高校生編6(終・side渉4・別離)
右膝に巻かれたギプスに頼りながら、渉は杖をついてサッカー部の顧問、武藤のもとを訪れた。
練習の時間帯を避けた静かな部室。その扉を渉がノックすると、武藤は振り返り、いつもの穏やかな表情で彼を迎えた。
「渉か。調子はどうだ?」
渉は答えず、武藤の前に立ち止まると、静かに頭を下げた。
「先生……今日は退部の話をしに来ました。」
武藤の表情がわずかに曇る。
「そうか……」
渉は目を伏せたまま続けた。
「俺はもう……試合に出ることも、チームのために走ることもできません。中途半端な形で部に残るつもりはありません。」
武藤はしばらく無言で渉を見つめていた。
渉の決意の硬さを感じ取りながらも、彼の心の奥底にある葛藤を見逃さなかった。
「渉。お前がどれだけこのチームを引っ張ってきたか、チームメイトが一番分かってるんだ。」
武藤の言葉に、渉の肩がわずかに動いた。
「お前がいない間も、みんなはお前のノートやアドバイスを元に練習を重ねてる。お前が残してきたものが、チームを強くしてるんだ。」
渉はそれでも黙ったままだった。
武藤は一息つき、少しだけ声のトーンを下げた。
「チームメイトの何人かはな、渉にマネージャーになってほしいって言ってきてる。お前の分析力や人を教える力を頼りにしてるんだ。」
渉は顔を上げたが、すぐに視線を逸らし、短く答えた。
「……すみません。」
その言葉に武藤は目を細め、少しだけ厳しい口調になった。
「渉、お前はいつも『輝きたい』って言ってただろう。確かにサッカーはお前を輝かせる方法の一つかもしれない。だがな、それだけじゃない。」
渉は何も答えなかったが、武藤の言葉を静かに聞いていた。
「お前の中には他にも輝ける力がある。サッカーじゃなくても、別の形でそれを見つければいいんだ。簡単なことじゃないだろうが……挫けるなよ。」
武藤のまっすぐな視線に渉は一瞬揺れたが、口を一文字に結び、席を立つともう一度頭を下げた。
「先生、ありがとうございます。でも……俺はもう決めました。」
渉は踵を返して部屋を出ていった。
武藤はそれ以上何も言わなかった。ただ渉の背中を見送りながら、小さくため息をついた。
☆
その夜、渉はベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。退部届を出し、サッカー部を去った現実が、彼の心を重く押しつぶしていた。
ふと携帯が鳴った。画面に「真由」の名前が表示される。
渉は一瞬迷ったが、通話ボタンを押した。
「久住先輩、話してもいいですか?」
真由の声はいつもより少し緊張していた。渉は短く答えた。
「ああ…聞いてる。」
真由はしばらく黙った後、震える声で話し始めた。
「先輩、退部したんですか…?」
渉は小さく息を吐き、静かに答えた。
「ああ…もう俺には…チームにいても役に立てないから。……ごめんな。俺、真由にとって、いい彼氏じゃなかったよな。」
その言葉に、真由はすぐさま声を荒げた。
「そんなことないです!先輩がいたから、みんな頑張れたんです!私だって…先輩を見てると頑張れるんです!」
渉は一瞬言葉を失った。電話越しに真由の感情が伝わってくる。
「私、先輩を支えたい。ずっとそばにいたいんです。だから…お願い、もっと私を頼ってください。」
渉はしばらく黙っていた。ふと、真由の言葉の裏にある純粋な思いが胸に刺さった。
だが、同時に浮かんだのは、幼い頃に別れた裕奈の笑顔だった。
(俺は…あの約束を守れてない。俺は……)
渉はぎゅっと拳を握り、冷静な声を装って答えた。
「真由……俺な、サッカー辞めたら何も残らないんだ。サッカーをしてる俺以外、何もない。こんな俺じゃ……真由のこと、支えられないんだよ。」
「そんなの……!」
真由は息を呑んだようだった。渉は続けた。
「ありがとうな。今まで俺を支えてくれて。でも……もう、終わりにしよう。」
その言葉に真由は涙を堪えながら「やだ……」と言って言葉を続けようとしたが、渉は静かに言葉を遮った。
「ごめん、真由。」
それだけを残し、渉は電話を切った。
その後、渉は携帯を握り締めながら、深い孤独に包まれていった。
☆
冬の冷たい風が吹き抜ける中、高校サッカー選手権が開幕した。
渉がかつて主将を務めたチームも強豪校なだけあって順調に勝ち上がり、ベスト8まで進んだ。
だが、精神的支柱を欠いたままで準々決勝の壁は厚かった。
強豪校を前に、チームは粘りを見せたものの、最後は力及ばず1-3で敗退した。
試合後、選手たちの間には悔しさが広がっていたが、その感情はやがて別の方向へと向かい始めた。
「主将だった渉が途中で辞めたから、俺たちはここまでしか来られなかったんだ。」
