大学生編3(心の澱)
プロデューサーの一件以来、裕奈の心は閉ざされてしまった。
華やかな表舞台で見せる笑顔の裏で、彼女の心は深い傷を抱え込んでいた。
男性に対して抱く嫌悪感は、日に日に強まっていった。
共演者の男性陣とは、表面上は明るく接するが、内心では一瞬たりとも気を許せない。
触れるどころか、近づかれるだけで冷たい汗が流れるようになった。
それでも彼女の演技力は卓越しており、誰にもその苦悩を悟られることはなかった。
唯一、心を許せる男性は渉とマネージャーの佐藤だけだった。
渉の存在は、過去の温かな記憶とともに、裕奈にとって心の支えであり続けた。
そして佐藤は、彼女の母・千鶴と連携しながら、何度も彼女を守ってくれた頼れる存在だった。
撮影が終わり、スタジオの控室に戻ると、マネージャーの佐藤が待っていた。
「お疲れさま。今日はこのまま、スポンサーのパーティーに顔を出してもらえませんか。」
裕奈は静かに微笑んだまま、わずかに視線を落とした。
「……断れませんか?」
「今回は無理ですね。なにせ今回のスポンサーが四柱の一つ、葵財閥ですから。CM契約の関係もあるし、事務所としても重要な付き合いです。」
裕奈は表情を崩さず、小さく息を吐いた。
スポンサー絡みのパーティーはいつも苦痛だった。
礼儀を装いながらも、どこか値踏みするような視線を向けてくる男たち。
遠回しな口説き文句や、距離を詰めようとする空気。どれも耐えがたかった。
「佐藤さんも一緒にいてくれますよね?」
「もちろん。離れないようにします。」
裕奈はようやく少しだけ安心した。
佐藤は、数少ない警戒しなくてもいい相手だった。
煌びやかなシャンデリアが照らす会場には、華やかなドレスやタキシードに身を包んだ人々が談笑している。
裕奈は完璧な笑顔を浮かべ、出席者たちと挨拶を交わしていた。
「高宮さん、今日のCM撮影も素晴らしかったですよ。」
スーツを着た50代ほどの男性が、ワイングラスを片手に近づいてきた。裕奈は上品に微笑みながら、適切な距離を保つ。
「ありがとうございます。皆さんのお力添えのおかげです。」
「いやいや、高宮さんの才能あってこそですよ。ところで、この後、少しお時間ありますか?」
――またか。
内心で冷めた思いを抱えながらも、裕奈は表情を変えず、柔らかく答える。
「申し訳ありません。明日も朝早い撮影がありまして。」
「そんなこと言わずに、少しだけでも――」
「裕奈さん、そろそろ次の挨拶がありますので。」
佐藤がさりげなく間に入る。裕奈はほっとしながら、笑顔で会釈し、その場を離れた。
(くだらない。)
何度も繰り返される、興味のない誘い。
男たちの目には、きっと自分はただの”高宮裕奈”という商品にすぎないのだろう。
(でも――)
裕奈は、ふと遠い記憶を辿る。
小学校の時、独りぼっちだった自分の手を、迷いなく取ってくれた少年。
「裕奈は可愛いから、将来芸能人になるかもな。」
そう無邪気に言って、悪びれもせず笑っていた彼。
(渉なら、こんなふうに私を見ないのに。)
彼は決して、価値を測るような視線で見てこなかった。
幼いながらも、ただ自分を”裕奈”として見てくれていた。
あの頃の渉は、唯一の”本物”だった。
(私を私として見てくれるのは、渉だけ。)
それは、確信だった。
だからこそ、裕奈は渉の前では”高宮裕奈”でいる必要がなかった。
彼の前では、ただの”裕奈”でいられる。
「裕奈さん、大丈夫ですか?」
佐藤の声に、裕奈は微笑んで頷いた。
「ええ、大丈夫です。」
今はまだ、渉はいない。けれど、いずれ再会する。
その時、彼が今でも自分のことを”裕奈”として見てくれるなら――。
その想いだけが、彼女を支えていた。
しかし、裕奈は、男性に対する嫌悪感だけでなく、女性たちからの嫉妬にも苦しめられていた。
共演者やスタッフの中には、裕奈の成功を妬む者も多く、陰口や嫌がらせが絶えなかった。
女性たちからの冷たい視線を浴びるたび、裕奈の中にある疑問が膨らんでいく。
「私は、何のために芸能活動をしているんだろう…?」
だが、裕奈は心の奥底では分かっていた。
彼女がまったく悪くないわけではないことを。
本質的に人見知りで、共演者たちとも積極的に関わろうとはしない。
現場では当たり障りのない会話しかせず、女性たちの輪の中にも積極的に入ろうとしない。
さらに、裕奈の「完璧すぎる態度」もまた、周囲との溝を深めていたのかもしれない。
失敗を恐れ、どんなに小さな仕事にも全力で取り組んだ。
セリフを一言も間違えず、スタッフや監督からの指示にも即座に応える。
撮影現場では遅刻やミスを一切せず、求められた以上の演技を見せてきた。
その完璧さは評価された一方で、周囲には「隙がない」「近寄りがたい」という印象を与えていた。
自分を守るために築いた壁が、他人からはプライドの高さや冷たさと受け取られていたのかもしれない。
また、無意識のうちに周囲を気遣っていたこともあったが、そのやり方もまた誤解を生んだ。
たとえば、共演者がミスをしたとき、あえてフォローの言葉をかけず、気まずい空気を変えようとしなかった。
「慰めたらかえって傷つくかもしれない」――そんな配慮だったが、周囲からは「冷たい」「見下している」と受け取られてしまう。
(私がもう少しうまく立ち回れたら、違ったのかな……。)
どこか距離を置くような態度が、結果的に周囲との溝を深めてしまっていたのかもしれない。
「でも…だからって、どうしろっていうの…?」
自分を変えなければならないのか、それともこのままでいいのか。
裕奈は答えを見つけられないまま、ただ胸の奥に澱のようなものが溜まっていくのを感じていた。
「国民的女優」として注目を浴びる一方で、彼女の心は孤立していった。
誰も信じられず、誰にも頼れない。
渉との約束だけが、彼女の支えだった。
裕奈の心の中で渉の存在はどんどん大きくなっていった。
それは単なる昔の約束を超えた感情に変わりつつあった。
「渉はきっと、こんな私を受け入れてくれる…。」
「渉だけは、私を裏切らない…。」
そう信じることで、自分の居場所を保っていたのだ。
裕奈の中で、渉は理想化されていった。
彼が自分を救い出してくれる唯一の「ヒーロー」だと思うことで、彼女は辛うじて芸能界での生活を続けていた。
ある日の撮影が終わった後、裕奈は控室で一人考え込んでいた。
「私は、本当にこれでいいの?」
「誰かを笑顔にしたいと思って始めたはずなのに…、今の私はただ、周囲に傷つけられるためにいるようなもの。」
彼女の胸に去来するのは、これまで積み重ねてきた努力と、それを続ける理由への疑問だった。
国民的女優としての栄光も、舞台の上での喝采も、この罪悪感を薄れさせることはできなかった。
むしろ、裕奈は輝き続けること自体に疲れ果てていた。
ーー何故自分は輝かなければならないのか
裕奈は、もう一度自分の心に問いかける必要があると感じていた。
その答えを導き出すためにも、渉との再会が必要だと強く思った。
本作の世界観では、巨大財閥がその勃興をかけて色々な駆け引きを行っています。
財閥をめぐる争いは他作品でいずれ書きたいと思っています。




