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間章5:住吉奈緒子

住吉奈緒子すみよしなおこは30代前半、芸能事務所でも一目置かれる敏腕マネージャーだ。


どんなにタイトなスケジュールでも冷静にさばき、問題が起きれば迅速かつ的確に対応する。


その手腕ゆえ、松永事務所に引き抜かれてからも信頼され、彼女が担当するタレントたちは安心して仕事に取り組める。


だが、その完璧さには代償もあった。

多忙を極める日々、性格的にも他人に甘えられない頑固さゆえ、何年も彼氏がいない。


かつて友人に「奈緒子には仕事しか似合わない」と冗談交じりに言われた時、苦笑で受け流したが、心の中では「それも仕方ないか」とどこか諦めている自分がいた。


そんな住吉が、現在担当しているのは国民的女優である裕奈。

彼女の手腕が試される難しい相手だが、住吉はいつものように冷静に対処していた。


ところが、最近裕奈の調子が明らかにおかしかった。

いつもなら完璧にこなす演技も冴えず、現場では小さなミスを繰り返す。

しかも彼女が笑顔を見せることが減り、全体的に余裕を失っている様子が見て取れた。


その理由が、久住渉が紗良のマネージャーとして現場を離れたことにあるのだと気づいたのは、つい最近だった。


ある日の午後、住吉は事務所のデスクで頭を抱えていた。


裕奈が撮影現場で大失敗をしたと連絡が入り、監督から厳しい叱責を受けたのだ。

千鶴も現場を訪れており、裕奈の変化を懸念していた。


「住吉さん、裕奈をどうにか立て直せないかしら?」


千鶴の問いに、住吉は肩を落とした。

「正直、私がどれだけサポートしても、彼女自身が気持ちを取り戻さない限り難しいです。」


千鶴は溜息をつきながらも、ふと何かを思い出したように目を細めた。

「久住くんがいた頃は、彼女の輝きは今よりもっと自然だったわね……。」


住吉は黙って目を伏せた。


翌日、住吉のもとを訪れた渉は、一冊のノートを差し出した。


「これ、僕がずっと考えていたことをまとめたものです。裕奈さんを支えるために必要なことが全部詰まっています。」


住吉は驚きつつも、ノートを受け取った。

分厚いその中には、裕奈のためにどれだけ時間を費やしてきたかが伺える熱意が詰まっている。


「……久住くん、これを裕奈さんに?」


渉は小さく頷いた。

「はい。ただ、住吉さんから渡してもらえますか?僕が直接渡すより、今はその方がいいと思うので。」


住吉はその真剣な眼差しに感銘を受けながら、頷いた。


ノートを受け取った裕奈は、最初こそ戸惑いながらもページをめくり始めた。

住吉はそっと見守りながら優しく微笑んだ。


「久住くんはね、いろんなことを考えてたみたいよ。裕奈さんのために、ずっと。」


ノートを読んでいくうちに、裕奈の瞳が潤み始める。

そこには彼女の成長、努力、体調管理、そして精神的な支えになる言葉がびっしりと書かれていた。


その翌日、撮り直しの現場で裕奈は見事に復活を遂げた。

ーー監督もスタッフも、彼女の演技に圧倒され、誰もが拍手を送った。





夜の静けさが住吉の部屋を包む。

散らかった書類と半分読みかけのスケジュール帳を横目に、スーツを脱ぎ捨てた住吉は缶ビールを手にソファへと沈み込んだ。


「……まったく。」


一気にビールを流し込む。

冷たい液体が喉を通る感覚すら、今日の疲れを完全には癒せない。


今日、撮り直しの現場で――裕奈は見事に復活を遂げた。

監督もスタッフも、その演技に圧倒され、現場には拍手が響いた。


しかし、住吉の頭の中を占めていたのは、復活した裕奈の演技ではなく、その裏にある単純で、あまりにも分かりやすい真実だった。


「……何で、誰も気づかないのかしら。」

呟きながら、住吉は天井を見上げる。


(あんなの、恋に決まってるじゃない。)


裕奈の不調の原因も、渉の悩みも、全部そこに行き着く。

久住渉が現場を離れて以降、裕奈の笑顔は激減し、演技にも冴えがなくなった。

そして、渉が差し出したノート――あの分厚いノートを読み終えた後、裕奈が見せたあの表情。


あんなに分かりやすい恋煩いがあるだろうか。


住吉はビールをもう一口飲み、思わず乾いた笑いを漏らした。


「……気づきなさいっての。裕奈さんも久住くんも。」


裕奈がノートをめくるたびに瞳を潤ませていった様子。

渉が「僕が直接渡すより、今はその方がいいと思うので」と言ったときの、あの微妙な表情。


気づいていないのは本人たちだけ。


「ていうか、千鶴さんも気づいてないわけ? いや、あの人が気づかないわけ……いや、気づいてないんだろうな。」

ビールを机に置き、額を押さえる。

「国民的女優の娘の不調は恋煩いでした、なんて、言えるわけがないでしょうが。」


母親でありトップ女優でもある千鶴にその事実を伝える――考えただけで面倒だ。


「恋の悩みなんて、一時期の気の迷い」などと言いそうな千鶴の反応が目に浮かぶ。


そして何より、本人たちが一番その感情に気づいていない。

(……まあ、気づいた後が大変なんだけどね。)


住吉はそう思いながら、少し口元を緩めた。


しかし、ふと一瞬の沈黙が部屋を支配する。

そこにいたのは、仕事を終え、疲れ切った女性ひとり。


「……あーあ、私もあんな彼氏が欲しい。」


誰に聞かせるわけでもない独り言。

渉のように誰かを全力で支えられる人間が、すぐそばにいてくれること。

裕奈のように誰かを本気で思い、その人の存在だけで輝けること。


もう一度、缶ビールを飲み干す。

スッと立ち上がると、机の上に積まれた資料へと視線を向けた。


「ま、明日も仕事だしね。」


プライドがある。

バリバリ働いている今の自分を否定するつもりはない。


だけど、あの二人の分かりやすい恋を目の当たりにした後だと、少し…ほんの少しだけ胸に空いた隙間が気になる。


「恋に悩む暇もないくらい仕事してたはずなんだけどなぁ……。」


そんなことをぼやきながらも、住吉は再び机に向かい、明日の業務の準備を始めた。


――バリキャリとしてのプライドを胸に抱きながら。

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