マネージャー補佐編4(ドラマのオファー)
裕奈の最近の活躍は目覚ましかった。
渉のサポートも相まって、彼女のパフォーマンスは日に日に向上し、撮影現場でも「裕奈ちゃん、最近すごくいいね」とスタッフや共演者からの評価が聞こえるようになっていた。
演技に一層の深みが生まれ、何よりも彼女自身の輝きが戻ってきたことで、ファンや業界関係者の注目が再び集まり始めていた。
そんな中、裕奈の元に一通のドラマ出演依頼が届いた。
脚本を確認した渉と佐藤が事務所の会議室で待機していると、裕奈と千鶴が入ってきた。
「新しいドラマのオファーが来たみたいだけど、どう?」千鶴が冷静な口調で切り出す。
佐藤は少し表情を硬くして説明を始めた。
「今回のドラマは話題の恋愛作品です。大ヒット中の小説が原作で、注目度も高い。ただ…キスシーンがあります。」
その言葉に裕奈は少し驚いた表情を浮かべた。
「キスシーン…ですか。」
裕奈にとってはこれまでのキャリアで挑戦したことのない要素だった。
清純派のイメージが強い彼女にとって、恋愛ドラマ自体は珍しくないものの、キスシーンとなると話は別だった。
会議が終わった後、裕奈と渉は帰り道で二人きりになった。
「裕奈……その、無理なら断ったほうがいいんじゃないか?」
渉が慎重に切り出す。
裕奈は少し考えるように渉を見た。
「渉がそう思うの?」
渉は答えに詰まった。自分の意見を押し付けるべきではないと感じながらも、裕奈が受けるかどうか迷っているのが伝わってきたからだ。
「いや、俺は……ただ、裕奈のやりたいことを応援したい。でも、こういうのは色々と大変なこともあるだろうから。」
裕奈は視線を落とし、ゆっくりと歩きながら言った。
「……正直、怖いよ。」
渉は思わず裕奈を見つめた。
「男の人とそういうシーンを演じるの、ずっと避けてきた。でも、私、このままじゃダメだって分かってる。お芝居を続けるなら、いつかは向き合わなきゃいけないことだから。」
裕奈の声は静かだったが、その瞳には決意が宿っていた。
渉は胸が締めつけられるような思いで裕奈を見た。
彼女が抱える恐れを知っているからこそ、無理をしてほしくない。
でも、彼女自身が前に進もうとしているのなら、止めるべきではないとも思った。
「……分かった。俺もできる限りのサポートをするよ。」
裕奈は渉の言葉に、少し安心したように微笑んだ。
「ありがとう、渉。」
その声は、小さく、でもどこかほっとしたような響きを持っていた。
これまで多くのドラマや映画に出演してきたものの、こうしたシーンに挑戦したことは一度もない。
裕奈はその後、脚本を何度も読み込むようになり、渉と佐藤に相談を繰り返した。
彼女の決断は、再び彼女が成長し、大きな舞台へと進むきっかけとなる。
渉はそんな裕奈を見守りながら、自分もまた、彼女と共に挑戦を乗り越えていく決意を新たにしたのだった。
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裕奈のキスシーンの話を聞いた渉は、心のどこかで落ち着かない感情を抱えていた。
「裕奈のやりたいことを応援したい」――そう思う気持ちは嘘ではなかった。
けれど、彼女が別の誰かとキスシーンを演じることを想像すると、胸の奥がざわついた。
(俺はただのマネージャー補佐だ。それに、あの怪我のせいで俺は中途半端な存在になった。)
渉は高校時代に負った怪我のせいで、サッカーを諦めた過去を思い出していた。
裕奈がどんどん輝きを増していく中、自分は彼女の背中を追うことしかできない。
(俺なんかが、彼女を支えられるのか?本当に裕奈にとって必要な存在なのか?)
自己肯定感の低さから来る劣等感。
それが渉の心に深い影を落としていた。
彼は頭を振って気持ちを切り替えようとした。
(いや、俺が支えてやらなきゃ。裕奈が頑張ってるのに、俺が迷ってどうするんだ。)
一方、裕奈は自室で渉との会話を思い返していた。
「裕奈のやりたいことを応援する」――渉がそう言ってくれたとき、その誠実な気持ちが伝わってきて嬉しかった。
けれど、彼の表情のどこかに迷いや不安があったのを見逃さなかった。
(渉、どうしてそんなに自分を低く見るの?)
裕奈は幼い頃から渉に救われてきた。
いじめられていたときも、辛い日々が続いたときも、渉がそばにいてくれたからこそ、今の自分がある。
そして渉は、誰よりも真剣に自分を支え続けてくれる。
けれど、それが渉自身を押し潰しているように見えることが、裕奈にはたまらなく苦しかった。
彼にとって、自分はそんなに価値のある人間なのだろうか。
さらに、心の中には別の葛藤もあった。
(私、渉や佐藤さん以外の男性をどこかで怖がっている。)
過去にプロデューサーから受けた恐怖――それ以来、男性全般に対する嫌悪感がずっと消えずに残っている。
それを克服しないまま、今こうして女優として活動していることが、時折自分でも不安になる。
そして、もう一つ。裕奈には越えなければならない壁があった。
(キス……私、まだしたことないのに。)
台本の中のセリフを何度も読み返す。
自分の役がどのような気持ちで相手に触れるのか、それを演じるにはどうすればいいのかを考えようとするたび、胸の奥から湧き上がる緊張感に手が止まった。
(ファーストキスって、もっと特別なものだと思ってた。)
子どもの頃から漠然と抱いていた夢。
いつか大好きな人と、誰よりも幸せな気持ちで迎える瞬間。
だけど今、それが仕事という形で訪れようとしている。
裕奈は心の中で渉の顔を思い浮かべた。
もしも渉が相手だったら、どんな気持ちになるだろう。
台本を手にしながら、ふとそんな想像をしてしまう自分に驚き、慌てて首を振った。
「そんなこと考えてる場合じゃない。」
自分に言い聞かせ、もう一度台本に目を向ける、
(この仕事、やり遂げなきゃ。私のためにも、渉のためにも。)
裕奈は、渉の「応援する」という言葉を思い出していた。
それがどれほど自分を勇気づけたか。
だからこそ、今度は自分が成長した姿を見せたい。
裕奈にとって渉は、唯一無二の「安心できる存在」だった。
そして、その特別な存在に支えられているからこそ、自分がこの世界で踏み出していけるのだということを痛感していた。
だからこそ、このキスシーンのオファーを全力で受け止め、自分を成長させたいと思った。
(渉のためにも、この仕事、頑張らなきゃ。)
裕奈はそう決意し、渉を思いながら脚本をもう一度手に取った。
その文字を追う彼女の目には、少しだけ覚悟の色が宿っていた。
渉は裕奈を支えようと必死で、裕奈は渉に感謝しながらも自分の気持ちに戸惑っている。
二人の想いは少しずつ交わりながらも、まだ「恋」という形には至らない。
だが、裕奈のキスシーンのオファーをきっかけに、二人の関係は新たな展開を迎えようとしていた。




