絡み合う感情編1(変化する関係)
渉が紗良の担当となって間もない頃。
その日は小さなライブイベントの仕事が終わり、紗良は楽屋で衣装を脱ぎ、控えめな笑顔を見せながら鏡に向かっていた。
渉は資料を整理しながら、ちらりと彼女を見て声をかける。
「今日もお疲れさま、相沢さん。ライブ、すごく良かったですよ。」
紗良は振り向いて、控えめに笑いながら頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、まだまだですよ。お客さんの反応とか、もっと引き出せたら良かったんですけど……。」
渉は手を止め、軽く首を傾げる。
「いやいや、そんなことないです。ダンスも歌も完璧でしたし、お客さんもみんな楽しそうでしたよ。」
紗良は小さく笑ったが、その瞳にはどこか焦りの色が見えた。
「そう言っていただけるのはありがたいんですけど……」
紗良は鏡越しに自分を見つめながら続けた。
「私、まだグループ名みたいに輝けてないんです。『Brillar』って、スペイン語で『輝く』って意味なんですよ。私はその名前に恥じないくらい、ステージの上で輝ける存在になりたいんです。でも、今の私は、ただの『そこそこ頑張ってる子』でしかない気がして……。」
その言葉に、渉の胸が軽くざわついた。
彼女の控えめな笑顔と、真剣な瞳のギャップが強く印象に残った。
「相沢さん……」
渉は一瞬言葉を選びかけたが、静かに言葉を紡いだ。
「でも、輝きっていうのは、一瞬で手に入るものじゃないと思います。今のあなたは、確実にその一歩を進んでる。今日のステージを見て、そう思いましたよ。」
紗良は少しだけ驚いたように渉を見つめ、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……そうだといいんですけど。」
その言葉に込められた決意を聞いて、渉は彼女の背中にどこか自分自身の姿を重ねた。
「無理は禁物ですよ。頑張るのは大事ですけど、自分を追い込みすぎないようにしてください。」
紗良は、渉の優しい言葉に少しだけ安心したように微笑んだ。
「はい。でも、大丈夫です。私、もっともっと輝いてみせますから。」
その言葉を聞いた渉の胸の奥で、小さな感覚がかすかに動いた。
しかし、その正体を深く考える間もなく、楽屋の外からスタッフが次の仕事の準備を知らせに来た。
紗良を見送りながら、渉はふと「輝く」という言葉が引っかかっている自分に気づいた。
それがどういう意味を持つのか、自分でもまだ分からないまま、彼は思考を切り替え、次の仕事に集中しようとした。
☆
裕奈のスケジュールの合間に渉が現れるのは、紗良の担当となってから初めてのことだった。
控え室に入ってきた渉を見た瞬間、裕奈の胸の奥で何かがざわめく。
(……渉だ。)
思わずそう心の中で呼んでしまったが、すぐに意識し直す。
ここにはマネージャーやスタッフもいる。だから――
「久しぶりだね、久住くん。」
名前を口にした瞬間、自分の声が少し硬くなった気がした。
渉も一瞬、微かに表情を動かしたが、すぐにいつものように軽く頭を下げる。
「お久しぶりです、裕奈さん。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします。」
その言葉を聞いた瞬間、裕奈の心に小さな違和感が広がった。
(短い時間……?)
以前、渉がそんな言葉を使ったことはなかった。
彼が自分のそばにいるのは「当然」だったのに、今はまるで「たまたま来た」かのような言い方をする。
渉が持参した資料を机の上に置き、スケジュールや今後の案件について説明を始める。
けれど、裕奈はその声が遠く聞こえる。
(どうして……こんなに遠く感じるの?)
そう思いながらも、何も言えない。ただ、喉の奥に引っかかったものを隠すように、努めて明るい声を作った。
「紗良ちゃん、どう? 大変じゃない?」
本当は「渉は今、楽しい?」と聞きたかった。
でも、それを口にするのはあまりにも子供っぽい気がして、言葉を飲み込む。
渉は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに落ち着いた声で答える。
「相沢さんも一生懸命頑張っていて、やりがいがあります。」
その言葉を聞いた瞬間、裕奈の胸にかすかな痛みが走った。
「そっか……ならよかった。」
笑顔を浮かべたつもりだった。
でも、その笑顔はどこか力なく、最後の言葉は少しだけ震えていた。
渉はそれに気づいたかもしれない。
けれど、何も言わずに時計を確認し、席を立つ。
「そろそろ次の打ち合わせに行かないといけないので……また後で。」
「あ……うん。」
渉が去るその瞬間、裕奈は思わず引き止めたくなった。でも、言葉が出ない。
(何で……。何でこんな風になっちゃったの?)
彼を「渉」と呼べないこの距離が、今まで以上に苦しく感じる。
渉が去った後、裕奈は一人残された部屋で、彼の背中が見えなくなるまでドアを見つめていた。
胸の奥に広がる不安と寂しさを振り払うように、大きく息を吐く。
「仕事に集中しないと……。」
そう自分に言い聞かせるが、渉と交わした視線が何度も頭の中でよみがえるのだった。
☆
渉が控え室を出た瞬間、深く息をついた。
廊下を歩きながら、視線は前に向けていたが、頭の中は裕奈とのやり取りが渦巻いていた。
あのかすかな笑顔、震えた声。それらが何度も胸を刺す。
(……何でこんなにギクシャクするんだろうな。)
専属担当を外される前はもっと気軽に話せた。
どんな時でも裕奈の隣にいるのが自然だった。でも今は――
(今の俺じゃ、裕奈を支えられない。)
紗良の担当になったのは、もっと成長するためだ。
裕奈の隣に立つ資格を得るために。
けれど、彼女と向き合うたび、自分の未熟さを突きつけられるようで、自然と距離を取ってしまう。
(裕奈の隣にいるには、俺はまだ足りない。中途半端なままじゃ、彼女の支えにはなれない。)
そう思うことで、自分を納得させてきた。
けれど先ほどの裕奈の笑顔――どこか無理をしているように見えた表情が頭から離れない。
(あの笑顔……俺のせいなんだろうか。)
ふいに立ち止まり、振り返りそうになる衝動に駆られる。
(戻って何を言う?大丈夫かって聞くのか?それとも、何でもない顔をしていつものように話しかけるのか?)
しかし、渉はその場で足を止めるだけで、振り返ることはできなかった。
(ーー今の俺じゃ、まだ裕奈を守れる人間にはなれていない。)
自分に言い聞かせるように一つ息を吐くと、再び歩き出す。
その背中はまっすぐだったが、心の奥に残った裕奈の影が、渉の胸を鈍く締めつけ続けていた。




