無理矢理婚姻を迫るなど畏れ多い。――二年後、ローゼ嬢は自由意思で、私との婚姻を望まれるでしょう。ね?」
その「自由意思」という言葉だけが、ひどく甘く、ひどく汚れて聞こえた。
セヴランは笑ったまま、言葉を継いだ。
「私は法に触れるつもりはありません。法の外に出る者が嫌いですから」
「法の内側で、人を殺すのはお好きなのに?」
ローゼの言葉に、父が息を呑んだ。
母が泣き止んだ。
誰もが言えなかったことを、ローゼは言った。
言ってしまえば戻れないとわかっていたのに、口を閉ざす方がもっと屈辱だった。
セヴランはローゼを見つめたまま、ゆっくり笑った。
今度の笑みには、明らかな愉悦があった。
「ええ。好きです」
悪びれない声だった。
その返答に、ローゼの怒りは冷えなかった。
むしろ澄んだ。
憎むべき相手の輪郭が、はっきりしたからだ。
「法を破れば野盗です。法を使えば支配者になれる。私は野盗になりたいわけではない」
どうされますか。
セヴランはそう瞳だけで訴えていた。
父ではなく、ローゼに向けて。
「なぜ私なのです」
「夜会で見た」
「それだけ?」
「それだけで十分でした」
セヴランは一歩、ローゼへ近づいた。
「貴女は、退屈な男たちに囲まれていた。伯爵家の娘として微笑み、誰にも本心を見せず、けれど誰のものにもなっていなかった。あの露台で、私に向けた目が気に入りました。怖がっていたのに、逃げなかった。怒っていたのに、私の言葉を聞いていた」
「だから、父に金を貸したのですか」
「はい」
「返せないと知っていて?」
「ええ、返せない額を貸したのです」
ローゼの頬から血の気が引いた。
父が呻いた。
「クラウス殿、まさか、初めから……」
「初めからです。知りませんでしたか? 私の悪評を」
セヴランは父を見なかった。
きっと、叔父の失敗も、王都からの援助がなかったのも、すべてこのセヴラン・クラウスの手によるものなのだろう。
彼の視線は、ずっとローゼにだけ向いていた。
「私は、欲しいものを待つ趣味がありません。口説くのは嫌いではありませんが、競争は好まない。誰かに先を越される可能性があるなら、先に檻を作る」
「最低です」
明確な『囲う』という発言に、ローゼは思わずそう口にしてしまっていた。
「知っています」
「恥ずかしくないの」
「まったく」
それは本心だろう。
でなければ、クラウス商会の評判は、今頃もっと良いはずだ。
「私に憎まれるとは思わなかったのですか」
「思いました」
彼の声は穏やかだった。
「ですが、憎まれても、貴女は私の屋敷に来る。それ以外の選択肢が、他にありますか?」
穏やかであることが、何より残酷だった。
彼はローゼの怒りすら、契約の条項のように読み込んでいる。
ローゼは、セヴランを平手打ちした。
音が鋭く響いた。
使用人の誰かが小さく悲鳴を上げた。
父が立ち上がろうとして、膝から崩れた。
セヴランの顔が横を向いていた。
白い頬に赤い跡が残る。
ローゼの手のひらがじんと痺れた。
その痛みだけが、自分がまだ自分の意思で動ける証のようだった。
彼はゆっくり顔を戻した。
怒っていなかった。
むしろ、楽しそうだった。
「いい手です」
「ふざけないで」
「ふざけていません。貴女の指は細いが、ためらいがない。気に入りました」
セヴランは、うっとりと、赤くなった頬に手を添える。
その仕草があまりに本気で、ローゼは嫌悪より先に、理解不能なものを見た時の眩暈を覚えた。
「セヴラン・クラウス。私は、貴方のものになりません」
「なります」
「心までは奪えない」
「では、まず身柄と名前と生活をいただきます。心は後で考えましょう」
ローゼは震えた。
恐怖で。怒りで。
そして、認めたくない何かで。
彼は怪物だった。
けれど、父のように弱くはなかった。
王都の青年貴族たちのように、甘い言葉で責任を避ける男でもなかった。
欲しいと言い、奪うと言い、そのために罠を仕掛けたと正面から告げる。
最悪だった。
その最悪さが、あまりにも鮮やかだった。
鮮やかすぎて、逃げ場がない。
「ひとつ、条件があります」
ローゼは言った。
「聞きましょう」
鷹揚に、セヴランは頷いた。
「追加条項を守る限り、家族には手を出さないで。弟の相続権を守り、母に療養を与え、父を牢に入れない。使用人も解雇しないで」
「優しいですね」
「貴方と違って」
「そこが欲しかった」
セヴランは静かに言った。
「貴女は、怒りながらも交渉する。泣いて許しを請うのではなく、条件を出す。自分を差し出す前に、守るものを数える。美しいと思いました」
その声だけ、わずかに低くなった。
「褒められても嬉しくありません」
「嬉しがらせるために言っていません。私が欲しがった理由を述べただけです」
「貴方の欲しいは、愛ではないわ」
セヴランの『欲しい』はもっと、おぞましい何かだ。
「では、貴女は愛を何だと思っているのです」
問い返され、ローゼは詰まった。
愛。
それは、相手を思いやること。
自由を尊ぶこと。
幸福を願うこと。
手を引くべき時に手を引くこと。
そう答えるべきだった。
だが、セヴランの目を見ていると、その答えがひどく薄く感じた。
綺麗で、正しくて、彼にはまったく届かない言葉。
「少なくとも、罠を仕掛けて家を壊すことではありません」
「それは正しい」
心底楽しげに、セヴランが笑って言った。
「認めるのね」
「認めます。私の愛は、貴女が信じる愛ではない」
セヴランは契約書を机に置いた。
「私は、貴女が私を選ばないと知っていた。だから、貴女が選ばざるを得ない形を作った。卑怯でしょう。横暴でしょう。悪辣でしょう。けれど、私はどうしても、貴女が欲しかった」
言葉の最後だけ、わずかに熱を帯びた。
そこに弁明はなく、罪悪感もなく、ただむき出しの欲望だけがあった。
ローゼの胸が、ひどく乱れた。
それは告白だった。
