絡み合う感情編6(裕奈と紗良)
渉は、マネージャーとして、紗良のスケジュール管理や移動の手配をこなすだけでなく、彼女のパフォーマンスを向上させるために細かい分析を行うようになった。
入社当初からつけていた小さなノートには、仕事を通じて気づいたことや改善策、気になる課題がぎっしりと記録されている。
それが、今形を結びつつある。
たとえば、歌番組のリハーサル後には、紗良に「ここの音程をもう少し安定させると、もっと聴き手に響くと思う」と具体的なアドバイスを伝える。
その指摘が的確なだけでなく、どう改善すればいいかの方法まで提案されていたため、紗良も「この人に言われたなら」と素直に受け入れ、実践するようになった。
結果として、紗良の歌唱やダンスのパフォーマンスは目に見えて向上し、スタッフからも称賛されるようになった。
また、渉は現場全体の空気にも目を配っていた。
撮影の合間に共演者が疲れている様子を察すると、気軽に声をかけたり、休憩時間の調整を提案したりする。
機材スタッフが作業に手間取っているのを見ると、さりげなく手を貸しながら効率的な方法を一緒に模索した。
その結果、現場のスタッフや共演者たちも次第に渉を頼るようになり、彼のアドバイスや行動に感謝の言葉を口にする機会が増えていった。
「久住さんがいてくれると、本当に助かります。」
「細かいところまで見てくれるから、安心して仕事ができますね。」
紗良もまた、渉の支えによって得た成果を誇りに思うようになっていた。
リハーサル後の振り返りで褒められると、紗良は嬉しそうに言う。
「渉さんのおかげです。私、まだまだ伸びられる気がします。」
渉自身は、自分の働きが評価されていることに気づきながらも、それを喜ぶ余裕はあまり持てなかった。
心のどこかで、「これが本当に自分の進むべき道なのか」と迷いが燻っていたからだ。
しかし、周囲の人々に対して少しでもプラスになれるという実感が、彼に確かな手応えを与えていた。
彼の中に眠る力は、紗良をはじめ、現場のすべての人たちの中で少しずつ、しかし確実に花開き始めていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
住吉が新たに裕奈のマネージャーとして加わり、千鶴はその手腕に感心していた。
スケジュールの管理はこれまで以上に効率的で、現場でのトラブル対応も迅速だった。
これにより、裕奈の多忙なスケジュールもスムーズに回り、表面上は順調そのものに見える。
裕奈自身もプロとしての自覚を持ち、現場では常に最高のパフォーマンスを発揮していた。
インタビューや撮影でも笑顔を絶やさず、関係者からの評判も相変わらず良好だった。
しかし、千鶴は母親として、そして長年裕奈を支えてきた存在として、その裏にある微妙な違和感を感じ取っていた。
裕奈の笑顔にはどこか無理があり、以前のような力強さや自然な輝きが薄れているように思えた。
小さな仕草や休憩中の物静かな様子が、彼女の心に何か重いものがのしかかっていることを物語っていた。
千鶴はある日、撮影の合間に裕奈を見つめながら考えた。
「住吉さんが来てから全てが効率的になったけれど、何かが違う。あの子の目には、以前のような強い輝きがない。何かを見失っているような気がする。」
裕奈は、芸能界での成功のために全てを犠牲にしてきた。
その選択が間違っていたとは思わない。
しかし、渉が裕奈のそばを離れたことで、何か大切なものを失ってしまったのではないかという思いが、千鶴の心をかすめた。
千鶴は裕奈が仕事を終えた後、さりげなく尋ねてみた。
「最近、疲れてるんじゃない?」
裕奈は笑顔を作って首を振った。
「全然平気だよ。お母さんが心配しすぎ。」
その言葉に、千鶴はそれ以上踏み込めなかった。
だが、母親の直感が告げていた。裕奈は何かに悩み、何かを抑え込もうとしているのだ、と。
「このままじゃ駄目かもしれない。あの子が本当に輝きを取り戻すためにはどうすれば……」
千鶴は、一人でその答えを模索し始めた。
裕奈がもう一度、心からの笑顔を取り戻せる日を願いながら。
⭐︎⭐︎⭐︎
その日、千鶴は、自宅の書斎で裕奈のスケジュール帳を見返していたとき、不意に過去の記憶が蘇った。あの日のことを、鮮明に思い出していた。
まだ裕奈が小学生だった頃のことだ。
いつものように学校から帰ってきた裕奈が、渉と一緒に遊びながら帰ってきたのを窓越しに見た。
その日の夕食後、裕奈が突然真剣な顔で千鶴の前に立ち、こう言った。
「お母さん、私、芸能人になりたい。」
驚いた千鶴は思わず聞き返した。
「どうして急にそんなことを言うの?」
裕奈は少し恥ずかしそうに目を伏せながらも、力強い口調で答えた。
「渉がね、私のこと『可愛い』って言ってくれたの。『裕奈は芸能人とかになるのかもな』って。だから、私も輝いて人を笑顔にする仕事がしたいの。」
その瞬間の裕奈の表情は、幼いながらも真剣そのもので、千鶴の記憶に深く刻まれていた。
普段はどちらかというと控えめだった裕奈が、初めて自分の意思をはっきりと伝えた瞬間だった。
「お母さん、私、みんなに自慢できるくらいすごい人になりたいの。」
千鶴はその言葉に少し戸惑いながらも、娘の決意を感じた。
そして、最初は反対したが、その夢を叶えるために、千鶴自身も全力を尽くす覚悟を決めたのだ。
現在、国民的女優となり、多くの人々を笑顔にする存在になった裕奈。
しかし、千鶴はその時の「輝きたい」という言葉の本質が、もしかしたら裕奈自身ではなく、渉の存在によって形作られたものだったのではないかと思い始めた。
窓の外を見ながら、千鶴はため息をついた。
「裕奈、あなたは自分が何を望んでいるのか、本当に分かっているの?」
その答えを導けるのは自分ではない。そう確信する一方で、千鶴は静かに祈った。
裕奈が、本当に自分自身の輝きを取り戻せる日が来ることを。
⭐︎⭐︎⭐︎
そんなある日、裕奈と紗良が偶然同じ撮影現場に居合わせることがあった。
渉は別の用事で不在であり、スタッフたちが撮影準備を進める中、裕奈と紗良は控室で二人きりになった。
「紗良ちゃん、最近すごく調子いいわね。」
裕奈が何気なく声をかけると、紗良は笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます! 私もそう思います。すごく充実していて……渉さんのおかげですね。」
「……え?」
裕奈の表情が一瞬固まる。
(今、何て言った?)
