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赤い塔の大時計  作者: アボカドロ
1/1

前編 モスクワは愛に微笑むか

 チク、タク。チク、タク。セルゲイは王宮の時計台を見つめ、一本の煙草を吸った。


 ちょうど半年前、彼の目の前に広がる、金ぴかで赤い屋根が特徴の宮殿は空っぽになった。俗にいうならば、革命だ。長い間、この国を治めてきた皇帝(ツァーリ)が追い出されたのだ。


 少しずつ空が暗がりに覆われ始める時間に、日を追うごとに冷たくなる風が彼の半ズボンを不気味に撫でる。市内はガス灯と電気、そして星の明かりが斑に弾け、まるで火打石から出た火花のようである。セルゲイは雲をふかし、そいつはもくもくと天へと昇っていった。


 王宮の城壁には落書きが書かれ、「皇帝を殺せ!」や「労働者の団結!」、「民主主義の勝利を!」など、以前の私が好んだ美辞麗句が自分という存在を誇示するかのように並んでいる。全ての進歩主義とやらは、こんな安っぽい芝居を演じるだけで満足するのか、と心底呆れる。


 セルゲイはバルコニーから家の中に入り、古びた家の中で粗末な木の机の上にある紅茶をすする。これでも、このアパートの住人よりは、紅茶が飲める分、格段にいい暮らしをしている。これが最近の、彼の一月に一度の楽しみだ。ジャムを舐め、甘みと少々の酸味が口いっぱいに広がった後に熱い紅茶をすするのはこの国の伝統的な紅茶の飲み方である。紅茶を飲み、目前にある娘の写真を眺めながら、セルゲイは物思いにふけった。




 彼女は隣の家に住む大商人の娘であった。幼いころから知っていたいわば幼馴染で、彼女とはよく目の前の広場で遊んだものである。美しい黒い大きな目を持ち、鼻が高く、黒い絹の様な髪にぷっくりとした唇を持つ、美人であった。


 彼が彼女との恋心に気づいたのはマースレニツァ、謝肉祭の時である。皇帝陛下と皇太子殿下が臨席なさった、赤の広場の前で行われた謝肉祭で、まだ寒いというのに彼女は活発に、派手な衣装に身を包みながら、まるで初心な乙女のように楽しそうに踊っていた。実際に初心であったのかは彼の知るところではないが、この時に彼は彼女の美しさに気づいてしまったのだ。


 しかし、彼は同時にもう一つのことにも気づいてしまっていた。皇太子殿下の彼女を見る目線である。殿下は彼女の踊りをまじまじと見ており、時折臣下に何かを伝えては、子供の様な笑顔を浮かべるのであった。


 満月が昇ったころには舞が終わった。その後セルゲイはその娘、マリアの下に駆け寄った。「素晴らしい踊りだったよ。つい私も見惚れてしまった」

 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、熟した林檎の様であった。「見てくれて嬉しいよ。セリョージャ」と、どもりながら返事をした。


 そして、セルゲイたちは共に家に帰った。彼らには家で語りたいことが山ほどあるのだ。我が国の伝統では、謝肉祭の後に男性から声をかけられた女性は、彼が気に入れば、彼の家にお邪魔するというものがある。そして、二人で紅茶を囲み、他愛もない話をした。




 一夜が明け、共に部屋でくつろいでいた時。外がどうやら騒がしくなってきた。セルゲイは埃にまみれた桟を支えにして立ち上がり、持っていた本を置いて雪の降り積もる広場を見た。


 そこにいたのは帝国の官憲だった。大量の冬服とウシャンカを被った官憲たちがやってきて、隣の家、つまりマリアの家の扉をどんどん、と強盗(ラズボイニキ)の如く叩いたのだ。


 「マリア・フョードロヴィナ!皇太子殿下がお呼びである!至急王宮に来るように!」官憲の甲高い叫び声が広場中にこだまする。それを聞いた住人たちは我先にと、家々から飛び出るように雪の降り頻る広場に現れた。このようなひと騒ぎは街の住人たちにとって、稀に見る娯楽であった。