吐き気がするほど身勝手で、救いようがなく傲慢で、けれど間違いなく彼女へ向けられた告白だった。
誰かの娘としてではない。
家の道具としてでもない。
古い血筋の令嬢としてでもない。
ローゼ・フォン・ローヴェンという一人の女を、彼は欲しいと言っている。
だからこそ、許せなかった。
「貴方は、私を愛しているのではありません。私を所有したいだけです」
「私にとっては同じです」
「違います」
即座に否定しなければ、その歪んだ言葉に呑まれてしまいそうだった。
愛と所有には天と地ほどの差があるはずだ。
ローゼは認めたくなかった。
「なら、私に教えてください」
「私が貴方に教えると思うの? セヴラン・クラウス」
「教えざるを得ないほど、そばに置きます」
ローゼは口を噤んだ。
セヴランは、穏やかに微笑んでいる。
まるで求婚の言葉を告げた紳士のように。
「ローゼ嬢の提示した条件を受け入れます。先に述べた通り、私、セヴラン・クラウスはローヴェン家の債務を買い取り、ローヴェン伯爵家の名誉は表向き保たれる。弟君には王都の学院への入学枠を用意しましょう。奥方には海神信仰圏の療養地を。使用人は希望者のみ、私の給金で雇い続ける」
「お父様は」
「二度と借金をさせません。必要なら、私の監督下に置く」
不穏な単語に、ローゼは眉を顰めた。
「監督?」
「ローヴェン伯爵から家政権を取り上げます。貴女の弟が成人するまで、実務は私側の人間が行う」
「父を生かしたまま、家長ではなくすのですね」
「死なせるより慈悲深いでしょう。そうですねぇ」
とんとんと、長い指先が机を叩いた。
「債務整理を行い、弟君が相続するころには、ローヴェン家はもとより、領地の財政は健全化されているでしょう」
「それを慈悲と呼ぶの」
「私の言葉では、そう呼びます」
ローゼは唇を噛んだ。
血の味がした。
「では、私からも条件を」
セヴランが言った。
「まだあるの」
「貴女は今夜、私の馬車に乗る」
「早すぎます」
思わずそう叫んでしまった。
「遅いくらいです。私は半年待った」
その言葉に、ローゼの心臓が跳ねた。
半年。
彼はあの夜から、ずっと、この瞬間を待っていたのだ。
「私に、別れの時間も与えないのですか」
「与えれば逃げるでしょう」
「逃げません」
「嘘ですね」
セヴランは言い切った。
ローゼは言い返せなかった。
逃げるつもりだった。
森に、魔王領に近い古道へ。
たとえ禁域の警告石を越えてでも、彼の手の届かない場所へ。
魔王に攫われた――それだけで、ローヴェン家には言い訳は立つ。
魔王が手を出したとなれば、国王ですら口を閉ざす――人間は、それほどまでに彼らに逆らえないからだ。
そうなれば、あらゆる『契約』は無効化される。
「別に、逃げても構いませんよ?」
セヴランは言った。
ローゼは目を見開いた。
「その場合、あなたを匿った村は債務不履行の共犯として訴える。馬を貸した者からは、厩舎を取り上げる。宿を使えば宿主を破産させる。魔王領へ入れば、境界警備隊に知らせる。あなたが一歩逃げるたびに、あなたではなく周囲が傷つく」
淡々とセヴランが理由を並べ立てた。
「卑怯者」
「ええ、褒め言葉です」
「最低」
「聞き慣れた言葉ですね」
「悪魔」
「それは森の方々に失礼です」
ローゼは彼を睨んだ。
セヴランは微笑む。
「私から逃げたいなら、私だけを敵にしなさい。貴女は賢い。無関係な者を巻き込む逃走を選ばない」
その通りだ。
だから憎い。
彼は、ローゼの善性を見抜いて檻に使っている。
「貴方を殺したくなったら?」
「寝室に短剣を置いておきましょう」
「本気?」
「本気です。貴女が私を刺せるほど近くにいるなら、それは悪くない夜だ」
冗談であってほしかった。
だが、セヴランの目は笑っていなかった。
彼は本当に、刃を向けられる距離すら望ましいと思っている。
ローゼは言葉を失った。
セヴランは彼女の手を取った。
手袋越しの指は冷たくない。
むしろ温かかった。
血の通った、生きている男の手だった。
それが嫌だった。
怪物なら、もっとわかりやすく憎めたのに。
彼はローゼの指先に口づけた。
礼儀に則った、貴族的な仕草。
けれど、その目は一度も伏せられなかった。
まるで、口づけすら所有の確認であるかのように。
「ローゼ」
初めて、甘い声で呼ばれた。
甘い、あまい、毒だった。
「貴女は今日、私を憎んでいい。明日も、来年も。ですが、覚えておいてください。私は貴女を手に入れるために、貴女の家を壊しました。後悔はしていません。これからも、ローゼを手放すための善人にはならない」
「そんな告白で、私が頷くと思うの」
「頷かなくていい」
セヴランは彼女の手を離さなかった。
「貴女の沈黙も、拒絶も、怒りも、私の屋敷で聞きます」
「私は貴方を愛さない」
きっぱりと言い切ったが、
「なら、私が先に愛しましょう」
セヴランは意にも介さない様子だった。
「それは脅迫よ」
「求愛です」
「貴方の辞書は壊れているわ」
「ローゼが訂正してくれるなら、喜んで差し出します」
そんなものを差し出されても困る。
そう思うのに、彼の言葉にはいつも、拒んでも手の中に残る棘があった。
ローゼはもう一度彼を打とうとした。
今度は、手首を捕まれた。
痛くはなかった。
逃げられないだけだった。
セヴランは彼女の手首を押さえたまま、そっと自分の頬へ導いた。
先ほど打たれた赤い跡へ。
「ここなら、もう一度」
「……狂っているわ」
「よく言われます」
「誰に」
「私を憎む人々に」
思わず、ローゼは呆れてしまった。
「その人たちは正しい」
「ええ。もっとも、正しいことと、私を止められることは別ですが」
ローゼは力を抜いた。
負けたわけではない。
今ここで逆らっても、守りたいものが壊れるだけだと理解しただけだ。
「荷物をまとめます」
「不要です。服も宝石も本も、すでに用意してあります」
「私のものを、貴方が決めないで」