「渉さん」――それは、紗良が今まで使っていた「久住さん」ではなかった。
まるで自然に呼び慣れたかのように、当たり前のように「渉さん」と口にした紗良。
その響きが裕奈の胸に妙な引っかかりを残す。
(いつの間に、そんな呼び方になったの……?)
裕奈は無意識に手をぎゅっと握りしめる。
「……紗良ちゃん、いつから『渉さん』って呼ぶようになったの?」
「え?」
紗良は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「ああ」と納得したように頷いた。
「最近です。なんか『久住さん』って他人行儀な感じがして……私、もっと渉さんとちゃんと向き合いたいって思ったんです。」
(向き合いたい……?)
その言葉の意味を深く考えるのが怖かった。
「だから私からお願いしたんです。そしたら、渉さんも最初はちょっと戸惑ってたけど、『紗良さん』で妥協してくれて。」
紗良はくすっと笑う。
その笑顔を見た瞬間、裕奈の中にずっと押し殺していた感情が、はっきりと形を持ち始める。
(紗良ちゃんが渉に……?)
彼女の話し方、表情、そして渉の名前を呼ぶときの声音――それらがすべて、紗良の気持ちを物語っていた。
「ええ。本当に素敵なんですよ。私が不安なときはいつも励ましてくれるし、演技についても具体的にアドバイスしてくれるんです。」
紗良の瞳は輝き、まるで渉のことを話すたびにさらに生き生きとした表情になるのが分かった。
「それに、私が熱を出して倒れたときも、最後までそばにいてくれたんです。病院にも付き添ってくれて、家にまで送ってくれて……本当に助かりました。」
紗良の頬がうっすらと赤らんでいるのは、まだ熱が完全に下がっていないせいなのか、それとも――。
裕奈は、言葉を返せなかった。
(……渉が、そんなことを……。)
想像してしまう。
熱にうなされる紗良のそばで、渉が優しく声をかけ、気遣っていた光景を。
家に送る途中、タクシーの中で、静かに紗良の様子を見守っていた姿を。
(私には、もうそんなふうにしてくれないのに。)
渉と裕奈の距離は、今や以前のように近くはない。
あの頃のように、気軽に冗談を言い合ったり、くだらない話で笑ったりすることもなくなった。
渉はもう、裕奈のそばにはいない。
でも、紗良のそばにはいる。
その事実が、裕奈の胸を刺した。
「……そっか。良かったね、紗良ちゃん。」
かろうじて微笑みながら、そう返すのが精一杯だった。
紗良が渉に向ける視線と声のトーンから、彼女の気持ちは明らかだった。
これはただの感謝ではない。紗良は渉に恋をしている――そう悟った瞬間、裕奈はどうしようもない焦燥感に襲われた。
(紗良ちゃんが渉に……? そんなの……)
心の中で否定しようとするも、紗良の輝く表情がその感情を裏付けるようで、余計に不安が募る。
裕奈は視線を逸らしながら、ぎこちない笑みを浮かべた。
「そう……久住さん、そんなに頼りになるんだ。」
紗良は頷きながら続ける。
「はい。渉さんがいなかったら、今の私はきっといません。本当に感謝してるんです。」
裕奈は言葉を失い、心の中で渉の存在が自分にとってどれほど大きいのかを改めて痛感する。
(私は……渉がいなきゃダメだって分かってたのに。それなのに、どうしてこんなに焦るの……?)
その日、裕奈は自分でも整理しきれない複雑な感情を抱えながら撮影を続けた。
紗良の渉への想いを知ったことで、裕奈の心には焦りと不安、そして渉を失いたくないという強い願いが渦巻いていた。
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