再会編6(あなたしかいない)
翌日、渉は意を決して裕奈の所属事務所を訪れた。
小さなメモ用紙に書かれた住所を頼りに、都会の高層ビル群の中にある事務所のフロアにたどり着く。
受付で裕奈の名前を告げると、怪訝な顔をされたが「少しお待ちください」と言われ、ロビーのソファで待つことになった。
周囲にはスーツ姿のスタッフが行き交い、忙しそうな雰囲気が漂っている。
扉の隙間から厳しい声が漏れてくる。
「裕奈、最近のパフォーマンスが落ちているわね。」
渉はロビーで待ちながら、聞こえてきたその声に思わず顔を上げた
声の主は裕奈の母であり、彼女の敏腕マネージャーでもある高宮千鶴だった。
「本番での集中力が足りない。セリフの間も以前より甘くなってるし、表情の作り込みも雑になってる。何があったの?」
千鶴の冷徹な指摘に、裕奈は視線を落としたまま何も言わない。
「それなのに、勝手に大学に行ったですって?」
千鶴の声がさらに鋭さを増す。
「あなたがどれだけの人間を背負っているか、分かってるの? 製作スタッフもスポンサーも、みんなあなたに期待してるのよ。もっと自覚を持ちなさい!」
裕奈はぎゅっと拳を握りしめるが、言葉を発することはなかった。
渉はロビーのソファで、拳を握りしめながらその光景を見つめていた。
――裕奈は、苦しんでいる。
幼い頃から母の期待を一身に背負い、芸能界で戦い続けてきた彼女の重圧。
そして、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっている今の姿が、渉の脳裏に小学校時代の記憶を呼び覚ました。
――あの時も、裕奈は泣きそうだった。
学芸会の主役に選ばれ、クラスメイトからの嫉妬と、母親の期待の重圧に押しつぶされそうになっていた裕奈。
父母の喧嘩を見てしまい、寂しそうに河原に座っていた裕奈。
その時、渉は力強く言ったのだ。
「……辛かったら、俺が支える。」
あの時の裕奈の泣きそうな笑顔。
そして今、目の前で必死に涙をこらえる裕奈の姿。
何も変わっていない――いや、あの頃よりももっと孤独を抱えているように見えた。
「俺が……支えられるのか?」
渉は奥歯を噛み締め、目を閉じる。
彼の中で眠っていた約束が、再び彼を突き動かそうとしていた。
そして、渉は決意する。このままでは終われない。
そう思った瞬間、彼は静かに立ち上がった。
事務所の奥から、裕奈の驚いた声が聞こえてきた。
「えっ、渉が事務所に?」
次の瞬間、裕奈が勢いよく飛び出してくる。
「――えっ?」
渉と目が合うなり、裕奈は目を見開き、足を止める。
「……渉?」
渉は少し気まずそうに頷いた。
「久しぶり、裕奈。」
裕奈は数秒間、呆然としていたが、やがてはっとしたように口を開いた。
「なんで、直接来たの……? メモに書いた番号、あれ、私のじゃなかった?」
「うん、事務所の番号と住所だった。」
渉はポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出し、軽く掲げる。
「電話するって選択肢もあったけど……直接話したかったから。」
裕奈はその言葉を聞いた途端、何かを飲み込むように唇をぎゅっと結んだ。
彼女の目が少し潤んだように見えたのは気のせいだろうか。
「……もう、渉は昔からそうだよね。」
裕奈は小さく笑い、そっと目元を拭う。
その笑顔を見て、渉はようやく肩の力を抜いた。
「とりあえず、話そうか。」
「うん……そうだね。」
裕奈は頷き、渉を応接室へと案内した。
☆
裕奈と渉は事務所の応接室で向かい合って座っていた。
窓からは都会の喧騒が見下ろせるが、室内には静寂が漂っている。
「でも……裕奈、なんで俺なんだ?」
渉は言葉を探すようにしながら口を開いた。
「他にも頼れる人はいるだろ?もっとプロフェッショナルな人だって……俺より適任な人が……」
裕奈はその言葉を遮るように、強い口調でキッパリと答えた。
「渉以外にはいない。」
渉は驚いて裕奈を見る。
「辛い時、苦しい時、いつも思い出してたの。渉との約束を。だから、どんなことがあっても頑張れた。」
裕奈の声は真剣だった。
「渉がいなかったら、今の私はいない。」
その言葉に渉は言葉を失い、ふっと目を伏せた。
頭の中には、小学校時代の裕奈との約束が鮮明に浮かんでいた。
渉は目を閉じ、大きく息を吐いた。
胸の中で渦巻いていた迷いが少しずつ晴れていくのを感じる。
「……分かった。」渉は静かに言った。
そして裕奈をまっすぐ見つめる。
「俺でいいなら、やってみる。」
裕奈の目が驚きと喜びで揺れた。
「本当に……?」
渉は小さくうなずきながら苦笑した。
「ただし、俺にできることがどれだけあるか分からない。期待しすぎるなよ。」
裕奈は涙を浮かべながら、大きく首を横に振った。
「それでもいい。渉がいてくれるだけで十分だよ。」
その言葉を聞いて、渉は思わず吹き出すように笑った。
長い間感じていた自分の無力感が、少しだけ軽くなったような気がした。
「分かった。よろしく頼むよ、裕奈。」
こうして、二人の新たな物語が幕を開けた。
かつての約束を胸に抱えながら、今度は共に進む道を歩き出すために。




