中学生編3(裕奈の転校)
2月14日、バレンタインデー。
中学1年生の渉は、夕方の放課後、靴箱の前で足を止めていた。
靴箱の中には、いつも通りいくつもの包みが詰められている。
渉は苦笑いしながら、手早く包みを取り出してカバンに詰め込んだ。
サッカー部のエースで整った容姿の彼は、女子から人気が高かった。
それでも、渉の心にはぽっかりとした空白があった。
「裕奈、今日は学校に来てないのかな……」
裕奈は最近、芸能活動が忙しくなり、学校に来る日が少なくなっていた。
彼女のいない教室はどこか物足りなく、渉はその変化を寂しく感じていた。
「まあ、裕奈から貰えるわけないか。」
そう自分に言い聞かせ、軽く首を振った。裕奈は子どもの頃から綺麗で、どこか自分とは違う世界にいるような存在だった。
それに忙しい彼女がバレンタインに自分なんかにチョコを用意するはずがない――渉はそう思っていた。
夕暮れの廊下を歩いていると、後ろから急に呼び止められた。
「渉!」
振り向くと、息を切らした裕奈が立っていた。
久しぶりに見る彼女の姿に、渉の心は驚きと喜びでざわついた。
「裕奈……?」
「探したよ、全然見つからないんだもん。」
裕奈は少し膨れた顔をしながら、ポケットから何かを取り出した。
それは小さな袋に入った市販のチョコレートだった。
「これ、渉に。」
「俺に?」
渉は目を丸くした。裕奈はどこか照れたように目を逸らしながら言葉を続けた。
「最近あんまり学校に来られなかったし……いつもサッカー頑張ってるみたいだから、その、応援の意味で。忙しくて手作りとかはできなかったけど……」
渉は袋を受け取りながら、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
他の誰からのものとも違う特別な重みが、このチョコには込められているように思えた。
「ありがとう、裕奈。」
「気にしないで。ただ、ちゃんと味わってね。」
裕奈は少し笑いながら、渉を見上げた。
渉もその笑顔につられて自然と笑みを浮かべた。
「でも、無理はするなよ。忙しいなら、ちゃんと休まないと。」
「うん、わかってる。」
その日の帰り道、渉のカバンには他のチョコと一緒に裕奈からのチョコも入っていた。
けれど、渉の頭の中で思い返すのは、裕奈がわざわざ自分に声をかけてくれたことばかりだった。
「なんでこんなに嬉しいんだろうな……」
渉は首をかしげながら、どこか浮かれた気分で家路に着いた。
それはまだ、恋という感情を知らない少年の、初めての胸のざわめきだった。
☆
バレンタインデーを過ぎ、そろそろ春の訪れを感じさせる中学1年の冬の終わり頃。
放課後の図書室には、静かな空気が流れていた。
日差しが柔らかく差し込み、窓際の机に並んだ本の背表紙が金色に輝いている。
渉は数学の問題集を広げながら、時折隣の席の裕奈に目を向けた。
彼女は分厚い台本を手に持ち、静かに読んでいる。
その表情は真剣そのもので、彼女にとっての”勉強”がこういうものなのだと、渉はなんとなく思っていた。
しかし、しばらくすると裕奈は台本を閉じ、小さな紙切れに何かを書き始めた。
貸出票の裏側——図書室で借りた本についている、学校名が印字された紙だった。
「……何してるんだ?」
渉が声をかけると、裕奈は少し驚いたように目を上げ、恥ずかしそうに笑った。
「ちょっとしたメモ。」
「メモ?」
「うん。大事なことを書いておくの。」
渉は貸出票を覗き込んだ。そこには、細い字でこう書かれていた。
「今日の夕焼け、すごくきれいだった。」
渉はそれを見て問いかけた。
「……それ、何のために?」
「うーん……なんとなく?」
裕奈はペンを指で回しながら考える。
「私、台本とかもそうなんだけど、すぐ色んなことを忘れちゃうんだよね。だから、その時の事、自分の気持ちとか書いておくと安心するの。」
渉は少し呆れながらも、彼女の言葉に引っかかるものを感じた。
「でも、夕焼けなんて毎日あるだろ。」
「そうだけど、今日の夕焼けは今日しか見られないじゃん?」
渉は少し考えてから、ふっと笑った。
「……なんか、裕奈らしいな。」
「え、バカにしてる?」
「してないよ。」
裕奈は少しむくれたが、すぐにくすっと笑った。
そして、紙を小さく折りたたみ、ポケットにしまう。
「渉もやってみたら?意外と楽しいよ。」
「俺が?」
「うん。渉、たまに考え込む時あるでしょ?そういう時に書いてみたら、少しはスッキリするかも。」
「……考えとく。」
渉は曖昧に答えながら、机の上のノートに目を落とした。
今まで勉強のためだけに使っていたノート。
ーーけれど、そこに何か大事なものを書き残すのも、悪くないかもしれない。
その時は、まだ深く考えなかった。ただ、裕奈の言葉が、心のどこかに残っただけだった——。
☆
裕奈の芸能活動は日を追うごとに忙しさを増していた。
東京での撮影やレッスンのために学校を休むことも増え、渉と過ごす時間はすっかり減り、学校に来る時間も減りつつあった。
それでも裕奈は疲れた顔を見せず、カメラの前ではいつも輝く笑顔を浮かべていた。
一方、千鶴は裕奈のスケジュール管理に追われる日々を過ごしながらも、次第に確信していた。
今の生活では、裕奈の夢を支えるには限界があると。
裕奈が中学2年生になる頃、彼女はすっかり大人びた雰囲気を纏うようになっていた。
芸能活動でも順調に仕事が増え、クラスメートからも「テレビで見たよ」と言われることが日常になっていた。
一方、渉もサッカー部のレギュラーとして活躍し、同級生や後輩からの人望が厚い。
二人とも告白されることはあったが、裕奈は芸能活動を理由に、渉は心のどこかで裕奈の存在が引っかかり、すべて断っていた。
そんなある日、裕奈の母・千鶴は裕奈をリビングに呼び、深刻な顔で話を切り出した。
ある日の夜、裕奈と千鶴は久しぶりにリビングで向き合っていた。
裕奈が家にいる日は珍しく、その貴重な時間を使って千鶴は切り出した。
「裕奈、聞いて。」
千鶴はそう言うと、少しためらいながらも続けた。
「東京に引っ越そうと思うの。」
裕奈は驚き、目を大きく見開いた。
「東京? なんで急に?」
千鶴は静かに答えた。
「今の生活じゃ、もう限界なの。学校と撮影を行き来するだけで体力も削られてるし、裕奈の仕事もこれから増えていく。一度環境を整えないと、このままじゃ長く続けられないわ。」
裕奈は黙り込んだ。
東京への引っ越しが彼女の夢にとって必要な選択であることは分かっていたが、それと同時に、渉や地元の友だちと離れることを意味しているのも理解していた。
裕奈は反論しようとしたが、千鶴の真剣な表情に言葉を飲み込んだ。
「でも……ここには渉もいるし、友だちもいる……」
千鶴はその言葉を聞き、優しく微笑んだ。
「分かるわ。でも、裕奈が目指してる場所は、もっと先にあるんじゃないの?」
千鶴の言葉は正論だった。裕奈は黙り込んだまま、自分の部屋に戻り、渉のことを思い浮かべた。




