マネージャー補佐編1(佐藤の回想と小沢の勘)
深夜、佐藤は自宅に帰宅した。
玄関を開けると、家の中はしんと静まり返っている。
リビングの時計が午前1時を回っていた。
妻と愛娘は既に寝ているようで、ソファに置かれた小さな毛布が「おかえりなさい」を言う代わりのようだった。
「ただいま…」
誰に言うともなく呟いた後、佐藤は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと音を立てて開けた。
冷えたビールが喉を通り、身体が少しずつほぐれていく。
ソファに座りながら昔を思い出す。
佐藤は大学を卒業してすぐに、一流企業への就職を果たした。
当時、同期や周囲からは「優秀な人材」と評されていた。
確かに、業務の進め方も速く、成果を上げることには自信があった。
しかし――彼には決定的に欠けているものがあった。それは「人との付き合い」だった。
「結果を出せばそれでいいだろう」
そんな考えが、上司や同僚との間に見えない壁を作っていった。
孤立しても気にすることなく仕事を続けていたが、次第に周囲からの風当たりは強くなり、些細な意見の食い違いが致命的な衝突に繋がった。
結局、佐藤は上司と大喧嘩の末、会社を辞めた。
会社を辞めた後、佐藤はしばらく無職のまま過ごした。気がつけば、家賃を払うだけの生活が続き、気力も体力も削られていく。
そんな中、ある日目にした求人広告が彼の目を止めた。
それは、松永が運営する芸能事務所の募集だった。
「マネージャーか……やったことないけど、まあ、応募してみるか。」
半ば投げやりな気持ちで応募した佐藤だったが、面接の日、松永と対面した瞬間にその印象は一変した。
「面接というより、試験だと思ってくれ。」
松永は端的な口調でそう告げた。
「6ヶ月以内に結果を出せ。方法は問わないが、現場を仕切れるようにならなければ君には用はない。」
松永の厳しい視線に、佐藤は初めて心底焦りを感じた。
「結果……ですか?」
「そうだ。現場を回す力、タレントを支える力――全て含めてだ。君が前職で学んだことが通用するかは分からないが、人間関係を築けないならここではやっていけない。」
その言葉が、佐藤の胸に深く突き刺さった。
佐藤は、最初の3ヶ月間は地獄のような日々を送った。
タレントの気持ちを理解できず、現場のスタッフともうまく連携できなかった。
しかし、次第に彼は気づいた。
「一人で成果を出す時代は終わったんだ…。」
それから佐藤は、現場のスタッフ一人一人に声をかけ、意見を聞くよう努めた。
タレントの要望にも敏感に耳を傾け、少しずつ信頼を得ていった。
結果、半年後にはいくつかの現場で「佐藤さんがいて助かった」と言われるまでに成長した。
佐藤は冷えた缶ビールを見つめながらぽつりと呟いた。
「俺も随分変わったもんだよな。」
ふと、渉の姿を思い出す。
裕奈を守ろうと日々奮闘する渉の姿に、どこか昔の自分を重ねていた。
松永との面談後の結果を確認した佐藤は渉から「及第点でした」と笑いながら言われたが、
(……及第点、か。あれが本当にただの及第点なわけがない。)
佐藤自身もかつてマネージャー候補生として試用期間を経て採用されたが、その期間は6ヶ月間だった。
彼にはその間に無数の課題が与えられ、それを克服してようやく認められた経験がある。
(俺のときは6ヶ月だ。それが久住の場合、たった3ヶ月。元は1ヶ月だ。短すぎるだろう。普通なら無理があるスケジュールだって、誰にでもわかる。)
思い返せば、渉に課された試用期間中のタスクは決して軽いものではなかった。
裕奈の撮影現場への同行はもちろん、スケジュールの管理、関係者との調整、突発的なトラブルへの対応――すべてが要求される環境だった。
それに加え、裕奈の心理的サポートまで含まれていたのだ。
(最初から落とすつもりで課された無茶な条件だったんだろう。けど、あいつはそれをすべてやり遂げた。)
佐藤は当初、渉が試用期間中に脱落するのではないかと思っていた。
