マネージャー補佐編6(キス)
数日後、セットの中でリハーサルが行われていた。
「ここ、俺がもう少し近づいたほうがいいかな?」
澤村遼が裕奈の肩越しに監督へと問いかける。
次のシーンでは、彼が裕奈の手を取る場面がある。
「そうだな。恋人同士の距離感だから、もう少し踏み込んでいい。」
監督の指示を受け、澤村は軽く頷いた後、裕奈へ向き直った。
「じゃあ、ちょっと試してみようか。」
そう言って手を差し出すが、裕奈はほんのわずかに躊躇した。
その一瞬の間を、渉は見逃さなかった。
(……やっぱり、まだ男性と触れるのは苦手なんじゃないか?)
もちろん、仕事の一環だ。
裕奈も意識していないわけではないはず。
「……はい。」
裕奈は表情を変えず、澤村の手を取る。
澤村は柔らかく微笑んだまま、自然に裕奈の手を握った。
「うん、いい感じじゃない?」
周囲のスタッフも「雰囲気が出てる」と感心した様子だった。
だが、渉の視線は裕奈の指先に留まっていた。
強くはないが、ほんの少しだけ力が入っているように見える。
(やっぱり、無理してる……?)
リハーサルが終わると、裕奈はすぐに手を離した。
「ありがとう、澤村さん。少しずつ感覚を掴んでいきますね。」
「うん、無理しないでね。」
澤村は優しく微笑んでいたが、その目にはどこか探るような色があった。
そして、その視線を感じ取ったのか、裕奈の笑顔もほんの少しだけ硬くなっていた。
渉はその様子を見ながら、胸の奥にわだかまるものを感じていた。
そして、とうとうキスシーンの撮影を翌日に控えることになった。
︎⭐︎
夜、撮影が終わり、事務所の控室に戻った裕奈と渉。
渉は次の日のスケジュールを確認しながら、ノートに細かくメモを取っていた。
一方、裕奈はソファに座り、明日の撮影シーンが書かれた台本をじっと見つめていた。
「渉。」
不意に名前を呼ばれた渉が顔を上げると、裕奈は少し頬を赤らめながら立ち上がった。
「ん?どうしたの?」
「……ちょっとお願いがあるんだけど。」
「お願い?」
裕奈は視線を台本に落とし、渉に見せるように持ち上げた。
「……明日、キスシーンがあるの。」
その一言に、渉の手が止まった。
「キスシーン……」
「うん。それでね……練習したいんだけど、どうやったらいいか分からなくて。」
裕奈は渉の目をじっと見つめる。
「その……私、こういうシーン初めてだし、澤村さんとちゃんとできるか不安で……渉、ちょっとだけ相手してくれない?」
その言葉に渉は言葉を失った。
「えっ、いや、でもそれは……俺が相手って……さすがに。」
動揺する渉に、裕奈は一歩近づいた。
「だめかな?渉なら大丈夫だと思うんだけど……私も落ち着くし。」
裕奈の純粋な瞳に、渉はさらに困惑した。
「……いや、それは違うんじゃないか?本番は澤村さんとやるんだし、俺が練習相手になっても……」
「それでもいいの。渉がいてくれるだけで、なんだか安心するの。」
裕奈のその一言が渉の胸を強く締めつけた。
「……でも、俺、そんなの適任じゃないよ。」
「渉じゃなきゃ嫌なの。」
その瞬間、裕奈の言葉が部屋の空気を変えた。
無意識のうちに本音を漏らした裕奈は、自分の言葉の重みを感じ取り、思わず視線を逸らす。
「……無理ならいいよ。ごめんね、変なこと言って。」
裕奈はそのままそそくさと台本を閉じて去って行ったが、渉は言葉が出ないまま立ち尽くしていた。
(俺じゃなきゃ嫌……?)
