弁護士事務所
メアリーがその弁護士事務所を訪れたのは、翌日の昼下がりだ。会計事務所や弁護士事務所などが多く並ぶ静かな通り沿いにあるいささか古めかしい建物で、いくつかの事務所が間借りしているようだった。その二階が彼の事務所らしい。ドアには、『アイザック=フレッカー弁護士事務所』と刻まれた小さな銀のプレートがかかっていた。
「レイモンド=スミス氏ではなかったのね……」
抱きかかえていたケティを下ろし、ノックをする。不在だったら、どうしようかと考えてながら待っていたが、いつになっても反応はない。メアリーがノックを繰り返していると、いきなりドアが開いた。驚いて二歩だけ下がると、ボサボサの髪の青年が不機嫌さを隠そうともせず顔を出す。シャツのボタンは外れているし、タイもしていない。上着は脱いでいた。ここは彼の事務所で、アポイントも取らずにいきなり押しかけたのだ。彼がどんな格好で姿を見せようが、メアリーには文句を言う資格はない。だが、昨日は少しも隙のないきちんとした格好だったけに、あ然としてしまった。
(人って、見た目だけではわからないものだわ)
「いったい、なんなんだ……今、ようやく眠ったところだってのに!」
苛立たしそうに髪をかきむしり、青年は今にも首を絞めてきそうな怖い顔で睨んでくる。
「あっ、ご、ごめんなさい……お休みのところだったのかしら? でも、困っていらっしゃるんじゃないかと思って……」
メアリーはぎこちなく笑みを作って、おずおずと口を開いた。青年はマジマジとメアリーの顔を見てから腕を組んで深くため息を吐いていた。
「昨日のお嬢さんか……こんなところまで押しかけてくるとは」
「そう邪険にすることはないでしょう? 私はきっと、あなたにとって救済の女神になるわよ?」
「は? 頭でも打ったのか? だったら、ここではなく病院に行け。ここは弁護士事務所だ。文字が読めないのか?」
ノブをつかんですぐにドアを閉めようとするものだから、メアリーは慌ててその間に体をねじ込ませた。「おいっ!」と、青年の顔がますます険しくなる。メアリーはすかさず、昨日拾った書類を見せた。
それを見た途端に、彼は額を押さえてあまり品のよくない悪態を吐く。
(やっぱり、この人は下町育ちなんじゃないかしら? そうじゃなきゃ、〝くそったれ〟なんて汚い言葉を紳士が知っているはずもない。知っていたとしても、なかなかすぐに口から出てくるものではないだろう。相手は少しも友好的ではないにも関わらず、メアリーはこの青年にちょっとばかり親近感を覚えた。メアリーも根っからの下町育ちだ。上流階級の人やエリート層の人を相手にするより、ずっといい。もちろん、彼は弁護士なのだから、エリートではあるには違いないだろう。ただ、同族のような親しみを感じるだけだ。
ニッコリ笑うメアリーを、いかにも怪しむように見てから青年はその書類をひったくる。
「拾ってくれてありがとう。これは小遣いだ。飴でも買って帰るんだな。お嬢さん」
青年はポケットから取り出した銀貨を指で弾いて投げ渡してくる。それを反射的に受け止めてから、投げ返した。
「失礼しちゃうわね。あなたが困っていると思ったから、親切にも届けにきたのよ? この事務所を突きとめるだって苦労したのよ。あなたが言っていたように弁護士協会の会館に行って、調べてもらったんだから」
「まったく、余計なことを教えるんじゃなかった……で、なにがお望みなんだ? あんたは」
不機嫌な顔をして青年が聞いてくる。さっさと追い出したがっているのだろう。
「ここは弁護士事務所なんでしょう? 相談に乗ってもらいたくて来たに決まっているじゃない。ちゃんと、弁護士協会から紹介状ももらってきたわよ? アイザック=フレッカーさん」
紹介状をヒラヒラと振りながら、メアリーはニコッと笑う。これでは、そう無碍に扱うこともできないだろう。うんざり顔になったアイザックは、ようやくドアの前から退いてくれた。
