祖父の遺産
叔母と叔父の営む下町のベーカリーに、弁護士の先生がやってきたのは二月ほど前のことである。くたびれた上着を着て、杖をついた老人だった。その先生は、長くスペンサー伯爵家の顧問弁護士をしていたそうだ。いきなり見知らぬ貴族の家名を出されて面食らったのは、叔母と叔父も同じだったらしい。根っからの庶民である叔母夫婦も、メアリーも、貴族になんて縁もゆかりもない。そう思っていたから、メアリーの母がスペンサー伯爵の一人娘だったことなど知らなかった。当然、幼いころに両親と死別したメアリーがそのことを知るはずもない。母の遺品の中にやけに高価そうなブローチが一つだけ入っていたのは知っている。そのブローチの裏に刻まれていた紋章は、確かにスペンサー伯爵家の紋章だった。
かなりのご高齢で目も悪くなっていた弁護士先生の話によると、母は伯爵家の一人娘として育てられたものの、医者であった父と恋に落ちて勘当同然で家を飛び出し結婚したという。叔母と叔父は、メアリーの母が良家のお嬢様だとは知っていたが、まさか貴族だとは思わなかったようだ。
なんでも、母は父に一目惚れして、半ば押しかけるようにアパートメントにやってきて同居するようになったという。母はどうやら貴族令嬢らしからぬ情熱的で奔放な性格だったらしい。父は貧乏医師だったから、生活はとても楽ではなかったけれど、周りが羨ましくなるくらいに仲のいい夫婦だったと、叔母と叔父は話してくれた。だが、王都に疫病が流行した時に、両親とも感染して命を落とした。助かったのは、叔母夫婦に預けられていたメアリーだけだ。そのまま、メアリーは叔母夫婦の元で暮らすことになった。
父は慈善病院で働いていて、疫病に罹患した患者たちを診ていた。母も父を手伝うために病院で奉仕活動をしていたから、二人とも覚悟をしていたのだろう。そんな両親はメアリーの誇りであり、できるなら大学に行き、父の跡を継いで医師の道を進みたいと思っていた。
ただ、大学に通うためにはお金が必要だ。奨学金を得るにも、相当優秀な成績を取らなければ難しいだ。まして、メアリーは女だ。女医がいないわけではないが、男の人が医師になるよりはずっと狭き門となる。叔母夫婦の店を手伝いながら、図書館に通って勉強をしてきたけれど、それだけでなれるものではない。
そんな時にもたらされた弁護士の先生の話は、メアリーにとって寝耳に水だった。メアリーの祖父がスペンサー伯爵という貴族で、遺産を全て娘に残すと遺言書を残していたのだ。しかし、母がすでに亡くなっているため、遺産はその娘であるメアリーが受け継ぐことになるという。
遺産は、スペンサー伯爵が暮らしていた古城とその周辺のわずかな土地だ。伯爵が亡くなって十年ほどが経っている。遺言書を届けるのが遅くなったのは、母の行方がわからなかったからだ。この高齢な弁護士の先生は、自分の最後の仕事だからと今までずっと捜してくれていたようだ。義理堅い人である。
古城とその周辺の土地を売れば、大学に通う学費ができる。それに、スペンサー伯爵家の唯一の直系子孫であれば、奨学金の審査もずっと通りやすくなるだろう。なにより、お世話になっている叔母夫婦の店ももっと立派にしたい。メアリーにとっても、思いがけない幸運でもあった。もちろん、詐欺ではないかと疑ったりもしたが、弁護士先生が見せてくれた書類は伯爵の署名と紋章が入った正式なものだった。
こうして、祖父の遺産である古城は、メアリーが受け継ぐことになったというわけだ。手続きを終えて、古城を訪れたのは一月前のことである。歴史のある立派な古城だと聞いていたが、実際にその目で見て見ればがっかりするには十分なオンボロ具合だった。石造りの外壁は苔が生えて、そこかしこ亀裂が入っているうえに、潮風に晒された扉は腐りかけ。窓も割れていて、廃墟のような薄気味悪さだった。所有していたスペンサー伯爵が亡くなってからもう十年も経過している。その間、無人で手入れをする人間もおらず放置されていたのだから、それも当然で仕方ない。