「では、明日の朝、ローゼの希望を聞きます。今夜は私が決める」
「横暴ですね」
「はい」
セヴランは穏やかに肯定した。
その徹底した悪びれなさに、ローゼは笑いそうになった。
笑えば負ける気がして、奥歯を噛みしめた。
玄関へ向かう前、彼女は父母に別れを告げた。
母は泣きながら抱きしめ、父は何度も謝った。
弟は、必ず迎えに行くと泣いた。
ローゼは弟の髪を撫でた。
「勉強しなさい。強くなって。誰にも、署名する手を預けては駄目」
弟は泣きながら頷いた。
背後で、セヴランが静かに待っている。
急かさない。
その程度の優しさなら彼にもあるのだと気づいて、ローゼはひどく腹が立った。
馬車の扉が開く。
中は暖かかった。
毛皮の膝掛け、香油を染み込ませた小さな布、熱い茶の入った銀の水筒。
すべて、彼女のために用意されている。
奪うための檻が、あまりにも丁寧に整えられていた。
ローゼが乗り込むと、セヴランも向かいに座った。
馬車が動き出す。
屋敷が遠ざかる。ローヴェン家の古い尖塔が、霧の中に沈んでいく。
ローゼは窓を見つめたまま言った。
「私は、貴方を許さない」
「構いません」
「いつか、貴方が私を選んだことを後悔させる」
その言葉は挑発であり、本心でもあった。
馬車の揺れに合わせて、ランタンの灯が彼の瞳の中で揺れた。
「楽しみにしていますよ、ローゼ」
からかいまじりの返事に、
「本気よ」
思わず、ローゼはそう口にしてしまった。
「私も本気です」
セヴランは手を伸ばし、ローゼの肩に落ちた髪を一房すくった。
ローゼは振り払おうとした。
けれど彼は、それより先に髪へ唇を寄せた。
「本当に美しい。天然のストロベリーブロンドなんて、この国に何人いるでしょうね? ローゼ」
「触らないで」
「今は、ローゼの髪だけで我慢します。蜂蜜色の瞳が、私に釘付けになる日を楽しみにしています」
「そんな日、来るわけがないわ。セヴラン・クラウス……貴方、我慢を知っているの?」
「貴女に関しては、覚える必要がありそうだ」
彼は笑った。
冷たく、甘く、楽しげに。
ローゼはその笑みを憎んだ。
憎んで、憎んで、憎み切れないほど鮮明に見つめてしまった。
馬車の中で、沈黙が落ちた。
車輪が石畳を離れ、森道へ入る。
外では霧が木々の間を流れている。
ランタンの灯が窓に映り、向かいの彼の顔を薄く照らした。
横顔なら、実年齢よりもう少し若く見える。
そう思った瞬間、ローゼは自分を責めた。
何を見ているの。
何を考えているの。
目の前にいるのは、自分の家を壊した男だ。
父の弱さにつけ込み、弟の未来を人質にし、自分を利子として取り立てた悪人だ。
だが、セヴランは黙っていると、ただの美しい青年に見えた。
長い睫毛。
整った鼻梁。
指に嵌めた黒水晶の指輪。
打たれた頬には、まだ赤みが残っている。
その跡を見て、ローゼの手のひらが熱くなった。
「見ていますね」
セヴランが言った。
ローゼは視線を窓へ戻した。
「見ていません。貴方が見られていることに、慣れすぎているだけでしょう」
「ええ。ですが、ローゼの蜂蜜色の瞳に見られるのは気分がいい」
「気持ち悪いことを言わないで」
ふいと、ローゼは瞳を逸らす。
髪だけではなく、蜂蜜色の瞳まで気に入られるとは思わなかったのだ。
「では、気持ちのいいことを言いましょうか」
「黙っていて」
「それは難しい。何せ、世の人々には『セヴラン・クラウスは口から先に産まれた』と罵られるので」
その罵倒に、ローゼは思わず納得してしまった。
この男なら大いにありえる。
「半年、考えていたことがあります」
ローゼは黙った。
聞きたくない。
聞きたくないのに、聞いてしまう。
車輪の音が、やけに大きく聞こえた。
逃げ場のない馬車の中で、彼の声だけがまっすぐ届く。
「ローゼを屋敷へ迎えたら、最初に何を言うべきか。怖がらせすぎるのは損だ。優しくしすぎれば嘘になる。謝罪は論外です。私は悪いことをしたと思っていますが、後悔はしていない」
「そこは謝るところでは」
「謝れば、ローゼは私を少し軽蔑するでしょう」
言われて、ローゼは反射的に否定できなかった。
謝られたなら、きっとそれも腹立たしかった。
彼の悪行が、安い悔恨で片づけられるようで。
呆れ果てたところに、追い討ちされてローゼは嘆息した。
「今でも、十分しています」
「いいえ。ローゼは私を憎んでいる。軽蔑よりもずっと強い。私は、ローゼの中で薄くなりたくない」
ローゼは胸を押さえたくなった。
言葉が、心の内側に爪を立ててくる。
「最低の口説き文句ね」
「ローゼは、最低だと言いながら返事をしてくれる」
「黙ってと、言ったつもりよ」
「黙ったら、貴女は私を見なくなる」
そう言われて、ローゼは言葉に詰まった。
確かに、彼が黙ればローゼは窓の外を見る。
彼が話すから、セヴランを見てしまう。
怒りながら、睨みながら、それでも彼の声を拾ってしまう。
セヴランは、それを知っている。
自分がどうすればローゼの意識を奪えるか、すでに測っている。
「貴方は、人の心を金庫か何かだと思っているのね」
「似ています。鍵があり、癖があり、力任せに壊せば中身が傷む。開け方を覚えれば、何度でも開けられる」
「私は開けさせない」
「では、鍵穴を探します」
ぞっとする言葉だった。
「ないわ」
「貴女は今、そう思いたいだけです」
ローゼは唇を引き結んだ。
馬車が揺れる。
膝に置いた手がずれ、向かいに伸びたセヴランの手と少しだけ触れた。
ほんの少し。
指先が触れただけ。
それなのに、体が反応した。
彼も気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「……なぜ、何も言わないの」
「今言えば、貴女は手を引く」
「もう引いたわ」
「ええ。けれど、触れたことは覚えたでしょう」
「忘れます」
「忘れないようにします」
半年前と同じ言葉だった。
ローゼは彼を睨んだ。