 怪訝な目をしてマリアは、隠れるように窓の桟に手をかけているセルゲイの両腕を掴む。「おい、何か君がやったのか?」セルゲイの問いかけにも、彼女は首を振るばかりだ。



 すると、家の中から老人が出てきて、官憲と話しているようであった。何を話しているのだろうか。マリアや、彼女の家族は大丈夫なのであろうか。セルゲイの不安は静寂と共に流れる。どれほど時間が経っただろうか、と時計を見ると、まだ数分しか流れていなかった。官憲は踵を返し、王宮がある方角へと戻っていった。


 「よかった。誤解が解けたのか?本当に何をしたんだ?」セルゲイはマリアを問い詰めるように聞く。「わからないわ。私が知っているのは官憲が来たことだけよ」慄き、蛇に睨まれた小動物の様な瞳でセルゲイは見つめられ、何も言うことが出来なくなった。


 彼女は恐れながらセルゲイの体にうずくまり、セルゲイは彼女をずっとさすってやっていた。実家に警察が入ってきたとなれば、驚くのも仕方がない。乳香を炊いて、ベッドの上で二人で一緒に怯えていた時、コツコツ、と足音が聞こえてきた。


 その足音の持ち主は低いおどろおどろしい声でセルゲイたちに話しかけた。「マリア。君を官憲が探しているようだ。皇太子殿下は君を気に入ったようだ」それは、セルゲイのひとり親、ミハイルの声であった。


 「それはこの部屋からも聞こえたよ、父さん。どういうことだい?皇太子殿下がマリアを気に入ったとは?」セルゲイは現実を理解できなかった。父親の言うことが何を意味しているか、それは非常に、単純な物であった。しかし、セルゲイにはその現実を受け入れる余裕がなかった。恋仲となった娘が唐突に権力者に奪われることへの困惑と憤慨は、恐らく言うに及ばないものであろう。


 その混乱にも近い憤慨が、彼を蝕んでいく。「言わずともわかるだろう……。皇帝陛下の命令だ。まだ結婚前なんだから、お互いに覚悟を決めなさい」そう冷たく言い放つ父に、怒りを覚えた。しかし、彼の背後には大きな力が睨みを利かせている。その力の前に、私たち庶民はひれ伏すしかないのだ。


 雪が降り、冷たくなった窓の手前に腰かけ、ドア越しにも沈黙が流れる。セルゲイは窓の外を見て、薄っすらと見える官憲の足跡を、唇をかみしめながらじっと見つめていた。




 沈黙を真っ先に破ったのはマリアである。「ねぇ、何はともあれ、王宮に行ってみましょうよ。そのうち人妻となるのだ、と分かれば奪ってくることはしないわよ」確かに、一理ある話だとセルゲイは思う。いくら皇太子とはいえ、人妻とのスキャンダルなど以ての外だし、帝政を揺るがしかねない大事件となるのは目に見えていた。「そうしてみよう。父さん、じゃあ二人で行ってくるから」


 「……やめなさい。そんな抵抗をしたら、お前は殺されてしまうよ」父親の震えた声からは、ひしひしと恐怖が伝わって来た。確かに、彼がセルゲイを止めるのは理に適っている。最もなことだ。しかし、瑞々しい若者の情熱は止められないもので、彼の目はまっすぐ、赤い塔の代時計を見ていた。


 「父さん、俺は皇帝だろうと恐れたくないんだ。金ぴかの宮殿の中に住む人間でも、俺たちの恋心くらいは理解出来るものさ」そういって、部屋のクローゼットから、ウシャンカとコートを取り出す。「好きにしろ。……全く、聞かん坊を持ったものだな」との父親の呟きも聞こえないかの如く、彼は出かける支度をした。


 マリアと共に、雪積もる広場に立つ。雪は蛍のようにちらちらとガス灯に照らされ、山吹色に光っていた。運悪くガス灯の上に積もった雪はその熱に溶かされ、水となって、セルゲイの白いウシャンカの上に落ちてくる。「ウシャンカと言えど、冷たい水は沁みるものだ」と、セルゲイは呟く。