だが、渉は期待以上の働きを見せ、その成果は社長や千鶴をも認めさせた。
(あの及第点という言葉……本当は最大級の評価なんだ。)
松永社長の「及第点」は、決してそのままの意味ではない。佐藤はそれを知っている。
松永は人を評価する際、あえて控えめな表現を使う癖があった。
本当に「及第点」の場合もなくはないが、今回は違った。
(実際には期待以上だったってことだろう。)
さらに千鶴も同じ言葉を使った。
あの厳しい千鶴が渉を批判するどころか及第点を認めたという事実は、それだけで異例だと言える。
佐藤はふと、渉が現場で見せていた姿を思い出した。人当たりが良く、裕奈、そしてスタッフたちの信頼を自然に集めていた彼。
渉の働きぶりは確かに及第点以上だった。
「拾い物かもな…」
そう呟いて、佐藤はまた、缶ビールを空けた。
その瞳には、どこか期待と希望が宿っていた。
⭐︎
渉は大学近くのカフェに小沢を呼び出した。
試験をクリアし、正式に契約社員になったことを報告するためだ。
「そんなわけで、とりあえず正式に契約社員になったよ。」
渉がコーヒーを一口飲みながら淡々と話すと、小沢は軽く目を細めた。
「ほう、それはそれは。社畜人生の第一歩、いや第一ステージクリアってところか。」
「別に社畜になりに行くわけじゃないけどな。」渉は苦笑しつつ、カップを置いた。
「でも、目の前のことを精一杯やるだけだ。俺にはそれしかないから。」
小沢は少しだけ眉を上げ、興味深げに渉を見た。
「愚直なやつだな、お前は。まるで一本道しか見えてないみたいだ。俺みたいな天才とは大違いだ。」
「はいはい。道が見えてるなら、それでいいだろ。」
渉はさらりと返す。
小沢は肩をすくめた。
「まあ、何か困ったら言ってこいよ。俺の天才的な頭脳で何とかしてやる。」
渉はその言葉に苦笑した。
「頼りにしてるよ。でも、まずは自分でやれるだけやってみる。」
「だろうな。」
小沢は軽くため息をついた。
「……で、前から気にはなってたんだが。」
渉が眉をひそめると、小沢はコーヒーを一口飲み、真剣な目で彼を見た。
「俺、裕奈さんが大学に来た時にお前のことを伝えたのは知ってるよな。」
渉の表情が一瞬、固まる。
「ああ。」
「……その時の様子が、何か気になるんだよ。」
「気になる?」
「ああ。」
小沢は視線を落とし、少し言葉を選ぶようにして続けた。
「まるで……お前に執着……いやそれを超えて依存しているみたいな感じだった。」
渉は思わず吹き出しかけた。
「……は? 何言ってんだよ、小沢。アイツはそんな——」
「そう思うか?」
小沢は静かに渉を見た。
渉は口を開きかけたが、小沢の目が本気なのを見て、言葉をのみ込んだ。
「最初は単に、お前に会いたがってるんだと思った。でも違った。」
小沢は指でカップの縁をなぞりながら続ける。
「あの時の裕奈さんの表情、言葉、立ち振る舞い……どれを取っても、普通の『懐かしい幼なじみを探してる』ってレベルじゃなかった。」
渉は苦笑しながら、コーヒーを飲んだ。
「考えすぎだって。裕奈はちゃんと一人で立ってるよ。」
「本当にそうか?」
「……何が言いたいんだよ。」
小沢はしばらく渉を見つめ、それから小さく息をついた。
「……多分、お前次第なんだろうな、裕奈さんの状態って。」
渉は一瞬、言葉を失った。
「……何言ってんだよ。」
「ただの勘だ。でも、的外れじゃないと思う。」
小沢はそれ以上は何も言わず、コーヒーを飲み干した。
「まあ、お前の人生だ。好きにしろよ」
渉は肩をすくめ、小沢の言葉を冗談半分に聞き流した。
しかし、どこか胸の奥に引っかかるものがあった。
小沢は立ち上がり、軽く手を挙げた。
「そろそろ行くわ。お前のことだから、また面倒事を抱えて俺を呼び出すんだろ?」
「その時は相談料を払えってか?」
「まあな。」
渉は苦笑しながら、小沢を見送った。しかし、彼の言葉はどこか胸の奥に引っかかっていた。
この小沢の言葉は後に現実になっていく。
しかし、この時点で渉はそれに気づいていなかった。




