社会の怒り
帝都レインバルドの夜は深かった。石畳を渡る風が、街灯の光を震わせながら流れ、そこかしこに潜む影がひとつに溶け合っていく。空は厚い雲に覆われ、霧雨のような霊素の塵が静かに降り、街の輪郭をぼやかしていた。人々は家々に灯りを落とし、ただ帝国の沈黙に耳を澄ませている。その胸の奥に、言葉にならぬ不安と怒りを抱きながら。
二〇二五年三月十一日未明、民間魔導工房《オルグレイ精機商会》が第五監察課の捜索を受けた。黒檀の特令状を携えた保安官たちは無言のまま工房に踏み込み、医療用の霊素乾燥炉《ルーミス式蒸散機》の輸出を「魔霧兵器転用の疑いあり」として、代表技師ジョン・クリスティら三人を連行した。ジョンはそのとき、魔粉塵が舞う薄暗い作業場の中央に立ち、まるで既に判決を言い渡された囚人のように両手を差し出したという。
彼らは一貫して無実を主張した。輸出に際しては、帝国産業省《魔導貿易局》から正式な許可を得ていたのだ。それは記録にも残り、局の公印も押されていた。それにもかかわらず、第五監察課は「装置の構造が魔霧兵器と同一である以上、用途の申告は虚偽である」と決めつけた。捜査は杜撰で、証言の多くは威圧によって引き出され、証拠と呼ばれたものも霊素塵にまみれた不確かな書類だった。
彼らの保釈は認められなかった。弁護人は七度にわたり申請し、その都度却下された。ジョンの旧友でもあった相談役のアイリスは獄中で胃を蝕む瘴毒症を発症したが、それでも第五監察課は釈放に応じず、アイリスは病院に移された後も鎖をつけられたまま二月の寒い夜に息を引き取った。その頃、何度も取り調べを受けた女性職員は言葉を失い、療養所に送られるほどに心を病んでいた。
人々の胸にわだかまる怒りは、やがて街の空気を変えていった。街角では小さな集会が開かれ、酒場では「帝国の正義はどこに消えた」という低い呟きが交わされた。新聞紙面には連日、第五監察課の過剰捜査を告発する記事が踊り、詩人は「沈黙の帝都」と題した詩を綴り、歌い手は広場で抗議の歌をうたった。
だが、その一方で、捜査を指揮したマグナス・ハースティング警部と部下たちは昇進していった。まるで何事もなかったかのように、より高い地位と威光を得て、社交界に戻り、帝国の紋章を胸に刻んでいた。それは、無数の市民にとって、言い難い屈辱であった。
七月三十日、帝国検察院は突如として公訴を取り下げた。「証拠不十分」という書面が、ひっそりと被告人たちに渡された。釈放されたジョンは、真夏の霧雨に打たれながら、工房の門の前に立ち尽くしたという。その眼差しの先には、かつて自らが磨き上げた蒸散炉が、埃をかぶったまま沈黙していた。
それでも、彼らは声をあげることをやめなかった。九月、ジョンとその遺族、職員たちは、国家および帝都を相手取り、賠償請求の訴訟を起こした。請求額は約二百ディオス。金額の大小よりも、理不尽に対する抗議としての意味が強かった。帝国の裁きの場で、彼らは何度も立ち上がり、涙を堪え、失われた日々と命の重みを証言した。
xxxx年十二月二十七日。ついに帝都地裁は判決を下した。「第五監察課の捜査は明白なる違法行為である」──。国家と市に、千二百ディオスの賠償を命じる内容であった。それは、法廷に集まった人々の胸に、一筋の光を差すものであったが、同時に、その金額では到底償えぬ深い傷跡を残していた。
法廷を出ると、雪のような聖力の塵が降り続いていた。ジョンは見上げて言ったという。「裁きというものは、いつも遅すぎるものだな」と。
夜の帝都は、なおも沈黙していた。だが、その沈黙の奥底で、市民の心は確かに揺れていた。失われた日々、奪われた尊厳。その記憶は、街の石畳の隙間にしみ込み、やがて帝国の未来を揺るがす大きな波となっていくのだろう。
人は権力の冷たさに傷つく。それでもなお、声をあげる限り、暗闇の底には微かな光が宿る。
帝都レインバルドの夜は今日も深く、しかし、静かに明日を見据えていた。