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廊下から扉を軽く叩いてしばらくすると、リタは慣れない様子で下口から這い出てきた。関節がぐねりと曲がるその姿は、産まれてくる赤子のようだった。やはり奇妙な動きだったんだな、と私は思った。
リタは星空のように藍色の瞳を輝かせていた。音もなく歩いていると、リタが「なんだかいけないことをしてるみたいだね」と囁いてきた。私は苦笑して「いけないことだけどね」と返した。リタの顔は、余計な声を漏らさぬようにしつつも満面の笑みを浮かべていた。私たちは肩を並べて廊下を歩いた。さっきまで感じていた足の裏の冷たさは消えていた。
私の部屋を通り過ぎると、再び鉄の扉が現れた。
この中に人がいることは明確だった。扉の隙間から細い光が漏れていた。
私たちは顔を見合わせ、音を立てずに下口を開けた。部屋の中からは小さな声がする。女の子の声だった。何かを読み上げているような、さやさやと流れる小川のせせらぎのような物言いをしていた。隣でリタがはっと息を飲み、嬉々とした表情を私に向けた。私は彼女に先に行くよう促した。リタは頷き、恐る恐る右足を入れた。
ガタン、と音が鳴った。リタが「あっ」と声を漏らした。部屋の中からも「えっ」と声が聞こえた。リタは私に向けて舌をチロリと出すと、勢いよく下口に吸い込まれていった。後に続いて私も両足を通した。下口は私とリタの部屋と同じ大きさだったため、またお腹が突っかかったが、気合いでへこませて通した。吐き気は以前より増していた。
下口を抜け出すと、まばゆい光に目が眩んだ。反射的に閉じたまぶたを、ゆっくりと開く。煌めきの中には、黒い眼鏡をかけた女の子が立っていた。
赤茶色の長い髪、リタよりも小さくて丸い顔、眼鏡の中心にある小さな鼻、赤い頬に浮かぶ雀卵斑、細い首に白い手足。そして何よりも特徴的なのは、眼鏡の奥にあるダークブラウンの瞳だった。その目と目が合うと胸の奥が締め付けられるような、冬のような冷たさを含んでいた。彼女の身体は私よりも小さかったが、フレームの太い黒縁の眼鏡が彼女をいくらか大人らしく見せていた。
眼鏡の彼女は、驚きと戸惑いを混ぜ合わせたような顔をしていた。その横には彼女の脇に顔を埋めているリタの姿があった。足元には開かれた分厚い本が何十冊も散らばっていた。
「あなたたち、何者?」
瞳の冷たさとは少し違った、涼しげな声音。
小川のせせらぎ、というイメージがぴったりな。
私はその問いに答えずに、眼鏡の彼女に歩み寄り、正面から抱きしめた。彼女の短い吐息が耳元をくすぐった。
彼女を安心させるために行ったこの抱擁は、逆に私を妙な不安にさせた。おそらく眼鏡の彼女も同じことを思っただろう。私たちが全く同じ服装をしていること、同じ体型をしていること——つまり、私たちは「同じ境遇である」という事実を、この時の私は気付かないふりをした。
彼女ははじめこそ警戒していたものの、少しずつ緊張をほぐしていった。女の子は「アイリ」と名乗った。私たちも同じように名乗ると、「りた、めめ、リタ、メメ……」と何度も私たちの名前を口にした。
「私だけだと思ったよ。まさか他にも人がいるなんてね」
アイリは嘆息交じりに言った。
「あなたは本が好きなの?」
私が訊くと、彼女は「別に」と首を振った。
「この部屋は本を読むことしか、やることがないの」
周りを見渡すと、四方は本棚の数々に囲まれており、背後の壁はぴったりと隠されている。本棚の中には難しい本ばかりで、背表紙を見ても内容はさっぱりだった。私の好きな絵本の類は一冊もなかった。
「えっと、メ……リ、リタ? ちょっと苦しいんだけど……ね?」
困惑したように言うアイリに、リタは何も言わずにアイリの脇腹に顔を押し当て、静かに呼吸をしていた。私と会った時にも、彼女がそれをしていたことを思い出す。
「私たちは『ずんばずん』で来たんだよ」
リタがニッと前歯を浮かべ、得意げに言った。
「『ずんばずん』? あなたは何を言っているの?」
「ちがうよリタ。『とらあなにずんば、トラ子をずん』だよ」
「ああ、そうだった!」
私たちの会話に、アイリは目を瞬かせていた
「とらあな……もしかして、『虎穴に入らずんば、虎子を得ず』?」
「そうそう、それそれ。えっと……」
「虎穴。虎の住処って意味ね」
「も、もしかして意味も知ってるの?」
「そこに入らない限りは虎の子は得られないってこと。危険を冒さないと成果は得られないっていう、有名な故事成語よ」
「へー……」
「ふーん……」
「……とにかく、あなたたちはそうやってここに来たのね」
そんな話を切り口にして、私たちはお互いについて話し始めた。
アイリは半年ほど前にここに来たという。その時から本を読み始め、気付けば朝から晩までずっと本を読むといった、本漬けの日々を送っているらしい。はじめは意味不明だったこの本たちも、今では難なく読めるようになった、と。
その読書量を裏付けるように、彼女から発される言葉たちは、まるで整理整頓された部屋のようだった。私たちの手入れが行き届いていない言葉をアイリは丁寧に読み取り、整頓された言葉で返してくれた。
「アイリはとっても頭がいいんだね」
「そんなことない。ぜんぶこの部屋のせいだよ」
「そのメガネも、とっても頭がいいように見えるしさ」
そうかな、とアイリは静かに言ったが、少し嬉しそうにも見えた。
アイリと話していて、分かったこと。
彼女の好きなものは「ない」だった。本も好きで読んでいるわけではないし、眼鏡も昔から掛けているだけ。食事にもそれといって興味はない、窓の外もただ眺めるだけ——ただ自分の周りにあるものとして認識しているだけだった。彼女曰く、「あなたたちに会うまでずっとひとりだったから、興味を持つ機会もなかった」と。それらは易しく言い換えられた言葉だったが、言葉の裏側には冷たい風が強く吹きつけているようだった。
リタが今度絵本を持ってくると言った。アイリはそれを楽しみだと言ったが、私にはアイリが絵本に興味を持っているようには聞こえなかった。そんなことより、他にもっと興味のあることがある——そう言いたげな表情をアイリはしていた。
その興味とはいったいなんなのか。
時々、アイリの視線は自然を装って私に向けられていた。ダークブラウンの瞳は私の肌を突き刺すようだった。私に疑問を直接投げかけることはせず、ただ、静かに目を向ける。
その視線の意味を、私は理解した。
——今はまだ「真実」を話す時ではないよ。
私はそう意思を込めてアイリを見つめ返した。多分伝わった、はずだ。せめてもの反応なのか、アイリはため息をついて、私から視線を反らした。アイリの首元に抱きついたリタは、赤茶色の髪の毛先を唇で咥えていた。
「電気、消そう」
動くことは億劫に感じたが、これ以上アイリの目を見ることは難しかった。私は立ち上がって壁のスイッチを弾いた。光は失せ、暗闇が私たちを包み込んだ。私は途端にひとりぼっちになったような錯覚に襲われた。すぐそこではリタとアイリの声がする。息遣いも聞こえる。決してそんなはずはないのに、どうしてか、そう思わずにはいられない。
私はふたりの手を取り、ぎゅっと強く握った。