セヴランは、窓の外から彼女へ視線を戻し、静かに言った。
「ローゼ。私は、貴女を善人として愛すつもりはありません」
「善人になれるとも思えないけれど」
「なれません。なる気もない。債務者に容赦はしない。邪魔な者は破産させる。ローゼを奪ったことも撤回しない」
「なら、何を言いたいの」
「ローゼにだけ、私の悪意の向きを教えておこうと思いまして」
「悪意の向き?」
「他人には、奪うために使う。貴女には、囲うために使う」
さらりと、破綻した倫理観を披露され、ローゼは推し黙るしかなかった。
「……どちらも、悪いことよ」
どうにかそれだけを絞り出したものの、
「はい。ですが、これが私のある種の生存術なので」
結局、セヴランの無茶苦茶な思想が、開示されるだけだった。
「わかっていて、やめないのね」
「ローゼを手放すくらいなら、やめません」
ローゼは、怒るべきだった。
怒るべき言葉だった。
だが胸の奥で、何かが小さく震えた。
この男は、彼女のために善人になるとは言わない。
彼女の涙で改心するとは言わない。
むしろ悪をやめないと言っている。
それなのに、彼の声は求愛だった。
醜く、歪んで、救いようがなく、けれど彼の形をした求愛だった。
「私は、貴方の悪に愛されたいとは思わない」
「では、私の何に愛されたいですか」
「愛されたいとは言っていません。セヴラン・クラウス」
「それも今のうちです」
「いいえ、永遠に」
「永遠は契約書に書くには長すぎる。まず二年にしましょう」
「契約にしないで」
「では、約束に。二年後の婚姻に向けての」
「貴方の約束なんて信用できない。クラウス商会の悪評を知る者なら、貴方と契約なんて結ばないわ」
「信用しなくていい。ローゼ。貴女は疑いながら、私のそばにいればいい」
疑いながら、そばにいる。
その言葉が、なぜか檻の鍵の音に聞こえた。
閉じ込める音なのか、開ける音なのか、ローゼにはまだわからなかった。
馬車の外で、森が途切れた。
遠くに王都の灯が見えた。
銀と水晶の尖塔が夜霧に浮かび、城壁の上で魔術灯が青白く燃えている。
王都ヴァルデン。
――セヴラン・クラウスが糸を張り巡らせた都。
ローゼは窓の外を見つめた。
あの灯のどれだけが、彼の金で燃えているのだろう。
どれだけの家が、彼の契約に縛られているのだろう。
その中心へ、自分は連れて行かれる。
花嫁としてではない。
利子として。
◇ ◆ ◇
クラウス邸は、王都の北区にあった。
白い石壁と黒い鉄柵に囲まれた、古い貴族屋敷を買い取って改装した邸宅。
門柱には水晶が埋め込まれ、契約魔術の封印が淡く光っている。
屋敷の窓には暖かな灯があり、玄関前には赤い薔薇が咲いていた。
冬の終わりなのに。
「魔術温室の薔薇です」
セヴランが言った。
「あなたのために植え替えました」
「頼んでいません」
「ええ。私が見たかった」
「何を」
「この家に赤があるところを」
ローゼは薔薇を見た。
赤い花びら。
黒い門。
白い屋敷。
美しい。
美しい檻だ。
中に閉じ込められるのが、ローゼ自身でなければ。
玄関で、使用人たちが一斉に頭を下げた。
彼らの動きは静かで、よく訓練されていた。
誰もローゼを好奇の目で見ない。
誰もローゼを哀れまない。
セヴランが命じたのだろう。
哀れまれるよりはましだと思った自分に、ローゼはまた腹が立った。
「お部屋へ案内します」
セヴランが言った。
「別々なのね」
「今夜から同じ部屋にすると言えば、ローゼは私を刺すでしょう?」
「短剣を置くと言ったのは貴方よ」
「ええ。ですが、初日に使われるのは少し惜しい」
「命が?」
「ローゼとの会話と時間が」
ローゼは返事をしなかった。
案内された部屋は、屋敷の東側にあった。
広い寝室。暖炉。淡い金の壁紙。
天蓋付きの寝台。
隣には書斎と浴室、衣裳部屋まである。
窓の外には薔薇の温室が見えた。
机の上には、本が積まれていた。
ローゼは思わず足を止めた。
森境の民話集、レクナー古契約法、魔王領境界史、水晶魔術基礎論。
それから、彼女が半年前の夜会で王都の書店に取り寄せを頼み、結局買えなかった詩集。
指先が、本の背に触れた。
「どうして、これを」
「調べました」
「私のことを? ……気味が悪いわ」
「否定はしません」
「どこまで調べたの」
「好きな本。苦手な菓子。朝は濃い茶より薄い香草茶を好むこと。刺繍は嫌いではないが、人前で褒められるのは苦手なこと。馬は乗れるが、速駆けは好まないこと。弟君にだけは甘いこと」
知られることは、触れられることに似ていた。
彼の手はまだ届いていないのに、記憶の棚をひとつずつ開けられているようだった。
「やめて」
ローゼの声が震えた。
「私の中へ勝手に入ってこないで」
セヴランは黙った。
しばらくして、静かに言った。
「わかりました」
その返事が素直だったことが、かえってローゼを動揺させた。
彼は踏み込む男だ。
けれど、踏み込んだ先で彼女が本当に痛がれば、そこで一度だけ足を止める。
「わかったなら、出て行って」
「それはできません」
「なぜ」
「貴女が泣くかもしれない」
ローゼは彼を睨んだ。
「貴方の前で泣くと思うの」
「思いません。だから、見たい」
「最低」
「ええ」
「泣いても慰めさせない」
「では、そばに立っています」
「それも嫌」
「では、扉の外に」
「それも嫌」
「困りましたね」
困っている声ではなかった。
ローゼは本から手を離した。
「貴方は、私の反応を楽しんでいるだけでしょう」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、ローゼがこの部屋を気に入るか心配していました」
「心配? 貴方にも、そんな感情があるの」
「あります。ローゼは、私を何だと思っていますか」
「悪人」
即答だった。
遠慮も迷いもない。
セヴランはその答えを受け、ほんの少しだけ嬉しそうにした。