裕奈の言葉が渉の頭の中をぐるぐると巡り、彼の胸に微かな痛みと温かさを残していた。
⭐︎
撮影所は朝から慌ただしい空気に包まれていた。
今日のクライマックスであるキスシーンを控え、現場のスタッフや共演者たちが入念に準備を進めている。
一方、控え室では裕奈が台本を膝の上に置き、じっとそのページを見つめていた。
いつもの自信に満ちた彼女の姿はそこにはなく、小さな手が微かに震えているのを、隣に座る渉は見逃さなかった。
「裕奈、大丈夫?」
渉が静かに声をかけると、裕奈は少し驚いたように顔を上げた。
「うん……大丈夫、だと思う。でも……やっぱり緊張する。」
裕奈の声には不安が滲んでいた。
普段どんな現場でも堂々と振る舞う彼女のこんな姿を見るのは、渉にとっても珍しいことだった。
「キスシーンなんて初めてだし、澤村さんみたいな男の人とちゃんと演技できるか……怖い。」
裕奈は自分を鼓舞するように、何度も深呼吸を繰り返した。
渉は台本に視線を落としながら、自分の胸に湧き上がる感情と戦っていた。
(なんで俺がこんなにモヤモヤするんだろう。裕奈のことを支えるためにここにいるのに……こんな気持ちになるなんて。)
渉は胸の奥にある小さな痛みを押し殺しながら、彼女の隣で口を開いた。
「裕奈、今までだって難しいシーンを何度も乗り越えてきたんだろ?今回だって絶対うまくいくって。」
励ますつもりだった言葉もどこか空回りしているように感じた。
裕奈は微笑んで頷いたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
ーーコンコン。
控え室の扉がノックされ、スタッフが顔を出した。
「高宮さん、準備できましたか?そろそろお願いします。」
その瞬間、裕奈の体が一瞬固まるのを渉は感じ取った。
「……はい。行きます。」
そう返事をする裕奈の声は、わずかに震えていた。
彼女が立ち上がろうとしたその時、渉は何かに突き動かされるように口を開いた。
「……『俺は、ずっと君を見てきた。』」
裕奈が驚いて振り向く。
渉は台本のキスシーンの台詞を読み上げていた。
「『辛いときも、楽しいときも、全部見てきた。だから、君の気持ちくらい分かってる。』」
彼の声は震えていたが、その言葉には確かな感情が込められていた。
裕奈は目を見開いたまま、立ち尽くしていた。
渉の言葉が、遼のセリフであるはずなのに、まるで渉自身の本音のように聞こえたからだ。
「渉……」
渉が遼のセリフを口にした瞬間、控え室の空気が一変した。
彼の言葉はただの練習台詞ではなく、真っ直ぐな感情が込められているように響いていた。
裕奈は驚いたように渉を見つめたまま、言葉を失っていた。
その瞳には、混乱と戸惑い、そしてほんの少しの期待が浮かんでいた。
「……『だから、俺を信じて。』」
渉の声は静かに続き、言葉が途切れると、二人の間に一瞬の静寂が訪れた。
裕奈は微かに息を呑むと、渉の目を真っ直ぐに見つめた。
「渉……今、キスシーンの台詞だったんだよね?」
「……ああ、そうだよ。」
渉は視線を逸らさずに答えた。
その表情には、何かを決意したような硬さがあった。
裕奈は小さく息を吐いた。そして、意を決したように口を開く。
「……本番で上手くできるか、まだ自信がないの。だから、もう少しだけ練習に付き合ってくれない?」
その言葉に、渉の心臓が大きく跳ねた。
「裕奈、それは……」
言いかけた渉の言葉を遮るように、裕奈は一歩近づき、彼の顔をじっと見上げた。
「渉なら大丈夫だって思う。……お願い。」
渉はその瞳の真剣さに抗うことができなかった。
鼓動が速くなるのを感じながら、渉は小さく頷いた。
二人の距離は自然と近づいていく。
裕奈はそっと目を閉じ、渉もまた、彼女のその姿に引き寄せられるように顔を近づけた。
そして、ほんの数秒後、二人の唇が触れ合った。
それは一瞬の出来事だったが、渉にとっては永遠のように感じられた。
そして、裕奈の頬が赤く染まるのを見て、渉も自分の顔が熱くなるのを感じた。
裕奈は小さく微笑みながら、言葉を紡いだ。
「……ありがとう。これで少しだけ自信がついた気がする。」
渉は何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
ただ、ぎこちなく微笑んで頷くだけだった。
控え室の扉が再びノックされ、スタッフの声が響いた。
「高宮さん、そろそろお願いします!」
「……うん、行くね。」
裕奈は渉に小さく手を振りながら、撮影現場へと向かっていった。
渉は控え室に一人残り、自分の唇に触れながら、裕奈が去っていった扉をじっと見つめていた。
(今の…本当に練習だったのか?いや、それにしては…)
胸の中で揺れる思いを抑えきれず、渉は深く息を吐いた。そして、控え室の窓から外を見ながら、そっと呟いた。
「……これでよかったんだよな。」
その瞬間、どこか心の奥に隠していた何かが、少しだけ揺らいだ気がした。