「相談に乗るのはかまわないが、料金はきっちりもらうからな。ただじゃない。それくらいわかるだろ?」
「あら、さっき払ったじゃない? 銀貨で」
メアリーは堂々と中に入りながら、銀貨を握り締めている彼の手を指差す。青年の眉間の皺はこれ以上なく中心に寄っていた。
応接室のソファーに腰を掛けて待っていると、コーヒーの香りがした。
(紅茶ではなくコーヒーを飲むなんて、珍しい人ね)
この国では、紅茶が主流でコーヒーを愛飲する人はそう多くない。メアリーも一度だけ飲んだことがあるが、苦いだけであまりおいしいとは思えなかった。紅茶の方がずっといい。キッチンから出てきた青年は両手にカップを持っている。その一つをメアリーの前に置いて、自分も向かいのソファーに腰を下ろした。
「それを飲んだら、とっとと返ってくれるとありがたいんだけどね。お嬢さん」
「メアリー=ジョンストンです」
澄ました顔で答えて、真っ黒な液体が入ったカップに手を伸ばす。香りも強めだ。
(うっ……すごく苦そう……)
それなのに、アイザックは脚を組んでゴクゴクと平気そうに飲んでいる。しかも、顧客の前だというのに寛いだ座り方だ。完全に舐められているのだろう。これが、お金持ちや貴族なら、きっと彼はだらしなくシャツを出したままにはしていないし、上着を羽織ってタイも身につけているはずだ。
「なんだ? ご不満か?」
「いいえ。こんなに温かいもてなしを受けて、感動しているところよ!」
皮肉たっぷりに返して、コーヒーを思い切って口に入れる。苦くて、頭がクラクラしそうなほど濃い。本当にこんなものを飲もうと思う人の気が知れない。無理矢理飲み干してカップをテーブルに戻す。そして、口もとを袖でグイッと拭った。どうだ!とばかりに青年を見返したものの、彼は少しもこっちを見ていない。しかも、時間が惜しいとばかりに他の仕事の書類を見ているのだ。顧客に対して取る態度ではない。いいや、顧客とすら見なしていないのだろう。こちらが庶民の小娘だからと見下しているのか。
(忍耐よ……忍耐! 他に相手にしてくれそうな弁護士なんていないんだから)
そう言い聞かせて、メアリーは咳払いする。
「フレッカーさん、弁護士協会の会館で不動産売買に詳しい弁護士を紹介してほしいと頼んだところ、あなたを紹介されたんです」
背筋を伸ばして、畏まった態度で言うと、アイザックの眉がピクッと震える。
「あのクソジジイ、余計な仕事を……っ!」
彼の言う〝クソジジイ〟とは、メアリーに親切に対応してくれた白髪の老紳士だろう。そういえば、協会の偉い人のようだった。『少々気難しいところはありますが有能です。彼ならはきっと力になってくれるでしょう』と、紹介状をもらう時に言われたのを思い出す。
(少々どころじゃなく気難しいし、力になってくれるかどうかも怪しいものだわ……)
あの老紳士の方がよっぽど腰が低くて丁寧だった。
書類に書かれていた『レイモンド=スミス』という人は、投資家の大富豪で『不動産王』とも呼ばれているそうだ。その人の顧問弁護士をしているのが、このアイザック=フレッカー氏だという。そんな大富豪に信頼されて、取引や交渉を一任されているのだ。たしかに、若くても有能な弁護士には違いない。ただ、口が悪くて、〝多少〟礼儀知らずなだけだ。
(ええ、態度が大きくても、有能であれば言うことなし。あとは、どうやって興味を持ってもらえるかよ)
「私が所有する古城を買い取ってくれる人を捜してほしいんです!」
メアリーが胸を張って言うと、アイザックはゴホッとコーヒーにむせていた。顔を上げた彼は、正気を疑うような目をしていた。
(こんな庶民の小娘が古城なんて持っているはずがないと思っているのね)