「正解です。ですが、悪人にも好みはあります。欲しい女に、つまらない部屋を与える趣味はない」
ローゼは笑ってしまいそうになった。
こらえた。
彼の言葉は、いつも最悪なのに、どこか正直だった。
取り繕わない。
善人ぶらない。
彼女を気遣う時でさえ、自分の所有欲を隠さない。
「私は、この部屋を気に入ったとは言いません」
「では、嫌いではない?」
「……本は、悪くないわ」
セヴランの目が、ほんの少し柔らかくなった。
その変化に気づいてしまったことが、ローゼは悔しかった。
「よかった」
短い言葉だった。
それが、この夜初めて、彼の口から落ちた飾り気のない感情に聞こえた。
ローゼは窓へ歩いた。温室の薔薇が見える。
赤い花が、夜の中で燃えている。
「ねえ、セヴラン」
初めて名を呼ぶと、背後の空気が変わった。
大げさな返事も、勝ち誇った笑いもない。
ただ、沈黙が一瞬だけ深くなる。
その静けさで、彼がどれほどその名を待っていたのかがわかってしまった。
振り返らなくてもわかった。
彼が喜んだのだ。
その程度のことで。
「はい」
「貴方は、私が貴方を好きになると思っているの」
「思っています」
「すごい自信ね」
「自信ではありません。願望です」
願望、という言葉だけが、彼の口の中で少し不器用だった。
「貴方にも願望なんてあるの」
「あります。ローゼに関しては、多すぎて困る」
ローゼは振り返った。
セヴランは扉の近くに立っていた。
入ってきた時より少しだけ表情が薄い。
いつもの支配者の顔ではない。
獲物を囲い込んだ男ではなく、その檻の中にいる女が自分をどう見るかを気にしている男。
だが、その弱さに見えるものすら、油断ならない。
「では、その願望をひとつ教えて」
「貴女が、私を見て怒ること」
「それはもう叶っているわ」
「ええ。だから、もっと欲しくなった」
「次は?」
「私の名を呼ぶこと」
「今、呼んだわ」
「ええ」
「その次は?」
セヴランは、少し黙った。
そして、低い声で言った。
「ローゼが、自分から私に触れること」
部屋の暖炉が小さく爆ぜた。
たったそれだけの音に、ローゼの肩がわずかに震える。
ローゼの指が震えた。
彼は近づいてこない。
ただ見ている。
その距離が、逆に危うかった。
近づかれれば拒める。
触れられれば振り払える。
けれど、待たれると、自分の中にある選択の気配と向き合わされる。
「そんな日は来ない」
「では、待ちます」
「待つ趣味はないと、貴方は言ったわ」
「貴女に関しては、覚える必要がありそうだと言いました」
ローゼは息を吐いた。
この男は、言葉を覚えている。
彼女が言ったことも、自分が返したことも、すべて。
それが腹立たしい。
それが少しだけ、嬉しい。
そう思ってしまった瞬間、ローゼは胸の奥にある感情を握り潰した。
「夕食は?」
セヴランが尋ねた。
「食べない」
「貴女は昼から何も食べていないでしょう?」
「調べたの?」
「見ればわかります」
「何でも見透かすのね」
「ローゼのことは、まだ少ししか見えていません」
セヴランは部屋の扉を開けた。
「食堂へ。食べたくないなら、私の前で食べなくていいです。貴女が空腹で倒れると、私の気分が悪い」
「心配ではなく?」
「心配です」
彼はあっさり認めた。
「ですが、心配という言葉だけでは足りない。私は、ローゼが倒れるのが嫌です。私の屋敷で、私の目の届くところで、私のものが傷むのが許せない」
「やっぱり所有物扱いね」
「婚約者扱いでもあります」
「婚約はまだ成立していない。私は契約書に署名も、婚姻交渉に同意していません」
ローゼはまだ、同意していない。
追加条項はあくまでも、ローゼとセヴランによる、婚姻交渉に関する権利にすぎない。
「成立させます」
「私の同意は?」
「得ます」
「得られなかったら?」
「得られるまで、ローゼの生活を整え、逃げ道を塞ぎ、求婚し続けます」
「最悪」
「はい」
食堂には、二人分の席が用意されていた。
長い卓の端と端ではない。
向かい合うには近すぎ、隣に座るには遠い、斜め向かいの席。
ローゼはそれを見て、彼を見た。
「計算?」
「はい」
「正直すぎるわ」
「ローゼには、下手な嘘をつかない方がいい」
料理は温かかった。
森鳥の香草焼き、根菜のスープ、白いパン、蜂蜜を落とした果実。
どれも重すぎず、疲れた胃にも入るものばかりだった。
食べないつもりだったのに、スープを一口飲むと体が温まった。
セヴランはそれを見て、ほんの少し満足そうにした。
「見ないで」
「無理です」
「なぜ」
「ローゼが私の家で食事をしている」
「それがそんなに嬉しいの」
「はい」
その即答に、ローゼは匙を置きかけた。
けれど、置かなかった。
「私は、まだ貴方の家の人間ではないわ」
「今は客人です」
「利子ではなく?」
「利子でもあります」
「ひどい」
「ええ。ですが、客人でもある。婚約者にもする。いずれ妻にする。呼び方は増えます」
「私の意思は?」
「あなたの意思は、私が一番欲しいものです」
ローゼは眉をひそめた。
「私を無理に連れてきた人間の言葉とは思えない」
「無理に連れてきました。けれど、ローゼの意思が不要だと思ったことはありません」
「矛盾しているわ」
「私は、ローゼの身柄と生活を奪える。名前も時間も、行き先も制限できる。ですが、ローゼが私をどう見るかは奪えない」
彼は奪えないものを知っている。
その事実が、ローゼには何より腹立たしかった。
奪えると思い込む愚か者なら、もっと簡単に憎めたのに。
セヴランは杯を持ち上げた。
「だから欲しい」
ローゼは、胸の奥を掴まれたような気がした。
彼は、本当に悪人だ。
奪えるものは奪う。
縛れるものは縛る。
けれど奪えないものがあると知っていて、それを欲しいと笑う。
それは恋なのか、支配欲なのか。
彼にとっては同じなのだろう。
だが、ローゼにとっては違う。
違うはずだった。
