保安局による捜査開始
黎明の光は、昨日の希望さえ飲み込むかのように灰色を帯びていた。帝都レインバルド、東街区の石畳はまだ湿り気を失わず、冷えた空気が骨にしみる。
その朝、《オルグレイ精機商会》の門前に、見慣れぬ蒸気馬車が静かに停まった。漆黒の車体には、艶めく鉄製の双頭の鷲――帝都保安局《第五監察課》の紋章があった。
「そなた方の“蒸散炉”に、いささか説明を願いたい」
厳めしい声が縁側に降り注ぐ。常務フェリシア・クレインは、馬車から降り立つ紳士を睨みつける。肩書きは示されず、だが――その背筋の伸びた佇まいだけで、ただの訪問者ではないと悟った。
冷気に霞む息を吐きながら、彼女は応じる。
「何でしょうか?」
馬車の扉が開き、黒衣の監察官──指揮官マグナス・ハースティングが姿を現した。制帽のつばが低く、瞳の奥に冷たい光を宿している。
「帝国産業省《魔導貿易局》の許可は確認した。だが――」
彼の声は穏やかだが、言葉には疑念と警告が滲む。彼は左手に、黒檀製の令状箱を抱えていた。
「……本装置の構造は、帝国と隣国との条約で禁じられた“魔霧兵器”と同一の理論原理を用いているという報告を受けた」
フェリシアの胸が、鋭く締めつけられる。
「理論上の可能性がある、というだけでしょう?」
マグナスはゆっくり頷いた。
「構造そのものが問題なのだ。用途の善悪を問わず、魔霧を空中に散布できるものであれば、国家安全保障上、いかなる輸出も許されぬ」
冷たく、一片の情けもない理屈。だが、これが帝都の掟だ。
「令状をお見せしよう」
彼は厳かに令状箱の蓋を開け、羊皮紙を取り出した。墨の文字が黒々と踊り、「禁輸魔導装置出荷容疑」とだけ記されている。
「これより貴工房および関係者に対し、捜査および押収を行う」
フェリシアは言葉を探しもがいたが、マグナスの眼光は揺るがない。
「……本当に、何も間違いはないのか」
老練な監察官は、わずかに微笑んだ。
「間違いではない。だが、そなた方の抗弁は、後日の審理で――拾うとしよう」
その刹那、工房内部から老人の咳き込みが聞こえた。相談役アイリス・カロルだった。彼女は病床の身ながら、喉を絞るように立ち上がり、杖を頼りに門前へ出ようとした。
「待て!」
フェリシアの呼び声に、マグナスは足を止める。だが令状は揺るがず、護衛の隊員たちが奥へと踏み込んでゆく。
夕暮れのように重い数分間の後、蒸散炉の図面や書簡が次々に押収された。魔導炉の心臓部である結晶石も、無言のまま隊員の手に握られる。
「我らはただ、構造を検査するにすぎぬ」
マグナスは最後にそう言い捨て、令状箱を閉じた。
雨音のように、足音が去ってゆく。
残されたのは、灰色の石畳と、途方もない不条理だけだった。
五月の風が、まだ冷たい。
だがこの日から、《オルグレイ精機商会》の鼓動は確実に狂い始めたのである。