メアリーは革製の古い鞄から、書類の束を取り出してテーブルに置いた。これは、古城を受け継ぐ時に弁護士の先生から渡された権利書や遺産相続の手続きの書類だ。メアリーが古城の正式な所有者であることは、この書類を見せればわかってもらえるだろう。
アイザックは訝しそうにしながらも書類に手を伸ばして確認する。しばらく目を通していた彼は、小馬鹿にした表情から真剣なものに変わっていた。ようやく、目の前に座っているのが妄想の激しい貧乏人の小娘ではなく、ちゃんとした顧客だとわかってくれたようだ。
黙って書類を読んでいたアイザックは、その書類をテーブルに置いて思考を巡らせるようにコーヒーをゆっくり飲む。
「……君が古城の所有者であるのはわかった。亡きスペンサー伯爵の孫娘であることも理解した」
「それなら、手伝って……っ!」
アイザックは片手をあげてメアリーの言葉を遮る。
「無理だ」
「どうして! 古城は立派なものだわ。多少……年季が入っているけれど。歴史的建造物よ!」
「今時、老朽化した城なんてただの不良債権でしかない。維持費のほうがかかるというのに、誰が手に入れようと思うんだ? ただでさえ、今のご時世所領や城を手放したがっている貴族は大勢いる。偉そうに振る舞っているが、内情は火の車だからな。スペンサー伯爵家だってそうだろう。五百年は遡れる名家ではあっても、財産は食い潰されて残されたのはその城だけだ」
さすがに弁護士だけあって、スペンサー伯爵家が没落した家柄であるという情報くらいは頭に入っているのだろう。それに言っていることは、その通りだ。そんな貴族が手放した所領や城を買い漁って大富豪にまでのし上がったのが、不動産王と呼ばれるレイモンド=スミス氏だ。そんな彼の顧問弁護士をしているアイザックが貴族の内情に詳しいのは当然だ。きっと、城や所領を買い取ってほしいと依頼されることも多いのだろう。
(他に立派な屋敷を売る人だっているのに、あんなオンボロの古城を買い取る人は確かにいないわね……)
メアリーが落胆の色を見せると、「わかったら、さっさと帰ってくれ。他にも仕事があるんだ」と、アイザックは手で払う仕草をしてみせる。この青年をその気にさせるためには、もっと古城の魅力をアピールする必要がある。とはいえ、あのオンボロの古城にいいところなんて一つだって思い付かない。不便な場所に建っているし、景観がいいわけでもない。雨漏りまでするような城だ。
「それなら、せめて買い取ってもらえる条件だけでも教えてもらえませんか!?」
「条件?」
「ええ、そうです。どんな魅力があれば、買い取ってもらえるのか!」
「そうだな。隠し財産とか秘宝でも出てくるならその気になる者も出てくるかもな」
アイザックは冗談めかすように言って肩を竦める。
「そうですか。わかりました。また来ます。絶対、その気にさせてみせるんだから!」
不機嫌に言って立ち上がり、メアリーはビシッとアイザックを指差す。
「行きましょう、ケティ。この分からずやをその気にさせる隠し財産を見つけるわよ」
「おい、誰も依頼を受けるなんて言ってない。相談は今回限りだ!」
「紹介状を持ってきたのに、まともに取り合ってくれないばかりか、失礼な態度で追い出そうとしたって弁護士協会に訴えられたいの?」
さめた目を向けると、アイザックはグッと言葉に詰まっていた。どうやらあの白髪の老紳士には、頭が上がらないようだ。メアリーはニコッと微笑む。
「それじゃあ、ミスター。また、来ますね。その時にはよろしくお願いします」
できるだけ上品に見えるように丁寧にお辞儀をして、クルッと足の向きを変える。ソファーの横で寝そべっていたケティも起き上がって、トコトコと後をついてきた。人間の話し合いなんて退屈だったのか、大きな欠伸を漏らしている。事務所を出たところでケティを抱え上げ、「本当に失礼しちゃうわ!」と憤慨した。