「貴方は、欲しいものが手に入らなかったことがないのね」
「あります」
「意外」
「貴女ですよ、ローゼ」
ローゼは言葉を失った。
名前を呼ばれるたび、胸のどこかが反応する。
それを悟られたくなくて、ローゼは杯の縁を見つめた。
「今ここにいるでしょう」
「います。けれど、まだ手に入っていない」
「利子として取り立てたのに?」
「貴女は、私を憎んでいる。私の家にいて、私の食事を口にして、私の名を呼んだ。けれど、まだ私のものではない」
「永遠にそうかもしれない」
「かもしれません。まったく、怖いことですよ」
セヴランは、薄く笑った。
「ローゼを失うことだけは、少し怖い」
「少し?」
「とても、と言えば、ローゼは笑いますか」
「笑わないわ。信じないだけ」
「では、とても怖い」
ローゼは彼を見た。
セヴランはいつものように穏やかだった。
けれど、目だけが違った。
冷たい青灰色の奥に、薄い飢えがある。
手に入れたはずのものを、まだ手に入れきれていない男の飢え。
その目を向けられて、ローゼは背筋がぞくりとした。
恐怖だけではない。
嫌悪だけでもない。
この男は、自分を欲しがっている。
その事実が、彼女の内側に火を点ける。
「……私を失うのが怖いなら、なぜ私が逃げたくなることをするの」
「逃げる貴女を追う準備があるから」
「最低。でも、貴方でも怖いのね」
「怖いです」
「なら、私が逃げたら苦しむ?」
「苦しみます」
ローゼは初めて、少しだけ笑った。
「それは、いいことを聞いたわ」
セヴランは目を細めた。
「そういう顔もするのですね」
「貴方が苦しむなら、少しは気が晴れるもの」
「ローゼに苦しめられるなら、悪くない」
「本当に狂っている」
「ローゼ限定です」
「嬉しくない」
ローゼは匙を手に取った。
スープは少し冷めていた。
それでも、飲んだ。
食事を終える頃には、手足の冷えが少し戻っていた。
心は乱れたままだったが、体は正直だった。
温かな部屋。
美味しい食事。
自分のために用意された本と花。
檻は、冷たくなかった。
それが、余計に恐ろしい。
食後、セヴランは彼女を温室へ案内した。
赤い薔薇が咲いていた。
魔術灯に照らされた花弁は、血のようにも、炎のようにも見える。
外は冬の夜なのに、温室の中は春の匂いがした。
湿った土、葉、花、温かな水。
「薔薇は好き?」
ローゼが尋ねた。
「以前は興味がありませんでした」
「では、なぜ」
「ローゼに似合うと思った」
「またそれ」
「嫌ですか」
「嫌よ」
「では、別の花に変えます」
ローゼは思わず彼を見た。
あまりにあっさりした返事だった。
彼女の人生は変えたくせに、花だけは変えると言う。
その線引きの歪さが、腹立たしいほど彼らしかった。
「変えるの?」
「ローゼが本当に嫌なら」
「私が嫌だと言えば、全部変えるの?」
「いいえ」
セヴランは薔薇に触れた。
「逃げ道は変えません。契約も撤回しません。ローゼを帰すこともしません。ですが、花くらいは変えます」
「線引きが歪んでいるわ」
「私なりの譲歩です」
「花だけ?」
「部屋も、食事も、本も、ドレスも。ローゼの生活は、ローゼの好みに寄せます」
「私は、ここにいたくない」
「それだけは聞けません」
ローゼは、笑ってしまった。
今度は、こらえきれなかった。
短く、苦い笑いだった。
セヴランが振り返る。
その顔に、ほんのわずかな驚きがあった。
「何がおかしいのです」
「貴方、本当に最低ね。最低なのに、花は変えるのね」
「はい」
「人の家は壊すのに、スープの温度は気にするのね」
「はい」
「私を閉じ込めるのに、本は選ばせるのね」
「はい」
ローゼは薔薇の前に立った。
「貴方のこと、まったく理解できない」
「理解したいですか」
「したくない」
「では、私が理解させます」
「そういうところよ」
セヴランは近づいてきた。
今度は、ローゼが退かなかった。
薔薇の香りが濃い。
近づいた彼の香水は、冷たい香木と墨の匂いがした。
半年前の露台でも、この匂いがしたことを思い出す。
覚えていた。
忘れたと思っていたのに。
「ローゼ」
「何」
「貴女は今、逃げなかった」
「温室の中で逃げても仕方ないでしょう」
「理由は何でもいい」
セヴランは手を伸ばした。
ローゼの頬に触れる直前で、止める。
触れない。
待っている。
「許可が欲しいの」
「はい」
「急に紳士ぶって」
「ローゼに触れて、ただ嫌がられるだけなのはつまらない」
「私が許可するとでも?」
「しなくてもいい。待つのも悪くないと、先ほど学びました」
待つ、という言葉が彼の口から出るたび、ローゼの胸は妙に騒いだ。
奪う男が、奪わずにいる。
その不自然さが、彼女の選択をかえって際立たせる。
ローゼは、その手を見た。
長い指。
黒い手袋。
契約書に署名し、人の家を壊し、彼女の指に口づけた手。
触れられたくない。
けれど、触れられたらどう感じるのか、知ってしまいたい自分がいた。
ローゼは自分の感情にぞっとした。
セヴランは、それを見逃さなかった。
「怖い?」
「貴方が?」
「いいえ。貴女自身が」
ローゼは彼を睨んだ。
言い当てられたことが悔しかった。
彼が怖いのではない。
彼に触れられたいかもしれない自分が怖いのだ。
正解を言われた怒りで、頬が熱くなる。
「黙って」
「はい」
セヴランは本当に黙った。
手は宙に止まったまま。
ローゼは、その沈黙の中で息をした。
彼の手を払いのけることはできる。
退くこともできる。
罵ることもできる。
けれど、彼女はどれもしなかった。
代わりに、一歩だけ近づいた。
頬が、彼の指先に触れた。
手袋越しの感触は柔らかく、温かかった。
セヴランの呼吸が、ほんの少し乱れた。
それは小さな乱れだった。
けれど、ローゼには勝利の鐘のように聞こえた。
それを聞いた瞬間、ローゼの胸に勝利に似た熱が走った。
この男も乱れる。
