プロローグ
――『あ』では、強すぎる。
『い』も、まだ鋭い。
ならば『う』はどうだろう。
少しだけ、優しすぎる気もする。
『え』は違う。
『お』に至っては、論外だ。
……おや。
どうやら、物語はすでに始まっていたらしい。
これはこれは、失礼。
何の話をしているのか、だって?
それは――秘密だ。
それよりも、君は気になっているだろう。
ここは、どこなのか。
四方を黒い崖に囲まれ、光の届かぬ場所。
空も地も境界を失い、ただ闇が横たわっている。
しかし、その闇の底には、星の数ほどの文字が浮かび、青白い光を放っていた。
ここは――文字の海。
吐き出され、役目を終えた文字たちが眠る場所。
「大雑把に言えば、見ての通りさ。文字でできた海だよ」
穏やかな声が、静寂を揺らす。
「君は考えたことがあるかい?
人間が吐き出した文字が、どこへ行くのかを」
「文字の海は、文字の終着点だ。
“海に還る”という表現も、あながち間違いじゃない」
彼は小さく肩をすくめる。
「なぜなら――すべての文字は、ここで生まれたのだから」
理解が追いつかない、という顔をした君を見て、彼はくすりと笑った。
「それより先に、お前は誰だ、って顔だね」
「僕の名は、奇天烈。
文字の探求者であり、この海の管理人……いや、守り人と呼ばれている」
奇天烈の足元には、小さな木舟。
彼はそれを器用に操り、文字の海を進んでいる。
「泳ぎたい?
気持ちはわかる。でもやめておいたほうがいい」
「この海に身体が触れれば、文字の毒が全身を巡り、即死だ」
「だからこうして、舟を使う」
「僕のように耐性を持つ人間でもね、
短い単語に一瞬触れるのが限界さ」
奇天烈は顎に手を当て、思案するように海を見渡した。
文字で埋め尽くされた水面。
神秘的、などという言葉では、あまりにも足りない光景。
「さて……最初は、これにしよう」
「――『死ね』」
その言葉を口にした瞬間、海の一角がわずかに脈打った。
「言う側も、言われる側も、等しく傷つく文字」
「それなのに、今ではあまりにも日常的だ」
「語源を辿れば、日本では“往ぬ”から派生したとも言われているけれど」
「まあ、それ以前から、同じ意味の言葉は存在していたはずだけどね」
彼は舟の楫を握り直す。
「どんな文字にも、必ず理由がある」
「それを知ることは――
文字を使う者にとって、大切なことだ」
静まり返った海に、楫音が響く。
舟は、ゆっくりと文字の海の中央へと進んでいった。
「それじゃあ……触れるよ」
「覚悟は、いいかい?」
奇天烈は身を乗り出し、
おそるおそる、その文字へと指先を伸ばした。




