絡み合う感情編7(決意)
裕奈と渉が久しぶりに顔を合わせたのは、あるスタジオでの打ち合わせの場だった。
共通の案件だったが、渉が紗良の担当になってから、二人が直接会う機会は徐々に減り、今ではほとんどなくなっていた。
控室に入ってきた裕奈は、渉を見つけると一瞬だけ表情を柔らかくしたものの、すぐに冷静な態度に切り替えた。渉も少しぎこちなく会釈を返す。
「久しぶり。」裕奈が口を開いた。
「最近、紗良ちゃんとすごく上手くやってるみたいだね。」
その声は一見穏やかだったが、その裏に潜む棘のようなものを渉は敏感に感じ取った。
「えっと……まあ、紗良さんもすごく頑張ってるから。」
渉は視線を泳がせながら答えた。
「そっか。」裕奈は短く返すと、少し目を伏せた。
「渉がいるから、紗良ちゃんも安心してるんだろうね。最近は彼女も評判いいみたいだし。」
渉は裕奈の言葉に戸惑いを覚えた。
裕奈の声にはどこか寂しさと疑念が混じっているように感じたからだ。
「裕奈、それは……」渉は言葉を選びながら続けた。
「俺は、裕奈のためにもっと成長したくて……そのために、他の仕事も全力でやろうと思っただけなんだ。」
しかし、その言葉は裕奈の心に届かないようだった。
「成長ね。」
裕奈は小さく笑ったが、その笑顔にはどこか悲しみが滲んでいた。
「渉にとっての“成長”って、私から離れることなの?」
「違うよ!」渉は慌てて否定した。
「俺は……裕奈をもっと支えられる存在になりたいだけなんだ。だから……」
「だから紗良ちゃんを支えてるの?」
その問いに、渉は言葉を詰まらせた。
裕奈の視線は冷静を装っていたが、その奥には、渉が知らない深い不安が揺れているように見えた。
「裕奈、俺は……」
だが、渉の言葉は最後まで紡がれることなく、スタッフが控室に入ってきたことで会話は中断された。
二人はそれぞれ違う方向を向いたまま、仕事に戻っていった。
その場に漂った微妙な空気は、二人の間に確かな溝ができたことを示していた。
裕奈はスタジオを出た後、遼からメッセージが届いているのを見つけた。
何気ない励ましの言葉だったが、それが不思議と彼女の胸を少しだけ軽くした。
一方の渉は、自分の不器用さを呪うように握りしめた拳を見つめながら、裕奈の背中が遠ざかっていく感覚に胸が締め付けられていた。
☆
紗良は控室のソファに座りながら、台本を手にしている遼をちらりと見た。
撮影の合間、短い休憩時間だったが、遼は集中して台詞を確認している様子だった。
(噂で聞いていたのと全然違う。遊び人だなんて、どこが……。)
紗良は以前から遼について、共演者との噂が絶えない人物だという話を聞いていた。
「共演者キラー」と呼ばれている事も知っていた。
だが、今日までの撮影で感じた彼の姿勢は、そんな話とは正反対だった。真剣で、一切の隙がない。
気づけば、紗良はぽつりと声を漏らしていた。
「……噂とは違うんですね。」
遼が台本から顔を上げる。
「噂?」
「いえ……その、もっと軽い感じの人なのかと勝手に思ってて。すみません。でも、すごく真剣にお芝居と向き合ってるんですね。」
紗良が少し慌てて言葉を足すと、遼は苦笑しながら肩をすくめた。
「まあ、あんまり良い評判じゃなかっただろうね。でも、今はそう思われても仕方ないって思ってる。」
「仕方ない、ですか?」
「少し前の俺がそういうふうに見られるような振る舞いをしてたから。でも、変わりたいって思ってる。今は……本気で好きになった人ができて、それどころじゃなくなったんだよ。」
その言葉に紗良は少し驚いた。本気で好きになった人――遼の冗談交じりの笑顔とは裏腹に、どこか真剣な響きがあった。