自分が触れただけで。
「満足?」
ローゼは囁いた。
「いいえ」
セヴランの声は低かった。
「もっと欲しくなった」
「欲張り」
「はい」
「でも、今日はここまで」
言い切った瞬間、ローゼは自分が境界線を引けたことに気づいた。
彼の檻の中で、初めて自分の線を引いたのだ。
ローゼは彼から離れた。
セヴランは追わなかった。
ただ、触れた指先を見ている。
まるで、それが契約書より価値のあるものになったかのように。
「貴方、ひどい顔をしているわ」
「どんな顔ですか」
「欲しいものを前にして、待てを命じられた犬みたい」
言った瞬間、ローゼはしまったと思った。
だがセヴランは笑った。
静かに、心底楽しそうに。
「私を犬にするのは、ローゼくらいでしょうね」
セヴランは一歩だけ近づいた。
「ですが、犬にはなりませんよ、ローゼ。私は貴女の足元に伏せる趣味はない」
「でしょうね」
「貴女を抱き上げて、自分の椅子に座らせる趣味ならあります」
「本当に最低。でも、今は待つのね」
「待ちます。ローゼが自分から一歩来たので」
ローゼは頬を押さえた。
自分から近づいた。
その事実が、温室の熱よりも肌を熱くした。
「後悔しているわ」
「私はしていません」
「でしょうね」
「ローゼ――が触れた場所を、一晩中覚えているでしょう」
「気持ち悪い」
「褒め言葉として受け取ります」
「受け取らないで」
ローゼは温室の出口へ向かった。
背後から、セヴランの声がした。
「ローゼ」
振り返らずに、彼女は答えた。
「何」
「花は、明日貴女が選んでください」
「薔薇でいいわ」
言ってから、自分で驚いた。
セヴランも、一瞬黙った。
その沈黙が、ローゼには少しだけ愉快だった。
彼を驚かせられる。
彼の計算にない場所へ、自分はまだ行ける。
「嫌いでは?」
「嫌いよ」
「では、なぜ」
「貴方がこの薔薇を見るたび、今日のことを思い出すなら、それでいい」
ローゼは振り返った。
「私が自分から一歩近づいて、貴方に『待て』を命じたことを」
セヴランは目を細めた。
あの獲物を見る目ではなかった。
獲物に噛み返され、傷をつけられ、それでもなお美しいと思っている男の目だった。
「やはり、ローゼにしてよかった」
「私は、貴方を選んでいない」
「ええ」
「でも、貴方を苦しめる役は、私がやるわ」
「光栄です」
「喜ばないで」
「無理です」
ローゼは温室を出た。
廊下に出ると、夜の空気が少し冷たかった。
自分の部屋へ戻るまで、セヴランは少し後ろを歩いた。
隣ではない。
前でもない。
逃げ道を塞げる位置でありながら、彼女に主導権があるようにも見える距離。
腹立たしいほど、計算されている。
部屋の前で、ローゼは立ち止まった。
「セヴラン」
「はい」
「短剣は?」
彼は懐から、小さな鞘を取り出した。
銀の柄。
細い刃。
女性の手にも扱える長さ。
あまりに自然に差し出されたので、ローゼはかえって受け取り損ねそうになった。
脅しでも飾りでもない。
彼は本当に、彼女に刃を持たせるつもりだった。
「本当に用意していたのね」
「約束しましたから」
「貴方を刺してもいいの」
「刺したければ」
「死ぬわよ」
「急所を外すことを勧めます」
「勧める立場? あら、貴方も死にたくないの?」
「いいえ、貴女が処刑されると困るので」
自分の命より先に、ローゼの処刑を心配する。
その順番の歪さに、ローゼは眩暈がした。
ローゼは短剣を受け取った。
重みが手に乗る。
これで彼を刺せる。
少なくとも、彼はそういう距離に来るつもりなのだ。
「私が本当に刺すとは思わないの」
「思っています」
「それでも渡すの」
「ローゼが無力だと思うより、私を刺せると思って眠る方がいい」
ローゼは、また言葉を失った。
これは優しさなのか。
支配の一部なのか。
たぶん、両方だ。
彼の与えるものはいつもそうだった。
毒と薬を同じ杯に混ぜて差し出す。
拒めば喉が渇き、飲めば内側から熱を持つ。
「おやすみなさい、ローゼ」
セヴランは彼女の手を取ろうとして、途中で止めた。
許可を待っている。
ローゼは少し迷った。
迷ってしまったことが、また悔しかった。
彼女は短剣を持っていない方の手を差し出した。
「手だけよ」
「はい」
セヴランは彼女の指先に口づけた。
昼間と同じ仕草。
けれど、昼間よりずっと静かだった。
彼の唇が離れた後も、指先が熱い。
「私は貴方を許していない」
「知っています」
「好きにもならない」
「今は」
「永遠に」
「では、私は永遠に口説きます」
「しつこい男」
「欲しいものには、しつこいです」
ローゼは扉を閉めた。
鍵をかける。
その鍵が本当に彼を拒めるものなのかは、わからなかった。
けれど少なくとも、今夜、彼は入ってこないだろう。
そう思える程度には、彼のことを理解し始めている。
それが、ひどく嫌だった。
寝台の脇には、本当に短剣を置く場所があった。
机には温かな香草茶。
窓の外には赤い薔薇。
衣裳部屋には、彼女のために選ばれたドレス。
すべてが彼の支配の証だった。
そして、すべてに彼女への執着があった。
ローゼは寝台に腰を下ろした。
手袋越しに触れた頬の感触が、まだ残っている。
彼の呼吸が乱れた瞬間も。
名を呼んだ時の、空気の変化も。
自分が薔薇でいいと言った時の、あの目も。
憎い。
許さない。
最低の男。
悪人。
それなのに、彼のことを考えている。
恋とは、もっと穏やかで、明るくて、祝福されるものだと思っていた。
少なくとも、家を壊した男の名前を、夜の寝室で何度も思い返すことではないはずだった。
「セヴラン・クラウス」
声に出すと、胸の奥が熱くなった。
悔しくて、ローゼは短剣を握った。
いつか、この鍵を奪う。
いつか、この檻の仕組みを覚える。
いつか、彼がローゼを選んだことを後悔させる。
けれど、そのいつかまで、彼のそばにいる。
そう気づいて、ローゼは目を閉じた。