「責任感がないよな。あいつが辞めたせいで、チームがバラバラになったんじゃないか?」
渉に対する不満を公然と口にする者もいた。
特に、彼が主将を辞してからの練習の雰囲気や指導の欠如を指摘する声が上がっていた。
渉の的確な分析や、的を射た指導がなくなったことで、チームの士気が揺らいだことは否めなかった。
「……渉が辞めてから、チーム全体の締まりがなくなったよな……。」
「正直、練習の質も落ちた気がする。」
そんな声がちらほらと聞こえてくる中、渉を擁護する者も少なくなかった。
「渉を責めるのは違うだろ。アイツが誰よりも努力してたのを知らないのかよ?」
「確かに渉がいなくなったのは痛かったけど……アイツ、自分を責めてたんだと思うよ。」
「辞めたのは渉自身も辛かったはずだ。それでも、最後まで俺たちを応援してくれてた。」
渉はいつも最後まで残っていた。
「お前のここ、もっと意識した方がいい。」
「今のプレー、こうしたらもっと良くなるぞ。」
練習が終わった後も、彼だけはグラウンドに残り続けた。
個別で練習をしたいと言えば必ず付き合い、自分の練習時間を削ってでも後輩の指導に励んでいた。
渉のノートを見たことがある者もいた。
試合ごとの相手チームの分析、個々の選手の特徴、チームメイト一人ひとりへの改善点まで、びっしりと書き込まれていた。
そこには、彼がどれだけチームのために考え、行動していたかが詰まっていた。
「渉がやってたこと、俺たちはちゃんと見てたよな。」
「最後まで残ってたの、渉だけだったよな……。」
「なんだかんだ言って、アイツがいたから、みんな真剣に練習してたんだと思う。」
試合後のロッカールームで、ふと静寂が訪れる。
ベスト8で敗退した現実を受け入れながら、彼らはようやく理解した。
渉がいたから、ここまで来られたのだと。
不満を口にしていた者も、もう何も言えなかった。
批判よりも、感謝と労いの気持ちが、自然と彼らの中に広がっていった。
「試合の日、渉がスタンドから俺たちを見てたの気づいてたか?」
渉はベスト8で敗退した試合も観客席から見ていた。
自分がフィールドに立っていれば、何か変えられたのかもしれない――そんな思いが胸を締めつける。
だが同時に、フィールドで懸命に戦う仲間たちの姿を見て、どこか救われるような気持ちも抱いていた。
(俺が辞めたのに、こんなに頑張ってくれてるんだな。)
試合後、誰よりも涙を流していたのは、渉だった。
こうして渉のサッカー人生は静かに幕を閉じた。
しかし、彼が残したノートや指導の記録、そしてチームメイトの心には、渉の存在が確かに刻まれていた。
後に顧問の武藤がこう語った言葉は、チーム全員の心に深く残った。
「渉が辞めた理由を、誰も責める資格はない。あいつは自分の限界を知り、それを受け入れたんだ。それは弱さじゃない。むしろ、誰よりも強かったからこそできた決断だ。」
渉のサッカー人生は終わったが、彼がチームに与えた影響は消えることなく、次の世代へと受け継がれていった。
☆
渉が怪我を負い、サッカーから完全に身を引いた高校3年の冬。
彼は退部後も、これまでのようにノートをつける習慣だけは手放さなかった。
サッカーの練習記録や試合の分析から、今では授業の内容や受験対策のメモがそのノートを埋めていった。
もともと真面目で粘り強い性格の渉は、勉強に専念することで着実に力をつけていった。
幸い、サッカー部で得た集中力や継続力、そしてノートを活用する習慣が彼を支えた。
模試の成績はみるみる上昇し、最終的には上位とされる大学の教育学部に合格する。
「教育学部、か…」
大学への合格通知を手にした日の夜、渉はベッドの上で一人つぶやいた。
本当のところ、自分がなぜ教育学部を選んだのかはっきりとは分からなかった。
ただ、あの時武藤に言われた「分析力や人を教える力」という言葉が心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。
「俺にそんな力があるのかどうか…」
渉は思わず自嘲気味に笑った。
かつてサッカーで目指した「輝きたい」という夢は、今では完全に蓋をして記憶の奥底に押し込まれていた。
裕奈との約束も、真由との別れも、そしてサッカーで追い求めた日々も、彼にとっては痛みと挫折を思い起こさせるだけのものだった。
「輝くなんて、結局俺には似合わない。」
そう思いながらも、教育学部への進学を決めたことには不思議と納得感があった。
サッカーという形ではなくても、人の成長を支えたり導いたりすることなら自分にもできるかもしれない。
そんな漠然とした期待が、渉の中に小さな灯のように残っていた。




