試用期間編2(新生活の始まり)
自宅で食卓を囲む久住家の面々は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。
両親と弟の前で、渉が「試用期間1ヶ月を経て、合格すれば1年間休学する。高宮裕奈のマネージャー補佐をする」と告げた瞬間、全員が驚きの表情を浮かべた。
「裕奈って…あの、高宮裕奈?」
高校2年生の弟・健太が信じられない様子で口を開いた。
「そうだよ。小学校の頃、俺のクラスメイトだった裕奈。たまに話してたし、幼稚園の頃ウチに来て遊んでもらっただろ?」
渉が答えると、健太は驚愕の表情をさらに深めた。
「いや、そりゃ何となくは覚えてるけど…まさかその子が、国民的女優になるなんて。しかも兄ちゃんがその補佐をやるなんて思わないじゃん」
両親は互いに顔を見合わせ、重い沈黙の後、母親が口を開いた。
「渉、本当に大丈夫なの?芸能界の仕事って大変そうだし、1年休学してもしダメだったら、どうするの?」
「うん。これが裕奈の役に立つ最後のチャンスかもしれない。それに…俺も、彼女を支えたいんだ。」
父親が腕を組み、渉をじっと見つめた。
「大学3年生っていえば、就活の準備だって始まる時期だろう?今このタイミングでそんなことをして、もし1年間休学したら、その後の就職活動に影響はないのか?1年遅れるんだぞ?」
渉は一瞬言葉に詰まるが、視線を逸らさずに答えた。
「正直、不安がないわけじゃない。でも、俺にしかできないことがあると思うんだ。それに、もし失敗したとしても、それは俺の責任だ。」
健太が手を挙げるようにして口を挟んだ。
「兄ちゃん、マジでスゴいとは思うけどさ、1ヶ月でクビになったら笑い話にもならないよ?」
「分かってる。でも俺、裕奈を見てると、昔の約束を思い出して……支えたいって気持ちがどうしても消えない。」
両親は真剣な表情で渉を見つめる。しばらくして、父親が深く息をつき、こう言った。
「ーーまあ好きにしろ。お前の人生だ。ただし、一度始めたことは投げ出すな。それだけは約束しろ。」
母親も渉を見て、静かに頷いた。
「私たちは応援するよ。でも、何かあったらすぐに相談しなさい。」
「ありがとう。」
渉は安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間、ふと切り出した。
「それと……試用期間中は、事務所が紹介してくれた住まいに移ることになった。」
「え?」母親が驚いたように目を瞬かせる。
「マネージャー補佐として動くには、今の家からじゃ時間的に厳しい。だから、事務所が手配してくれたマンションに住むことになったんだ。」
父親は黙って考え込んだ後、納得したように頷く。
「仕事としてやる以上、合理的な判断かもしれないな。」
母親は少し寂しそうな顔をしながらも、最後には微笑んだ。
「ちゃんと食事は摂るのよ。あと、無理しすぎないようにね。」
「分かってるよ。」
渉は真っ直ぐ両親を見つめて頭を下げた。
「ありがとう。絶対に後悔しないよう、全力でやるよ。」
健太は呆れたように笑いながら、兄を見た。
「まぁ、せいぜい頑張んなよ。国民的女優の隣でヘタレな兄ちゃんが恥かかないようにな。」
渉は苦笑しながら肩をすくめた。
「ヘタレって言うなよ。お前も応援してくれるんだろ?」
「まぁ……ね。家族だし。」
こうして、渉は家族の賛同と若干の不安を抱えながら、新たな一歩を踏み出す準備を整えた。
⭐︎
渉は久住家を後にし、事務所が紹介してくれたアパートに向かった。
向かったのは、都心から少し離れた住宅街にある2階建ての木造アパートだった。
最寄り駅から徒歩10分ほどの距離にあり、大通りから一本入った閑静なエリアに建っている。
外観はベージュとブラウンを基調としたシンプルなデザイン。
築15年ほど経っているが、手入れは行き届いている。建物の前には自転車置き場があり、住人のものと思われる自転車が数台停められていた。
アパートの前の道には街路樹が並び、昼間でも車通りは少なく、比較的静かな環境だった。
事務所が用意した物件とはいえ、決して高級な場所ではない。
短期間の滞在を想定した、シンプルで最低限の設備が整った住まいだった。
「年単位で事務所が借りてる物件らしいけど…1ヶ月でクビになっても、事務所的には痛くも痒くもないってわけか。」
渉は皮肉っぽく笑い、靴を脱いで201号室の部屋に上がった。
間取りは1Kで、玄関を入るとすぐにコンパクトなキッチンがあり、二口コンロと小さなシンクが並んでいる。
その奥にシンプルな居住スペースが広がっていた。
事務所のスタッフが最低限の家具を用意したのか、ベッド、作業机、簡易的なクローゼットが揃っていた。
「意外と悪くないな。」
渉はそう呟きながらカーテンを引き、ベッドに腰掛けた。
荷物を整理し終え、初めての夜を迎えた渉は、机に向かってノートを広げた。
ページをめくると、真っ白な紙が彼を迎える。
「よし…今日から記録をつけるか。」
渉はペンを手に取り、その日の出来事と感じたことを簡潔に書き始めた。
「×年×月×日、新しい生活のスタート。アパートは少し古いけど居心地は悪くない。先ずは1ヶ月間、全力でやる。絶対に投げ出さない。」
書き終えたノートを閉じながら、渉はふと裕奈の涙を思い出した。
あの日、公園で涙ながらに渉に懇願した彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
「…俺にしかできないことがあるなら、それを証明しなきゃな。」
そう自分に言い聞かせ、ベッドに横になる渉。深呼吸をして目を閉じた。
ーー後にこのノートが彼とそして裕奈に重大な影響を及ぼすとは、この時の渉にはまだ知る由もなかった。
因みに家族構成は、
父:誠
母:奈津子
弟:健太
の4人暮らしです。




