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おやすみ、メメ  作者: ようひ
4/63

03


 パパは謎の人物だ。

 子どもにとって、大人とは不思議な存在で、自分自身について多くを語ろうとしない。パパも例に漏れず、私が何を訊いても何も答えなかった。彼の返答はいつも、私を撫でるだけだった。絵本の内容や見た夢について話しても、相槌一つさえも打たず、ただ私の頬に手を置くだけだった。パパの好きなものを尋ねても、返事ひとつせず、ただ私の腰に手を当てるだけだった。

 だから——といっても当然のことだが——私からパパに話しかけることはなくなった。空振りする私の思いに、パパは気づいているのだろうか? おそらく、考えようともしていないだろう。表情筋が一本たりとも動かないほどの無表情なのだから、あの暗い瞳だって、見えているようで何も見ていないのではないだろうか。

 廊下を歩いていると、この家はどれほど大きいのだろう、といつも疑問に思う。木の床と白い壁が果てしなく伸び、装飾品などは一切なく、まるで冗談半分で建ててしまった家に仕方なく住んでいるような、面白みのない家だった。廊下を進むと、私の部屋と同じ鉄製の扉がいくつかあり、その冷たい仕切りの先には何があるのか気になった。パパに訊いても知らぬ顔をされるだろうから、いつも見なかったことにしている。

 一角を右に曲がると、小窓から差し込んだ朝陽が最後の一筋を照らしていた。その光はダークブラウンの扉へと吸い込まれていた。

 私の心臓が強く鼓動を打ち始めた。その扉に近づくにつれて、頭が揺さぶられ、身体が痺れ、足がグッと重くなる。ゼンマイで歩行する機械人形のように、ちぐはぐな進み方をしてしまう。

 パパはそんな私の手首を掴んで悠然と歩いている。私が立ち往生する気配を見せると、手に力が込められた。パパ自身は何も言葉を発しないのに、手だけが饒舌に話していて、まるで怒鳴られているような気持ちになった。私の足はその聞こえないはずの声に怯えて勝手に動き出した。戻りたい、戻りたい、戻ることは許されない。パパの力は私よりもずっと強かった。

 うっすらとした吐き気がこみ上げてくる。私は掴まれていない方の手で口元を押さえた。床が波を打つように歪んで見え、壁がでこぼことした山と谷を作っていた。パパの手のしわはまるでミミズが私に向かって這っているように見えた。私はぎゅっと目を強く瞑り、口元を覆っていた手を今度は胸に当てて深く息を吸った。少しだけ気が楽になった。心臓の鼓動に合わせて呼吸をすると、吐き気の波が引いていった。

 パパが立ち止まった。私もぶつかることなく立ち止まった。目を開けて見上げると、パパが私を見下ろしていた。夜さえも黙らせてしまうほどの暗い藍色の瞳だ。そして、今まで仮面を付けていたような無表情が、おびただしい量のしわを刻んだ。笑顔とは意味の異なる、別の種類の笑顔を浮かべていた。私は弾かれるように目を伏せた。忘れかけていた吐き気がまた盛り返してくる。胸がドクドクと痛くなる。

 ダークブラウンの扉が静かに開かれる。

 ぎい、と木材の擦れる音がした。

 そこには、白い場所が広がっていた。

 見渡す限りの白だった。部屋であるはずなのに、家具らしき物は何もなかった。何でもある「箱庭」とは正反対の、白だけがある場所だった。


「……」


 私はそこに立ち尽くしていた。辺りを見渡すと、隣にいたパパさえもいなくなっていた。入ってきたはずの扉も消えていた。全てが白になっていた。

 素足の裏は冷たくもなく、温かくもない。硬くもなく、柔らかくもない。心地いいわけでもなく、悪いわけでもない。奇妙な感覚だった。温度がない、感触がない、匂いがない、ほんとうに何もない。

 心の中の嵐は、すっかり消え去っていた。


「…………」


 ここは見知らぬ場所ではなかった。

 私はたびたびこの白い場所に来る。「箱庭」を出て少し経ち、パパの部屋に入ろうとする直前で、いつもこの白い場所に飛ばされる。そして、パパの部屋で私がいったい何をしていたのか、その一切を覚えていないのだった。

 おそらくその時の私は知っているのだろう。パパの部屋で起こっている、その全てを。

 しかし、白い場所の中でそう疑ったとしても、現実が変わることはなかった。覚えていないのは、覚えていたくないためなのかもしれない。

 私は諦めて、その場で三角座りをした。

 そうして静かに、時が過ぎるのを待った。


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