小学生編4(二人の約束)
夕暮れの校庭。授業が終わり、子供たちの笑い声が校門の方へ遠ざかっていく中、裕奈は一人でブランコに座っていた。
背中を丸め、地面をじっと見つめながら小さく肩を震わせている。
その様子を遠くから見つけた渉が、サッカーボールを脇に抱えたまま近づいてきた。
「おい、裕奈。どうしたんだよ?」
裕奈は驚いて顔を上げたが、すぐに視線を逸らして袖で目元を拭った。
「……なんでもない。」
「なんでもないわけないだろ。泣いてるじゃん。」
渉はブランコの隣に立ち、しゃがみ込んで裕奈の顔を覗き込んだ。
裕奈はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……昨日ね、お父さんとお母さんがまた喧嘩してたの。大声で怒鳴り合ってて、すごく怖かった。お母さんはいつも私に厳しいし、笑わないし、お父さんも家にいないことが多いから……なんか、私、家にいるのが嫌い。」
涙をこらえようとする裕奈の声が震えていた。渉はその言葉をじっと聞きながら、真剣な顔で考え込んだ。
「……辛いことがあったら、俺に言いなよ。」
渉のその言葉に、裕奈は驚いたように顔を上げた。
「俺さ、別にすごいことはできないけど……裕奈が辛いときは、俺が支えるからさ。俺が裕奈のヒーローになるよ。」
渉の無邪気な言葉に、裕奈の目からまたぽろぽろと涙がこぼれた。
でも今度は、それは少しだけ温かい涙だった。
「ありがとう、渉くん……。」
「ほら、泣くなって。」
渉は照れくさそうに笑い、ボールを地面に転がした。
「裕奈はさ、可愛いんだから、きっと大人になったら人気者になるよ。女優とかになったら、みんなに愛されるんじゃない?」
「えっ?」
「ほんとだって!テレビに出てる女優さんとかみたいにさ、裕奈も笑ってたら絶対みんな好きになるって。」
渉の言葉に安心した裕奈は、小さな手で涙を拭い、決意を込めて微笑む。
「じゃあ、私も約束する。絶対にみんなが知ってるくらい、すごい人になるから。」
「すごい人って?」
「うーん、例えば…女優さんになってテレビとかでみんなが『裕奈だ!』って分かるくらい。そうなったら、私のヒーローは渉くんだって自慢してもいいよ。」
その言葉に渉も照れくさそうに笑い、頷いた。
「じゃあ、約束だな。」
二人は夕焼けの中で小さな約束を交わした。
それはまだ幼い二人にとって、何気ない会話の一つだったかもしれない。
しかしその約束は、裕奈にとって「支えてくれる渉の存在を誇れる自分になる」という目標を生み、渉にとっては「裕奈を守りたい」という強い決意を芽生えさせるきっかけとなった。
その日、裕奈の心に小さな灯火がともった。
それは、「渉くんに認められたい」という気持ちと、「自分も誰かを幸せにできる存在になりたい」という決意だった。
渉と裕奈、二人の小さな約束は、この日から始まったのだった。
⭐︎
裕奈は渉との約束を胸に、母親に意を決して話を切り出した。
家のリビングは夕食の準備の香りで満たされている。裕奈はテーブルの向かいに座る母親に向き直った。
「お母さん、私…芸能界に入りたい。」
千鶴は一瞬手を止めて裕奈をじっと見つめた。
その目には驚きと困惑が浮かんでいた。
「どうして急にそんなことを言い出すの?」
裕奈は拳を握りしめ、渉との会話を思い出しながら言葉を選んだ。
「私は……可愛いって渉くんが言ってくれた。それに、沢山の人を笑顔にできる仕事をしたいの。」
千鶴は困ったようにため息をつき、裕奈の目を真剣に見た。
「簡単な世界じゃないのよ。厳しいし、努力しても結果が出ない人がほとんど。分かってるの?」
裕奈は大きく頷いた。その目には迷いがなかった。
「お願い、お母さん。私、頑張りたいの!渉くんに支えてもらったみたいに、今度は私がみんなを笑顔にしたいの!」
