ハルバート・フィンケルの死
俺はビルの上から……。
記憶がぐちゃぐちゃに混ざり合い、酒に酔ってもいないのに酒場から飛び出し、路肩に吐いた。
俺は、誰だ。
俺はハルバート・フィンケルだ。
それ以外の名前はない、ハズだ。
しかし思い浮かぶのは、ビルの屋上から身体が落下していく感覚。
待て、ビルとはなんだ。
今まで「塔」だと思っていた物だ。
では、あの色彩豊かな「蟻」は?
「車」だ。馬車や竜車とは違う、「車」だ。
俺は、誰かの生まれ変わりだと言うのか。
しかし、記憶に残る景色はこの世界のものではない。
酒場から追ってきた女は、四つん這いになる俺の前に立ち、言った。
「貴方は、瀬川瑛一郎ですか?」
セガワエイイチロウ。
違う。俺は。
そうだ。どうして忘れて。
いや違う。
俺はハルバートだ。
ハルバートはセガワエイイチロウ。
ハルバートは、俺は、セガワエイイチロウは。
「違う!!俺はハルバートだ!!ハルバート・フィンケルだ!!」
「貴方がハルバートであることは分かりました。実際に今日までは、そうだったのでしょうから」
今日まで?何を言っているんだこの女は。
「では、この問いはどうでしょう?」
女は、俺の顔をのぞき込んで言った。
整った顔立ちだ。しかし、その瞳に光はない。
あぁ、分かった。
女は、俺を殺すつもりだ。
ハルバート・フィンケルを、殺すつもりなのだ。
「や、やめっ……!!」
「貴方が瀬川瑛一郎でないことを、否定できますか?」
否定……否定できるのか?
できるに決まっている。
だって、俺なのだから。
俺は……あれ?
俺は……誰だ?
「申し訳ありません、ハルバート・フィンケル。私は貴方の存在を抹消しなければなりません」
女は、少しも申し訳ないとも感じていなさそうな声色で、そう呟いた。
「全ては我々の創造主のため」
死ぬ、のか?
俺は、こんな、何も成していない、汚い街の隅で、ゲロに塗れて、俺は、死ぬのか?
女は、俺の頭に右手を翳し、なんらかの魔術を詠唱した。
「ぁ……」
故郷の村を、何故か思い出した。
飛び出したくて仕方がなかったあの村を。
村の北には、俺の家があった。
母さんは、泣いていたのだろうか。
あぁ、死の際にこんなことを思うなんて。
つくづく、くだらない人生だった。
女が詠唱を終えると、ハルバートはぐしゃりと地面に倒れ込む。
「やっと、終わりましたか。いや、始まったのですね」
女は、そう小さく笑った。