1 転校生
「物部杏です。趣味はアニメや本を読むことです。よろしくお願いします」
新学期。担任の先生に促され、転校生の物部杏は、たどたどしいながらもはっきりとした声で挨拶をした。
「物部さんの席は、あの空いている席ね」
先生が指さしたのは、窓際の、前から五番目の席だった。
杏は、みんなからの好奇の視線を感じながら、まっすぐ席へ向かう。すると、机の横を通り過ぎる時、ぽろりと何かが床に落ちた。トンボの絵が描かれた、使い込まれた消しゴムだ。杏はそれを拾い上げ、隣の席に座る男の子に差し出した。
「これ、高瀬くんの?」
男の子――高瀬銀河は、驚いて目を見開いた。
「お前、どうして僕の名前を知っているんだ?まだ、自己紹介してないぞ」
銀河は、まだ杏に自分の名前を告げていないはずだった。なのに、どうして?
「その国語の教科書。名前書いてある」
杏が銀河の机の上にある教科書を指さす。銀河は慌てて目を落とすと、名前ペンで書かれた「高瀬銀河」の文字が、はっきりと目に入った。
そうだ、さっき書いたばかりだ。新しい教科書が配られて、すぐに名前を書いたところだった。
(コナンみたいじゃんか)
銀河は心の中で、名探偵コナンのテーマソングを思い浮かべた。でも、女子がコナンみたいって、ちょっと生意気だよな。それが、銀河の杏への第一印象だった。
杏は、自分の席に着くと、机の横に提げた手提げカバンをかけ、背中の真ん中くらいまである二つの三つ編みを、すっと後ろにはらった。
この時の銀河は、杏のことを、今日転校してきたばかりの、ただのクラスメイトだと思っていた。杏は物語オタクで、自分は野球好き。全く別の世界を生きている女子だ。
物部杏に限らず、女子は小学生男子にとって、訳がわからない生き物だった。
良かれと思って注意したら、感謝されるかと思いきや、突然顔を真っ赤にして怒り出したりする。野球で言えば、ストレートだと思っていた球が、突然手前で落ちるフォークボールのようだ。
クラスのほとんどの子たちが、ちらちらと杏の方を伺っている。転校生は珍しいからだ。三つ編み以外に特に目立った特徴のない、ごく普通の女子。今のところ、それが銀河の杏への評価だった。
だが、杏は、みんなから注がれる好奇の目も気にすることなく、どこか遠い世界にいるかのような表情をしていた。
銀河は、隣の席の女子、大和彩の下敷きに、似たような女の子の絵が描かれていたのを思い出した。赤毛で三つ編みをした女の子が、大きなトランクの上に座っている絵。
(そうだ、彩が言ってたな。アン、赤毛のアンって)
アンと杏。名前が同じだと銀河は思った。
彩は杏と同じような、物語が好きだと知っていた。
銀河は特に気に留めていなかったが、頭の中の転校生ファイルにその情報をしまい込むと、今日の放課後はどこで野球をしようか、と考え始めた。
杏は、窓から差し込む日差しを浴びながら、あるアニメのシーンを思い出していた。主人公・姫ちゃんのクラスに転校生がやってくる場面だ。
(私は姫ちゃんの友達、結花みたいに可愛くないし、俳優の卵でもないけど、転校生っていうのは一緒だな)
『姫ちゃんのリボン』は昔のアニメだが、杏が知っているのは、おばあちゃんのおかげだ。おばあちゃんの資料室にあるたくさんのアニメDVDを、杏は幼い頃から見てきた。
姫ちゃんのような世界は期待していないけど、これからどんな友達ができて、どんな風に過ごすんだろう。物語やアニメの話ができる友達ができたらいいなと杏はそっと願った。