しかし千鶴は冷たい表情を崩さなかった。
「ダメよ。子どもの夢でやっていけるほど、この世界は甘くないの。あなたがどれだけ頑張ったって、現実は厳しいのよ。」
「でも、私は本気だよ!」
裕奈は必死に言葉を重ねた。
「お願い!一度だけでもチャンスをちょうだい!」
「勉強はどうするの?学校をおろそかにしてまでやる価値があると思ってるの?」
千鶴の声は冷たかったが、その奥には何か別の感情が潜んでいた。
「勉強だって頑張る!絶対に両立してみせる!」
裕奈は食い下がったが、千鶴は首を横に振るだけだった。
「分かってないのよ、あんたは。この世界がどれだけ厳しいか――」
千鶴の言葉はそこで途切れた。
(私のように挫折してほしくない…)
そんな本音が胸の奥をよぎったが、言葉にはできなかった。
裕奈に、自分が夢を諦めた過去を知られるわけにはいかなかった。
数日後、裕奈は何度目かの説得を試みた。
「お母さん、私……どうしても諦めたくないの。」
疲れた様子で帰宅した千鶴の前に立ち、裕奈は深く頭を下げた。
「どんなに厳しくてもいい。絶対に逃げないから。お願い、信じてほしいの。」
その言葉に、千鶴の足が止まった。
裕奈の目は真っ直ぐで、弱音ひとつなかった。
千鶴はふと、夢を追っていた頃の自分を思い出した。
あの時の自分にはなかった強さを、裕奈の中に見た気がした。
「……本当に覚悟してるのね?」
千鶴の問いに、裕奈は迷わず頷いた。
「覚悟してる。絶対に後悔しない。」
しばらく沈黙が続いた。千鶴は目を閉じて深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「分かったわ。応援する。」
裕奈の顔がぱっと明るくなった瞬間、千鶴は指を立てて続けた。
「でも条件があるわ。学校の成績は絶対に落とさないこと。どんなに辛くても、お母さんや周りの声をちゃんと聞くこと。そして――絶対に逃げないこと。約束できる?」
裕奈の目が輝いた。
「本当に?」
母親は苦笑しながら頷き、優しく裕奈の頭を撫でた。
「本気で頑張るならね。あなたの覚悟、見せてちょうだい。」
「うん、約束する!」
裕奈の声には力強さがあった。
裕奈は渉との約束を胸に、夢を追いかけるための第一歩を踏み出したのだった。
⭐︎
初めてオーディション会場に足を踏み入れた日、裕奈は不安と期待で胸をいっぱいにしていた。
広いホールには、同じような夢を抱く子どもたちが数十人並んでいた。
初めてのオーディションは、歌と簡単な演技を審査されるものだった。
裕奈は深呼吸をしながら、渉に励まされた日のことを思い出していた。
ー裕奈ならできるよ。俺も応援する。裕奈を支えるからー
その瞬間、裕奈の心に不思議なほどの落ち着きが広がった。
渉の言葉が脳裏に蘇るたび、緊張は少しずつ解けていった。そして、名前を呼ばれると、裕奈はまっすぐにステージに立った。
「名前は高宮裕奈です。よろしくお願いします!」
声が小さかったり、演技に慣れていない子も多い中、裕奈の堂々とした姿と純粋な表情は審査員たちの目を引いた。
終わった後も、自分がどうだったのかは分からなかったが、裕奈の胸には不思議な達成感が残っていた。
数日後、家の電話が鳴った。オーディションの結果が届いたのだ。
母親が受話器を握りながら振り返る。
「裕奈、合格よ!」
その瞬間、裕奈の顔がパッと明るくなった。
母親も誇らしそうに微笑む。
裕奈は跳び上がりそうな気持ちを抑えながら静かに決意を固めた。
「絶対に頑張る。渉との約束を守るんだ。」
それから裕奈は芸能界の世界に飛び込み、徐々にその名を知られる存在へとなっていく。
この日を境に、裕奈の芸能人生が始まった。
渉の言葉と約束を胸に、彼女は皆に笑顔を届けるために国民的女優への道を駆け上がっていくのだった。