 そして、二人は赤い時計台に向かって歩き出した。手袋越しに伝わる互いの温もりが、何とも言えない安心感を互いに与えてくれる。こんな状況に置かれてもなお、青い若者たちは明るい、輝いた夢を見ていたのだ。


 官憲に水を差されるまでの他愛もない話をもう一度繰り広げた。赤の広場、王宮へ入る門がある場所へ差し掛かろうという時、マリアが口を開いた。

「ねぇ、もし、皇太子殿下に私たちの懇願が受け入れられなかったら、私たち、一緒に南の方へ逃げましょうよ。誰も私たちを知らない、暖かい土地へ」

 恐らく、マリアは恐れをなしたのだろう。事実、宮殿前の赤の広場には数人の兵士がうろつき、王宮の周りを警備していたのだ。特別私たちを警戒する意図ではないはずだが、彼女は「権力」に気づいてしまったのだ。


 セルゲイも、徐々にぶるぶると足が震えてきた。昼に近づくというのに、氷点下を下回っていそうなほどの寒さだ。しかし、彼の震えもまた、寒さから来るものではないのは彼の目にも明らかだった。セルゲイはマリアの手を更に強く握りしめ、マリアもまた、それに応えるように手を強く握り返した。


 いよいよ、黄金の門の前に来た。この奥に、皇帝と皇太子がいる。顔が徐々に紅潮し、より震えは激しくなる。セルゲイは、門の前にいる衛兵に不安を抱きながら恐る恐る声をかける。「もしもし、マリア・フョードロヴィナをお連れしました。皇太子殿下の下に案内していただきたい」


 衛兵は一瞬怪訝な目をしたが、セルゲイのそこまで整っていない身なりを見てただの従者だと思ったのだろうか。門を開け、セルゲイたちを先導してくれた。沢山の金細工や漆喰で塗り固められたロココ様式の宮殿を横目に、彼らは真っ直ぐと中央にある壁と同じ紅の宮殿を見つめていた。




 壁と同じ色ながら、一層重々しい雰囲気を放つ中央宮殿。扉に金、銀、宝石が散りばめられ、赤く染められている様子は、さながら夕焼け時のガラス質の砂浜のようであった。ギギギ、と重い音を立てて扉がゆっくりと開いて行く。


 外の重々しい、暗い雰囲気と異なり、金と白を基調とした贅を尽くした内装がセルゲイたちの目の前に広がった。数百人の召使いが彼らの傍に立ち、マリアとセルゲイがレッドカーペットの上を歩くのをお辞儀をして、じっと、動かない蝋人形のように同じ形を保っていた。




 そして二人は、先ほどの宮殿の扉よりも更に大きく、豪勢な扉の前に立った。「こちらが皇帝陛下と、皇太子殿下がいらっしゃる謁見の間で御座います。申し訳ありませんが、従者の方はお入りになられません」と黒いスーツを着た執事に言われる。「僭越ながら、この男は従者ではありません。私の兄でございます。お目通り願いたい、と申しておりますので共に来た次第です」


 マリアは、大商人の娘であるのでこのような社交の場には慣れていたし、完璧な言葉づかいで執事との舌戦を繰り広げた。

「しかし、貴方一人で来てほしいとの殿下からのお達しがございます」

「私が信頼してる男を入れてならぬ訳がどこにございましょう」

「殿下のご命令なので、そのような真似は許されませんぞ」

「ではこの縁談を断らせていただきます。皇太子殿下にそうお伝えください」そういって彼女はもう一度ウシャンカを被り、扉に背を向ける。セルゲイはただ、たじろぐばかりだった。