スペンサー伯爵には、遠縁の親戚はいるものの、直系の親族はメアリーの母以外にいなかった。それにもし、他に近親がいたとしても、こんなオンボロの古城は受け継ぎたくないだろう。修繕だけでもかなりの費用がかかる。それを直したところで、買いたいと思う人はあまりいない。なにせ、古城が建っている場所は王国の北端。生活するにも不便過ぎる。周りは林と海だけなので、夏の避暑地にするにも楽しみもない。つまりは、不良物件というわけだ。
とはいえ、安くてもいいからこの古城を誰かに買ってもらわなければ受け継いだ意味がない。大学に行くことも、叔母夫婦の店を立派にするのも、夢のまた夢というわけだ。
叔母夫婦の家に戻った翌日、メアリーは弁護士先生の元を訪れた。だが、先生はすでに引退していて、事務所も引き払ってしまっていた。古城の売買について相談したかったのだが、これでは無理だろう。
事務所を出たメアリーは帽子を被り直してため息を吐く。行儀良く外で待っていたケティが尻尾を揺らしながら駆け寄ってきた。その小柄な体を抱き上げて、「困ったわね」と呟く。
この辺りは弁護士事務所や会計事務所が多く並ぶ通りだ。相談に乗ってくれる弁護士の先生が見付かるかもしれないが、いきなり行って話を聞いてくれるかどうかもわからない。なにせ、今のメアリーはただの庶民の小娘だ。伯爵家の血を引いていますと言っても、正式に爵位を受け継いだわけでもない。そもそも、その事実を知ったのも二ヶ月前のことだ。貴族や金持ちの流儀なんてわかるはずもないし、それに相応しい振る舞いもできそうにはない。きっと、弁護士の先生に話をしたところで、眉唾ものだと思われるか、詐欺師だと追い出されるに違いない。
「せめて、弁護士の先生に紹介状だけでも書いてもらえたらよかったのだけれど……」
スペンサー伯爵家の顧問弁護士をしていた先生が、今どこに住んでいるのかもわからないのだ。もしかしたら、どこか田舎に引っ込んでしまっているかもしれない。
「とにかく、お昼になにか食べながら対策を考えましょう。大丈夫。いい方法が見つかるわ。こういうのは、運だもの。自分の運の良さを信じるの! 古城だってそうだったでしょう? まあ、あんまりいい物件ではなかったけれど……それでもなにもないよりは、希望があるわ」
独り言を漏らしながら歩くメアリーを、通りすがりの紳士が怪訝そうな顔をして振り返る。メアリーはニコッと笑ってお辞儀をしてみせた。紳士は変な顔をしただけだ。おかしな庶民の子が歩いているなと思われたのだろう。石畳で舗装された立派な道路は小ぎれいで、馬車が往来している。庶民の格好の娘がトボトボ歩くような道ではない。
公園の近くに行くと、ワゴンで昼食のパンを売っていた。ベーコンを挟んだパンを買って、公園のベンチで座って食べる。特別に、ベーコンの部分は愛犬のケティにわけてあげることにした。ベーコンの脂と塩味、それに胡椒が利いたパンだけでも十分にお肉の味は味わえる。大きな口で頬張っていたメアリーは、隣のベンチで書類をめくっている忙しそうな青年に目をやった。彼も昼食中なのだろう。だが、パンには手をつけていない。昼食そっちのけで、仕事をしているようだ。
二十代の青年だが、気難しそうに眉間に皺が寄っている。メガネをかけていて、服は上等の生地で仕立てたものだ。きっとどこかの貴族御用達の老舗テイラーで作ったものだろう。帽子は鞄といっしょに脇に置いている。
(昼食をゆっくり食べる暇もないのかしら。きっと、気難しやの仕事人間なのね)
メアリーはベーコンの味が染みこんだパンを頬張りながら、こっそり青年の様子を観察する。この辺りの事務所で働いている人だろう。上着の襟には、弁護士のバッジがついている。
(弁護士! 若いのに立派なのね……でも、これっていい機会なんじゃないかしら?)