「そうだったんですね。遼さんにも、そういう人が……。」
「紗良ちゃんはどうなんだ?誰か特別な人、いるんじゃないか?」
不意の問いかけに、紗良の心臓が跳ねた。
渉の顔が自然と浮かぶ。彼と過ごす日々、彼の言葉、そして支えられる安心感――それが今の自分を作っていると感じていた。
「……はい。私も、本気で好きになった人がいます。」
そう言う紗良の表情は少し照れたようだったが、嘘偽りのない想いが込められていた。
遼は彼女をじっと見つめた後、ふっと笑った。
「そっか。名前を聞くのは野暮だよな。」
「ええ、お互い様ですね。」
二人はどちらも相手が誰を指しているかを尋ねなかった。
それでも、なんとなくお互いの胸の内を察することができた。
遼は立ち上がり、軽く肩を伸ばしながら紗良に言った。
「まあ、どっちにしても俺たちにはやることがある。大切な人のために、全力で頑張らないとな。」
その言葉に紗良も微笑みながら頷いた。
「はい。私も頑張ります。」
控室に静かな空気が流れる中、二人の心にはそれぞれの決意が固く刻まれていた。
☆
撮影が終わり、控室でメイクを落としていた裕奈のもとに、遼が軽い足取りで入ってきた。
撮影中は役になりきっていた彼も、今はリラックスした笑顔を見せている。
「裕奈さん、今日もお疲れ様。」遼が軽く手を振りながら声をかけた。
「ありがとう。遼さんもお疲れ様でした。」
裕奈は鏡越しに微笑み返したが、その目には少し疲労の色が浮かんでいた。
遼は控えめに近づくと、ふと真剣な表情になり口を開いた。
「裕奈さん、少しだけ話せる?」
そのトーンに驚きつつも、裕奈は頷いた。
「ええ、大丈夫よ。何かあった?」
遼は隣の椅子に腰を下ろし、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「君って、本当にすごい人だよね。一人であんなに輝いて、現場の空気も変えちゃう。でも……時々思うんだ。」
裕奈は首を傾げた。「何を?」
「君は一人で背負い込みすぎてるんじゃないかって。」
遼の言葉は静かだったが、その奥に強い意志が感じられた。
「君は一人で輝ける人だ。それは間違いない。でも、もし君がもっと楽になれる相手が必要なら……俺はその役割を担いたいと思ってる。」
裕奈は言葉を失った。遼の言葉は彼女の胸にすっと入り込んでくるようだった。それが優しさゆえのものだと理解しつつも、どこか心を揺さぶられる自分に戸惑った。
「遼さん……」
裕奈はかすれた声で彼の名前を呼んだ。しかし、それ以上言葉が続かなかった。
遼は柔らかく笑った。「無理に答えを出さなくていい。ただ、そう思ってるってことを伝えたかっただけだから。」
彼の優しさが胸に沁みた瞬間、裕奈の頭に浮かんだのは渉の姿だった。
自分を長い間支え続けてくれた彼。その存在の大きさを思い出すと、遼の言葉にすぐには応えられない自分がいた。
「ありがとう、遼さん。」
裕奈は小さく息を吐きながら答えた。
「でも、今は何て言ったらいいのか……分からない。」
「分かったよ。」遼は少しだけ寂しそうに笑ったが、それ以上追及することはなかった。
「いつでも頼ってくれていいから。」
遼が控室を出た後、裕奈は鏡に映る自分をじっと見つめた。
遼の言葉は優しく温かかった。それなのに、自分の中で満たされない部分が消えなかった。
「もっと輝かなくちゃ……」裕奈は無意識にそう呟いていた。
その瞬間、彼女の中で一つの決意が芽生えた。
それは、渉を想い続ける心を無理に封じ込め、自分一人でさらに輝くべきだという思いだった。
けれど、その決意の裏には、孤独と不安が密かに広がり始めていた。
これから物語が動いていきます。




