間章7:松永秀司
松永のデスクに無造作に置かれた一枚の封筒。
それは事務所宛のもので、差出人には「沙織」の名前が記されていた。
中身は驚くほど簡素だった。
「会って話がしたい。」
たったそれだけの言葉と、名前、住所が書かれているだけ。
だが、それを目にした瞬間、松永の胸の奥が鋭く刺されたような感覚に襲われた。
沙織――。
その名前が胸中に響くたび、彼の脳裏には過去の記憶が鮮明に蘇る。
⭐︎⭐︎⭐︎
かつて沙織は、誰もが知る国民的女優だった。
端正な顔立ち、優雅な振る舞い、そして卓越した演技力で芸能界の頂点に君臨していた。
彼女の存在感は圧倒的で、映画、ドラマ、CMと、彼女の名前を聞かない日はないほどだった。
そんな沙織と松永が出会ったのは、松永が若手マネージャーとして頭角を現し始めた頃だった。
彼女の才能にほれ込み、彼女の人生に全力を捧げる覚悟でマネージメントを担当するようになった松永。
彼女もまた松永に全幅の信頼を寄せ、仕事だけでなく私生活でも支え合うようになっていった。
次第に二人は深い関係になり、互いにかけがえのない存在になった。
だが、芸能界という特殊な世界は、二人の絆を容赦なく壊し始めた。
二人の関係が週刊誌にすっぱ抜かれたのは、沙織が出演していたドラマの撮影中だった。
「国民的女優、担当マネージャーとの熱愛!」
煽情的な見出しが芸能界を震撼させた。
二人は互いに本気で愛し合っていた。
それでも、大衆の目には許されるものではなかった。
スポンサーからの圧力、事務所内での冷たい視線、激しいバッシング――沙織の輝きは次第に曇り、やがて彼女は失意のうちに事務所を去った。
その時、沙織は松永にこう言った。
「一緒に来てほしい。」
その声は震えていた。
だが、その瞳には確かな決意と、最後の希望が宿っていた。
松永は言葉を失った。
この一歩を踏み出せば、これまで築いてきたキャリアも、業界での立場も全て失うことになる。
事務所の期待を背負い、積み上げた地位――それを捨てる覚悟が、松永にはなかった。
「……ごめん。」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
沙織は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして――静かに笑った。
「……やっぱりね。」
その笑顔はどこまでも冷たく、深い絶望を滲ませていた。
「あなたは、何も変わらない。大切なものを守る覚悟もないくせに、正しさだけを選ぶのね。」
松永は黙ったままだった。
沙織は一歩、松永に近づき、低く、しかし確かに言い放った。
「あなたはきっと、一生その“成功”とやらと一緒にいればいいわ。孤独と引き換えにね。」
そう言い残し、沙織は一度も振り返らずに去っていった。
その後、沙織の消息は誰の前からも姿を消した。
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沙織と別れた後、松永は仕事に没頭した。
沙織を失った痛みを埋めるかのように、与えられたプロジェクトを次々と成功させ、事務所内で急速に出世していった。
やがて彼は独立し、自ら芸能事務所を立ち上げる。
その事務所は、彼の手腕によって瞬く間に大手事務所へと成長。
業界内でも「成功者」と称され、多くの才能ある俳優やタレントを抱えるまでになった。
しかし、私生活では決して満たされることはなかった。
華やかな業界の中心にいながら、プライベートな時間は孤独そのもの。
時折、誰かと付き合うこともあったが、心が満たされることはなく、結局は別れを繰り返した。
沙織と過ごした時間や、最後に浴びせられたあの言葉が、ふとした瞬間に脳裏をよぎるたび、どんな関係も長くは続かなかった。
「一生その“成功”と一緒にいればいいわ。孤独と引き換えにね。」
沙織のその言葉は、まるで呪いのように松永の心に残り続けていた。
成功を手にしても、それを誰かと分かち合うことはできない――その事実を、松永は静かに受け入れるしかなかったのだった。
成功と引き換えに失ったものの大きさを、松永は誰にも言わず、ただ静かに背負い続けていたのだった。
⭐︎⭐︎⭐︎
手紙を握りしめた松永は、ふと渉と裕奈のことを思い出した。
――あのスキャンダル会見の日。
世間の注目を一身に集める中、渉と裕奈は迷いのない表情で並んでいた。
誰もが恐れるような場面で、二人は互いを信じ合い、その輝きを失わなかった。
裕奈は真っ直ぐ前を見据え、強い意志を宿した瞳で言葉を紡いでいた。
その隣で渉は、決して彼女を一人にしないという決意を静かに滲ませていた。
――あれこそが、本当の意味で“支える”ということなのか。
松永は無意識に手のひらに力を込めた。
渉と裕奈の間にあった確かな絆。
あの時の自分にそれがあっただろうか。
「もしあの時、俺が沙織を選んでいたら……。」
心の奥底で何度も繰り返してきた問い。
だが、その答えが出ることはなかった。
会見でお互いを支え合い、隣に立つことでさらに輝きを増した二人の姿は、松永にとって羨望であると同時に、決して取り戻せない過去の苦い記憶を呼び起こすものだった。
「もしあの時、俺が沙織を選んでいたら……。」
考えても答えが出るはずはない。
それでも、沙織の名前が書かれた手紙は、松永の心を掻き立てた。
「彼女は今、どうしているんだろう。」
彼女は結婚しているだろうか。
それとも、まだ一人でいるのだろうか。
どんな形にせよ、もう一度会って話をしたい。
その想いが松永を突き動かした。
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翌朝、松永は早くからスケジュールを確認し、スタッフに時間を空けるよう指示を出した。
そして、沙織の住所を目指して新幹線に乗り込んだ。
車窓の景色を眺めながら、彼は心の中で沙織の笑顔を何度も思い描いた。
「彼女は、俺のどんな言葉を聞きたいだろう。」
松永は溜息をつきながらも、微かに笑みを浮かべた。
「まったく、俺も老けたな。今さらこんなことを考えるなんてな。」
けれどその瞳には、過去に向き合い、未来を切り開こうとする力強い光が宿っていた。
玄関の前に立つと、松永は深呼吸を一つした。
そして、インターホンのボタンを押した。
中から聞こえてきた足音に、彼の鼓動は速くなった。
その扉の向こうにどんな未来が待っているのか。
それは彼自身にもわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
「俺は今度こそ、逃げない。」
そう心に誓った松永は、扉が開く瞬間を静かに待っていた――。