自分はちょうど弁護士の先生を捜していて、隣には弁護士のバッジをつけた青年がいる。これこそ、神様の用意した偶然の巡り合わせではないか。両手で持ったパンを、アムッと食べて咀嚼する。足もとに寝そべっているケティは、厚いベーコンを美味しそうに噛んで味わっていた。
青年は仕事に没頭しているのか、こちらには目もくれない。時折、苛立ちそうに「チッ!」と舌打ちして頭をかきむしっていた。「無能のクソ馬鹿どもが……」と、あまり品のよくない言葉まで漏れている。上流階級の人間に見えるが違うのだろうか。だが、それはむしろ好都合だ。根っからの上流階級の人間で、貴族出身の人なら、通りすがりの庶民の話などまったく聞いてくれないだろう。だが、中流階級出身の人なら、まだ見込みがある。それに、年齢から言っても彼はまだ弁護士として知名度があるわけでもないだろう。大学を卒業したばかりの新人なのかもしれない。
(公園なんかで仕事をしているくらいだから、事務所をまだ持っていないのかも……)
条件としては、ピッタリだ。けれど、問題なのは彼がひどくイライラしていて、少しも余裕がなさそうだということだ。きっと、面倒な仕事を任されているのだろう。暇があるようにも見えない。
(こういう時にはどうしたらいいかしらね……)
パンを食べながら、チラチラと隣のベンチの様子を伺う。彼が興味を持ってくれればいいけれど、話しかけたとしても無視されるのではないか。それどころか、気難しい人なら乱暴なことをしてくるかもしれない。紳士風の身なりでも男の人はわからないものだ。ケティが一緒にいるとはいえ、まだ子犬だ。番犬としての訓練を積んでいるわけでもないのだから、あまり活躍に期待はできない。となれば、勇気を出してさりげなく挨拶をしてみる以外にないだろう。急いでパンを食べ終えて手を払う。その時だった。急に風が吹いて、青年が鞄の上に置いていた書類が数枚飛ばされる。
あっという顔をして、青年は残りの書類を手で押さえていた。これは大変、好都合だ。「ケティ!」と、メアリーは声を上げて立ち上がる。賢いケティは一声鳴くと、飛んで行く書類を一目散に追い掛ける。その間に、周りに散らばっている書類を拾い集めた。ケティも遠くに飛んで行った一枚を咥えて、戻ってくる。「よし、いい子ね。ケティ」と、メアリーは頭を撫でてやった。ただ、ケティの咥えている書類は涎まみれになってしまっていた。
苦笑いして、その書類と他の書類を一緒に青年に差し出す。
「すみません。ありがとう……」
青年はため息を吐いてお礼を言うと、腰を浮かせて書類を受け取った。ただ、やっぱり涎まみれの書類には顔をしかめている。もう、その書類は使い物にならないだろう。書き直しが必要だ。
「いいえ、お気になさらず。お忙しそうですね」
ニコッと笑って言うと、青年は腰を戻してメガネを外していた。
(わぁ、随分顔がいいのね……この人……神経質そうだけど、メガネを外すと舞台俳優みたい)
灰色がかった髪で、瞳は海みたいな青色だ。背も高くて、百八十センチはあるだろうか。おまけにスタイル抜群だから、上等な上着と紺色のシルクのタイがよく似合っている。銀色のタイピンも洒落たものだ。
「ええ……まあ……」
素っ気ない返事をしながら、彼は疲れたように眉間を指で摘まんでいた。庶民の小娘と話したいことはあまりないといった様子だ。書類を鞄に突っ込み、一口も食べていない紙に包んであるパンをつかむ。立ち去るつもりなのだろう。声をかけられて集中力が切れたからだろうか。それなら悪いことをしたが、こちらとしても用があるのだ。
「もしかして、弁護士の先生ですか?」
できるだけ愛想よく笑顔を作り、早口で尋ねる。腰を浮かせた青年は、眉を潜めてメアリーを見た。厄介事を持ち込まれそうで警戒しているのか。
「そうですが、個人的な相談は受けていませんよ。他を当たってください」
「それなら、相談を受けてもらえそうな人を紹介してもらえませんか? ちょっと困ったことになっていて……」
「申し訳ないが、知り合いはあまり多くないんです。弁護士協会の会館にでも行ってみるといい。それじゃあ」
青年は目も合わせず答えると、足早に立ち去ってしまった。公園を出て、表の通りを横切っている。
メアリーは腰に手をやって、小さくため息を吐いた。まったく忙しない人だ。少しも話を聞いてくれないなんて、不親切にもほどがある。
「うまくいかないものね……でもまあいいわ。弁護士協会の会館に行けば相談に乗ってくれる先生を紹介してもらえるのね? それなら、行ってみるだけよ」
いつものように独り言を漏らしていると、ケティが「ワン!」と吠える。見れば、前脚でなにかを押さえていた。それはベンチの下に入り込んだ書類の一枚だ。メアリーは目を輝かせて、パチンと手を打った。
「ケティ! あなたってばやるじゃない? あのうっかりさんは、きっと書類を忘れていったことに気付いてないわ。気付いた時には大慌てするわよ」
身をかがめて書類を拾ってみれば、大事な契約書だ。しかも、署名と事務所の場所までしっかり書かれている。
「レイモンド=スミス……それがあの人の名前かしらね?」
書類を顎に当てて、彼が消えていった通りの方を見る。
「とりあえず、弁護士協会に行って相談してみましょう。それから、レイモンド=スミス氏について調べるのよ。何事も慎重さが必要でしょう?」
いきなり書類を届けにいったところで、適当にあしらわれるだけだ。それなら、弁護士協会を介して紹介状を書いてもらう方がいい。それなら、きっとあの人も断れないだろう。メアリーはニマーッと笑った。




