マネージャー補佐編8(千鶴の懸念)
渉とのキスシーンの練習から数日後。
裕奈は撮影現場に立っていた。相変わらず大勢のスタッフに囲まれ、監督や共演者たちの視線を感じるたびに少し緊張する。
けれど、不思議と以前ほどの重圧は感じていなかった。
「高宮さん、次のシーンは澤村さんと並んで歩くシーンです。表情は穏やかに、自然な会話をしながら進むイメージでお願いします。」
監督の声が響き、裕奈は頷く。
隣には共演者の遼が立っていた。
背が高く、端正な顔立ちの彼。
以前の裕奈なら、特に男性には壁を作っていたかもしれない。
でも、今は少し違う。
(渉のおかげだな……)
彼の真剣な眼差し、支えてくれる温かさ。
それが、自分の世界を少しずつ広げてくれている気がした。
「高宮さん、よろしくね。」
遼がにこっと笑いながら声をかける。
以前なら、その笑顔にどう反応すればいいのか分からなかった。
でも、今は少しぎこちなくも微笑み返せる。
「こちらこそ、お願いします。」
遼はちょっと驚いた顔をした後、楽しそうに笑った。
「お、なんか今日は雰囲気違うね。高宮さん、ちょっと柔らかくなった?」
「え……そうですか?」
裕奈は戸惑いつつも、どこか嬉しかった。
「うん。前より話しかけやすいっていうか、なんかいい感じ。」
言葉に詰まりつつも、裕奈は少し考えてから口を開く。
「……頑張ってるんです。私、今までこういう現場で緊張してばかりだったから。」
遼はうんうんと頷きながら言った。
「わかるわかる。俺も最初はマジでダメだったもん。監督にめちゃくちゃ怒られたし。」
「そうなんですか?」
裕奈が意外そうな顔をすると、遼は苦笑いを浮かべた。
「そうそう。セリフ飛ばして怒鳴られたり、感情が乗ってないってダメ出しされたり。あの時は、ほんと辞めようかと思ったんだよね。」
「……澤村さんでも?」
「もちろん。完璧なやつなんていないって。でもさ、続けてたら少しずつ慣れてくるんだよね。」
「……それは、澤村さんが頑張ったからですよ。」
「いやいや、高宮さんだってすごいって。前よりずっといい表情してるし、絶対成長してるよ。」
裕奈は少し驚いたように遼を見た。
彼の言葉は軽い調子だったけれど、どこか真剣だった。
「……ありがとうございます。」
裕奈がそう返すと、遼はニッと笑って親指を立てた。
そのとき、監督の声が響く。
「じゃあ、二人とも位置について!」
撮影が始まり、並んで歩きながら自然な会話を交わす。
以前の裕奈なら、緊張で固まってしまっていたかもしれない。
でも、今は違う。
カットの声がかかり、監督が満足そうに頷いた。
「高宮さん、いい表情だったよ。二人のやりとりも自然でいい感じだ。」
スタッフの拍手が上がる中、裕奈は少し誇らしげな気持ちでその場を後にする。
渉の支えがあったからこそ、この瞬間を迎えられた。
それを実感しながら、裕奈はそっと胸に手を当てた。
(渉……私、ちゃんと変わってるよね。)
小さな変化かもしれない。
でも、それは確実に彼女の中に芽生えていた。
⭐︎
一週間後、千鶴は所属事務所の会議室で渉の報告書を手にしていた。
その視線は鋭く、書類の中の些細な記録も見逃すまいとしているようだった。
(裕奈があそこまで自然体で演技できたのは、久住くんがいるからこそ……だけど、それが問題なのよね。)
裕奈の輝きを支える渉の存在は確かに貴重だった。
しかし、ここ最近の様子から、千鶴は二人の間に芽生えつつある特別な感情に気づき始めていた。
それは、単なるマネージャーとしての関係を超えたもののように思えた。
(裕奈にとって恋愛感情は致命的なリスクになる。久住くんもまだ経験が浅い以上、このまま任せるわけにはいかない。)
千鶴はペンを置くと、机に並べられた資料に目を向けた。
そこには、事務所内で次の主担当候補として名前が挙がっている住吉のプロフィールが置かれている。
彼女は経験豊富でクライアントからの評判も高い、いわば安全牌だった。
(住吉さんなら、裕奈をしっかり管理してくれるだろう。渉はまだ補佐としての役割を果たしてもらう方がいい。)
千鶴は意を決して立ち上がり、松永社長の執務室へ向かった。
執務室に入ると、松永社長はデスクで資料に目を通していた。千鶴が入室すると、彼女に視線を向ける。
「どうした、千鶴。何か問題でもあるのか?」
「少し気になることがありまして、裕奈のマネージャー担当についてご相談に来ました。」
松永社長は椅子にもたれかかり、千鶴に促した。
「話してみろ。」
千鶴は一瞬躊躇したが、率直に切り出した。
「裕奈と久住くんの距離が最近少し近すぎるように感じます。もちろん、久住くんの頑張りには目を見張るものがありますし、裕奈の演技が向上しているのも彼の影響が大きいです。ただ……彼らの関係性が仕事に支障をきたす可能性があります。」
松永社長は少し驚いたように眉を上げた。
「支障、とは?」
「裕奈は今や事務所の看板女優です。もし彼女にプライベートなスキャンダルが起きれば、我々の損失は計り知れません。それを防ぐためにも、久住くんを主担当から外し、住吉さんを主担当にするべきだと考えています。」
松永社長は少しの間沈黙した。デスクに肘をつき、考え込むように顎を手で支える。
「なるほど、千鶴の懸念も理解できる。ただ、久住を急に外すのは裕奈に悪影響を与えることにならないか?」
「ですから、久住くんには裕奈の補佐として引き続きサポートしてもらいつつ、同時に相沢さんの担当を兼任してもらうのはどうでしょうか。相沢さんは裕奈ほどの大規模な仕事を抱えているわけではありませんから、久住君の経験値を積むにはちょうどいいと思います。」
松永社長はしばらく考えた後、うなずいた。
「確かに、紗良は久住にとって良い訓練になるかもしれないな。だが、裕奈の仕事を完全に住吉に任せる前に、裕奈本人の意向も確認するべきだろう。」
「承知しました。その点は私から裕奈に“慎重に“話を進めます。」
松永は一瞬沙織の事が頭をよぎった。
千鶴の言葉には、どこか別の意図が隠されている様に見えた。
しかし、千鶴の提案は事務所全体のバランスを考えたものであり、松永も最終的には承諾した。




