絡み合う感情編8(決別)
撮影現場で、久しぶりに渉と裕奈が仕事を共にすることになった。
しかし、二人の間にはかつてのような自然な空気は戻らず、どこかぎこちないまま時間が過ぎていった。
渉は仕事に集中しようと努める一方、裕奈は彼の視線を感じつつも、その距離感に耐えきれない不安を抱えていた。
仕事が一段落した控室で、裕奈は意を決して渉に声をかけた。
「渉、少し話せる?」
渉が振り返ると、裕奈の瞳には迷いと葛藤が浮かんでいた。
彼女は控室のドアを静かに閉め、二人きりの空間を作る。
「最近、紗良ちゃんと仕事することが多いみたいだね。」
裕奈の声は淡々としていたが、その奥には押し殺した感情が滲んでいた。
渉は一瞬言葉を選ぶようにしてから、落ち着いた声で答える。
「うん。紗良さんはすごく努力家だし、俺もできる限りサポートしてる。」
「……楽しそうだね。」
裕奈の言葉に、渉の表情が一瞬曇る。
彼女の意図がわからないわけではなかった。
裕奈は少し息を吸って、静かに続けた。
「渉にとって、私はどんな存在だったのかな。」
「裕奈……?」
「別に答えにくいことを聞いてるわけじゃないよ。ただ、知りたくなっただけ。」
裕奈は無理に笑おうとしたが、その笑顔はどこか儚かった。
「私ね、ずっと渉がそばにいてくれたから、頑張れてたの。でも、今はもう渉がいなくても、大丈夫なんじゃないかって思うようになった。」
「……そんなこと。」渉は思わず言葉を返す。
「そうかな?」裕奈は穏やかに首を振った。
「私はね、きっと、渉の助けがなくても前に進めるようにならなきゃいけないんだと思う。だって、いつまでも頼ってばかりじゃ、私らしくないでしょう?」
渉は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
裕奈はそんな渉の様子を見つめながら、ほんの少しだけ寂しそうに微笑む。そして、一歩、彼から距離を取った。
「もういいよ。……ありがとう、渉。」
「裕奈……」
彼女はそのまま振り返り、迷いなく部屋を出て行く。
その背中は、どこか覚悟を決めた人のものだった。
☆
数日後、渉は松永社長に呼び出された。いつものように淡々とした表情で彼を迎えた松永は、デスクに肘をつきながら静かに切り出した。
「久住、重要な話がある。」
渉は緊張しながら松永の言葉を待つ。その視線はどこか鋭いが、冷たいというよりも意図を探ろうとしているようだった。
「裕奈の担当から外れてもらう。」
渉の胸に冷たい衝撃が走る。自分の耳を疑ったが、松永の視線には一切の迷いがなかった。
「……どういうことですか?」渉は必死に平静を装いながら問い返した。
松永は短く息を吐き、冷静に言った。
「これは裕奈の意思による。お前を信頼していないわけじゃない。むしろお前の働きを評価している。しかし、裕奈自身がお前を外してほしいと言ってきた。」
その言葉を聞き、渉の胸が重く沈んだ。
「裕奈が……?」
松永は厳しい口調で続けた。
「お前が紗良の担当になってから、裕奈に対するサポートの比重が減ったのは事実だ。それが理由かは分からないが、彼女は自分がもっと輝くためには、別の形で進むべきだと判断したようだ。」
渉は何も言い返せなかった。
自分が裕奈のためにもっと成長しようとしていたことが、結果的に彼女に誤解を与え、距離を広げてしまったのかもしれない。
「分かりました……。」
渉の声は消え入りそうだった。
松永は何かを言いかけたが、その答えを受け入れるように軽く頷いただけだった。
部屋を出た渉の足取りは重かった。
裕奈の本当の気持ちを知ることもできず、ただ自分の無力さを痛感するばかりだった。
☆
その前日、裕奈は控室で、現在の担当である住吉と千鶴に静かに切り出していた。
「久住さんを私の担当から外してください。」
千鶴は驚きの表情を隠せない。
「裕奈、それはどういう意味? 久住くんは日にちは減ったけど、あなたのために動いてくれてきたわ。」
裕奈は一瞬目を伏せたが、意を決して顔を上げる。