 執事は驚いたように、傍にいるメイドに耳打ちする。しばらくの後、執事が二人に声をかけた。「それではわかりました。お二人でお入りください」



 ついに、謁見の間が開いた。温度は一定に保たれているはずなのに、ピンと張りつめた空気がセルゲイの体に伝わる。マリアの一歩後をセルゲイは恐れながらついて行った。


 「マリア・フョードロヴィナ」と、皇帝らしき人物が呟く。衛兵たちは一斉に敬礼し、一層重苦しい雰囲気が部屋内に満ちた。マリアは物おじせずに、カーテシーをして言葉を紡いだ。「皇帝陛下。皇太子殿下。お初にお目にかかります。フョードル・セミョーノフの娘、マリアと申します」


 彼女のいつになく凛とした声が部屋中に響く。皇帝は笑顔になり、すっと立ち上がった。「突然だが、君に縁談を申し入れたい。我が息子、アレクセイの嫁となるつもりはないだろうか」思ったよりも柔和に語り掛ける皇帝に、セルゲイは肩を下ろし、彼の顔をじっと見つめる。


 アレクセイも椅子から立ち上がり、こちらに近づいて来る。マリアは彼が近付いて来るのを感じながらも、姿勢を崩さずに淡々という。

「陛下、私なんかには身に余るお申し出にございます。私がその役目を果たすことは、冬に太陽神(ダジボーグ)が舞い降りるが如きことです」


「そうであるか、して、アレクセイ。如何に思うか」後は若い二人に任せよう、と言わんばかりに、皇帝は謁見の間にある右の扉から出る。セルゲイは彼にお辞儀をして、その後皇太子と相対した。



「マリア。我が名はアレクセイである。帝室からの命令である。我と婚姻を結べ」先ほどの柔和な父親とはほぼ好対照に、横柄で、ふんぞり返ったような態度であった。長身の美形であるが、鋭い目つきと、つんと尖った鼻は、もしかしたら彼の性格の厳しさを具現化したものではないかとセルゲイは思う。この性格を、何とか逆手に取る手段をセルゲイは考えぬいた。


 アレクセイの態度を見ても、マリアは怖気づくそぶりも見せなかった。それどころか、先ほどよりも前に出て、胸もぐんと張って皇太子を睨みつけた。「何度も申し上げておりますように、私にはその役目が重すぎます。かくの如き小娘が、貴方様のお隣に並ぶなどは恐れ多い事でございます」

「我が其方が良いといったのだ。我の目を疑うつもりか」

「そのつもりはございませんが、私は見た目以上の有能さはございません」

「随分と付け上がった女だ」と、アレクセイは鼻で笑う。


「ただ、その物怖じせぬ態度は皇后として相応しい。やはり我の目は腐っていないようだ」

「既に貴族というハエでも集っておりましょう」と、セルゲイが小声でつぶやく。

「なんだと!?」


 彼はどうやら地獄耳のようで、セルゲイの言った事がそのまま聞かれてしまったようだ。まずい、と思いセルゲイは立膝をついて許しを乞う。「貴様、従者如きが不遜にも我に楯突くとは!もうよい!そのような者との縁談など此方からお断りだ!帰れ!」


 アレクセイがそう高らかに言うと、周りの衛兵たちが二人の腕をつかむ。「我の御恩にて、貴様らの罪は問わん!我の目の前に二度と顔を出すな!共に赤の広場にてのマースレニツァへの参加を禁ずる!」その癇癪にも似た叫び声を聞き、セルゲイは作戦成功を感じた。そして、権力者に対してしてやったりという満足感が生まれた。




 宮殿を追放され、冷たい赤レンガの通りの上に二人は置かれた。衛兵たちが雪の降る広場の奥へと隠れていくのを確認した後、二人は見合って、大笑いを始めた。今まで絶対であった帝室が、彼らの様な庶民の一言で簡単に怒り、見事に挑発に乗ったことがおかしくてたまらなかったのである。


 「流石セルゲイね。昔からよく頭が回るわ」と、マリアはゆったりと立ち上がり、地べたに座っているセルゲイに手を差し伸べる。彼はそれを支えに立ち上がり、マリアを抱き寄せた。

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