廊下の向こうで、足音が遠ざかる。
彼は入ってこない。
彼は待つ。
悪人のくせに。
奪うことしか知らないくせに。
彼女が自分から一歩近づいた、その一歩を抱えて、今夜は待つのだ。
その事実が、ローゼを少しだけ眠れなくさせた。
王都の夜は深い。
クラウス邸の温室では、赤い薔薇が静かに咲いている。
それは救済ではない。
善人に変わる恋でもない。
悪人が欲しい女を檻へ入れ、奪われた令嬢が檻の中から悪人の心臓へ手を伸ばす、ひどく歪んだ始まりだった。
翌朝、ローゼが目を覚ますと、机の上に一枚の紙が置かれていた。
契約書ではない。
ただの白い便箋だった。
そこには、セヴランの流麗な字で短く書かれていた。
『今朝の薔薇は、あなたが選んでください。
赤を残すなら、私の勝ち。
別の花に変えるなら、あなたの勝ち。
どちらでも、私はあなたに会いに行きます』
ローゼはしばらく、その紙を見つめた。
便箋の白さが、契約書よりもずるいと思った。
命令ではない。
取引でもない。
けれど彼は、選ばせることでまた彼女の朝に入り込んでいる。
それから、窓の外の温室を見る。
赤い薔薇が朝日に濡れていた。
彼女は便箋を伏せ、呼び鈴を鳴らした。
やってきた侍女に、ローゼは言った。
「温室の薔薇を半分だけ残して」
「半分、でございますか」
「ええ。残り半分は、白い花に変えて」
侍女が下がった後、ローゼは便箋の余白に返事を書いた。
『半分だけ、あなたの勝ちにしてあげる』
書いてから、彼女は深く息を吐いた。
何をしているのだろう。
これは恋文ではない。
挑戦状だ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、インクが乾くまで目を離せなかった。
まるでその短い返事の中に、認めたくない自分の心まで滲んでいるようで。
だが扉の向こうで、彼がこの返事を読んでどんな顔をするのかを想像してしまった時点で、ローゼはもう負けている気もした。
それでも、完全には負けない。
檻の中で、彼女は鍵を探す。
悪役の金貸しは、檻の外から鍵を見せびらかす。
そして二人はきっと、これから何度も互いを傷つけ、苛立たせ、欲しがり、試し合う。
ローゼは窓を開けた。
冬の空気と薔薇の香りが、部屋へ流れ込んでくる。
遠くの廊下で、セヴランの足音が近づいてきた。
彼女は短剣を机に置き、便箋を伏せたまま微笑んだ。
許さない。
好きにならない。
けれど、彼が扉を叩くまでの数秒を、待ってしまっている。
それだけは、まだセヴランに教えてやらない。
◇ ◆ ◇
報告を受けたセヴランは、『半分だけの抵抗』が嬉しかった。
ローゼは逃げなかった。
半分だけの抵抗で、セヴランに宣戦布告してみせたのだ。
全てを諦めて、セヴランの用意した檻の中で泣き暮らしてもよいはずだ。
だが、彼女はそうしなかった。
ローゼは諦めていない。
婚姻交渉権にしたって『法の抜け道』をきっと見つけてしまうだろう。
セヴランだって、諦めるつもりはないのだ。
あらゆる手段を法の内側で潰し、ローゼ自らの意思で二年後、婚姻に同意してもらうのだから。
セヴランははじめて、心から神に感謝した。
契約は血より重いと神が定めなければ、今頃愛おしい『薔薇』はセヴランの檻に居なかったのだから。
そうしてセヴランは、ローゼに与えた部屋の前に立つ。
さあ、今日は愛おしい彼女は、どのような表情を見せてくれるだろうか?
それがたまらなく、愉しかったのだ。
――――
おわり。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
お礼と余談を兼ねて、名前の由来でも。
▼ローゼ・フォン・ローヴェン
伯爵家の令嬢、本作のヒロインです。
綴りは『Rose von Löwen』
ドイツ語由来の名称です。
Roseはそのまま、薔薇を。
Löwenは、獅子を意味します。本来の読みはレーヴェンです。
なので、本来なら『ローゼ・フォン・レーヴェン』が正しいのですが、ローヴェンの方が響きが可愛いので、こちらを採用。
ローヴェン家は作中で言及していますが、
現実でいう『辺境』を任された家、いわゆる『辺境伯』ですね。
全盛期は辺境伯の称号や家名に相応しい『獅子の家』でした。
ローゼの時代では『ただ古く、誇り高く、でも今は弱っている獅子の家』に落ちぶれてしまいましたが…。
▼セヴラン・クラウス
悪徳商会(金貸し)の平民の男。
綴りは『Severin Klaus』
こちらもドイツ語由来。
本来の読み方は『セヴェリン』が近いはずです。
語源はラテン語の『severus』
意味は、『厳格な、厳しい、まじめな、重々しい、苛烈な』といったものがあります。
クラウス(Klaus)の語源は、ギリシア語由来の『Nikolaos』
意味は、nikē「勝利」+ laos「民、人民」です。
セヴランが作中ああいう男なので、
『厳格、冷酷、法の内側で容赦のない男』としてセヴランを、
表向きの商会のイメージから、クラウスを選びました。
結果的に名前のバランスが取れたかな?と。
▼余談
伯爵令嬢ローゼと、平民セヴランでは、いわゆる『貴賤婚』になるので、婚姻交渉権でそこに気付けば…っていう構想はあったんですが、すでに2万文字超えてたので断念しました!
ちなみに、『利子は薔薇の名で』は、
『月国の第二王女ですが、太陽国の王太子とは理想の夫婦を演じるだけの契約結婚のはずでした』
https://ncode.syosetu.com/n5651lx/
と、まったく同じ大陸が舞台だったりします。
国が違うだけですね。
さて、長々と書いてしまいましたが、
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ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