「……でも、お母さんも言ってたじゃない。久住さんは私の専属でもないし、彼にはまだ力が足りてないって。」
千鶴の表情が一瞬曇る。
「久住さんに頼ってばかりじゃ、きっと私は成長できない。だから、ちゃんと一人でやらなきゃって思うんです。久住さんももっと成長するためには、紗良ちゃんのサポートに集中したほうがいい。」
住吉は冷静な目で裕奈を見つめ、「本当にそれがあなたの望みですか?」と確認するように尋ねる。
裕奈は自分の心が揺れているのを自覚しながらも、ゆっくりと頷いた。
「はい。それが最善だと思います。」
千鶴は心配そうにため息をついたが、娘の決意の硬さを感じ取り、視線を逸らした。
一方で住吉は、裕奈の瞳の奥にどこか無理をしているような影を見つけ、軽く頷いた。
「分かりました。その方向で動きます。ただ、久住さんにはしっかり説明をしてください。」
裕奈は返事をせずに、ただ小さくこくりと頷いた。
☆
控室の廊下で、久しぶりに渉と裕奈が顔を合わせた。
渉は足を止め、裕奈の姿をじっと見つめた。
「……裕奈。」
久しぶりに彼女の名前を呼ぶ。しかし、その声には微かな疑念と戸惑いが混じっていた。
裕奈は一瞬だけ視線を揺らしたが、すぐに表情を引き締める。
そして、まるで何もなかったかのように、静かに口を開いた。
「お疲れさまです、久住さん。」
渉の眉が僅かに動く。
「……久住さん?」
「ええ。これからはそう呼ぶべきかなって。」
裕奈は淡々とした声で続ける。
「もう、担当マネージャーとタレントの関係じゃなくなるんだもの。」
「……それは本当に、君の意思なのか?」
渉の言葉に、裕奈の指先が僅かに震えた。
だが、それを悟られないように拳を握り、努めて冷静な態度を崩さない。
「そうよ。松永さんから聞いたでしょう?」
「……聞いたよ。でも、俺には納得できない。」
渉は一歩、彼女に近づいた。
「裕奈、君はずっと努力してきた。俺はその姿を一番近くで見てきたつもりだ。なのに、どうして突然俺を――」
「“突然”じゃないわ。」裕奈は渉の言葉を遮る。
「ずっと考えてたの。私はもう、一人でやれるって。」
渉は彼女を見つめたまま、拳を握りしめた。
「もう一度聞く。それが、本当に君の本心なのか?」
裕奈は一瞬、言葉に詰まる。しかし、すぐに小さく息を吐き、作り笑いを浮かべた。
「本心よ。久住さんがいなくても、私は大丈夫。」
「裕奈……」
「だから、もう紗良ちゃんのことだけを考えて。彼女には、あなたが必要でしょう?」
その言葉には、確かに優しさが滲んでいた。だが、それと同時に、何かを押し殺すような痛みも感じられた。
渉はまだ何か言いたげだったが、裕奈の固く結ばれた唇を見て、それ以上踏み込むことを躊躇した。
「……分かった。」
それだけを言い残し、渉は彼女をじっと見つめたまま立ち尽くした。
裕奈はもう一度だけ無理に笑ってみせると、静かに背を向けて歩き出す。
「君は……本当にそれでいいのか?」
裕奈の背中に渉が絞り出すように問いかけた。
裕奈は彼の視線を避けるように、わずかに後ろへ下がった。
「これが一番いいの。久住さんも、私も。」
渉は彼女の瞳の中に、どこか揺らめくものを感じた。
それが迷いなのか、何かを隠しているのか分からなかったが、これ以上追及することはできなかった。
廊下に一人残された渉は、自分の胸の中に言いようのない空虚さを感じた。
☆
裕奈は廊下を歩きながら、目の奥が熱くなるのを感じていた。
「これでよかったんだ。これで――」
自分にそう言い聞かせるが、胸の中では強い後悔と喪失感が膨らんでいく。
「渉は、紗良ちゃんのために動いてる。私のためじゃない。」
そう思い込むことで、彼への想いを断ち切ろうとしていた。
けれど、それが嘘であることは自分が一番分かっている。
「これで、私はもっと強くなれるはず……一人で輝けるはず。」
だが、心の奥底では、自分をそうやって無理に納得させようとする行為が、ますます自分を追い詰めていることに気づいていた。
裕奈はそっと瞼を閉じ、渉の言葉や表情を思い返しながら、涙を零さないよう必死でこらえていた。




