#1 新星、現る
日曜日の朝。
いつもなら平日のような喧騒もなく静かに始まる休日が、この日は少し勝手が違った。東京・国立競技場。まだ9時にもならないようなこの時間から、ざっと数百人以上の観客が集まっていた。
関東地方とはいえ、4月中旬の朝は多少の寒さが残る。ましてや、曇天であれば多少の厚着もしたくなるというものだ。そんな中でも、都心の一角にあるこの競技場には、朝早くから多くの観客と選手たちの家族が駆けつけ、熱気に溢れている。あと十数分もすれば、ピストルの音を合図に5,000m走の記録会が始まる。一般的には決してメジャーではないが、今後の陸上界を背負って立つ“金の卵”が誕生することも珍しくはない。観客席の中には、高校・大学・実業団の指導者たちが、スカウト目的に陣取っていることもある。最初の種目は女子5,000m。全国高校駅伝で活躍した高校生たちが、自らの記録を更新すべくトラックを駆け抜ける。折しも、この日は超高校級と呼ぶにふさわしい実力者達が集まっていた。
陸上競技の大会や、注目のランナーたちを紹介する「アスリート・マガジン社」のベテラン記者・平井も、先日の全国高校駅伝―京都で開催されることから別名「都大路」と呼ばれる―で活躍した注目選手目当てに、ホットの缶コーヒーを片手に記者席に陣取っていた。
「今日も片田の独走で終わりそうだな」
誰に言うでもなく平井がつぶやいた。片田というのは、都大路で見事区間新記録を樹立した姫路女学館高校のエース・片田美帆のことだった。高校2年生の春先から頭角を現し、すでに有力大学や実業団からの声もかかり始めているという。美帆以外の有力選手が、故障などで軒並み調子を落としていることもあり、彼女の独壇場になるであろう予測を立てているのは平井だけではなく、多くの報道関係者も同様だった。
午後からは男子の部がスタートする。男子の有力選手は卒業後多くが関東の大学に進み、箱根駅伝で鎬を削るのが定番化している。そういう意味では、すでに勝敗のある程度見当がつく女子の部よりも、男子の部に注目している記者は多い。記者席にいれば、競技終了後に結果が配布される。しかも、美帆は女子の最終組。しばらく時間がある。
(まぁ、まだ今日は長いし、ちょっとゆっくりしますか――)
そんなことを心の中でつぶやき、平井は煙草を吸うために記者席を立った。
午前9時40分。女子5,000mの部も、いよいよ美帆の走る最終組となった。
スタート3分前。平井が注目する美帆は、すでにスタートライン手前に陣取り、最後のストレッチをこなしていた。今回の大会で自分に注目が集まっていることは分かっていた。いつもは他校のエースが集うところだが、今回はめぼしい対抗馬が少ない。有利には違いないが、ここで無様な結果は見せたくはない。むしろ、標的は格上の大学生や実業団の選手だった。美帆の5,000mのベストタイムは15分30秒。近年の高校女子陸上界では飛びぬけて早いタイムといえる。傍らに集まっている他の選手には目もくれない。
「30秒前!」
スターターの声が響く。美帆は、頭に載せていたサングラスをかけ直すと前方を向いた。ここから先は己との勝負だ。都大路まではまだ半年以上あるが、最終学年として初のレースで、1位以外の結果は考えられなかった。自己ベスト更新。残り十数秒で、そのイメージを頭に刻む。
「位置について!」
スタートラインを、一瞬の静寂が包む。
パァン!
号砲を聞くや、美帆は勢いよく飛び出した。市街地を走るロードレースでは終盤でスパートすることが多いが、記録会のようなトラック種目では最初のうちに流れをつかみたい。この「飛び出し」には自信がある。最初のコーナーまでにぐんぐん加速し、先頭を取る。頭の中には成功のイメージがある。大きなストライドで両の足をどんどん前へと運ぶ。コースの内側を取って、コーナーを出たタイミングでさらに加速。それが美帆の戦略、のはずだった。
ところが、だ。いつもなら視界には選手は入ってこない。せいぜい、横にライバル校のエースがつく程度だ。今回はいささか勝手が違った。最初のコーナーを終えて直線に入った段階で、目の前に選手がいる。しかも、自分を超えるスピードで引き離しにかかろうとしているではないか。
誰、この選手…?
見覚えのない、緑色のユニフォーム。ひと回りは小さいであろうその体躯で、目いっぱい足を振り出して走っている。明らかに、初めて同じレースで走る選手だった。それにしても、だ。美帆は記録更新を狙うべく、自己ベスト以上のペースで走っているという自覚があった。その自分を上回るようなペースで序盤から飛ばすなんて! 最初だけ全速力で飛ばして、すぐ交代してしまうような冷やかしだろうか?それにしては走りに余裕がある…いずれにせよ後塵を拝している暇はない。後半オーバーペースとなる懸念が脳裏をかすめるが、そう言っていられる余裕はなさそうだ。美帆は更にスピードを上げる。
なんとか先を行くその背中に追いつき、横に並ぶ。状況はまったく飲み込めていないが、まずはこの化け物みたいなペースで走る選手の顔を見てみよう、と美帆は思った。くい、と視線を向けたその先には、信じられない姿があった。
背は150㎝そこそこだろうか。華奢で色白なその姿は、長距離の陸上選手とは思えなかった。ショートカットにする女子選手が多い中、長髪のポニーテールをなびかせ、足を大きく振り出すストライド走法でどんどんスピードを上げていく。何より美帆を驚かせたのは、ユニフォームに刻まれたその学校名だった。
「市ヶ尾南中」… 中学生だ!
今、まさに自分とトップを争い、いや、自己ベストを狙うといっている自分を置き去りにしようとしているこの選手が中学生だという事実を、美帆は全く吞み込めずにいた。ありえない! 一体、この子はどれだけのタイムでゴールするつもりなのか? そんな「異変」に、観客席のギャラリーもざわつき始めた。今後の女子陸上界のホープと呼ばれている美帆を差し置いて、先頭をひた走る選手がいること。その選手が、さらに差をつけて後続を引き離そうとしていること。にわかに信じられない光景に、観客は目を見張っていた。というよりは、もはやその選手から目を離せなくなっていたのだ。
暢気にも煙草を一服した後に、知人のスポーツ紙記者とひとしきり歓談していた先程の記者・平井は、そのスタンドのざわめきの正体を知らずに悠々と自席へと戻ってきた。
「ん、なんだぁ?」
”5,000mは片田の独走“という、代わり映えのしない見出しだけが頭に浮かんでいた平井は目を疑った。レース開始後数分というのに、先頭には美帆の姿がない。見慣れない小柄な選手が、美帆をもう数十メートルは離そうかという勢いで独走を始めているのだ。…どういうことだ? あれは誰だ? 一瞬のパニックの後、あわててジャケットの内ポケットに突っ込んでいたリストを開く。5,000m、女子10組。ゼッケン4番をつけたその選手をみて、平井もまた、驚きの表情を見せた。
「…冴島春奈。横浜市立市ヶ尾南中…中学生だって?」
普段、高校長距離を中心に取材をしている平井には、当然聞いたことのない名前だった。しかし、これだけの走りをする選手なら、誰かが知っていてもおかしくはない。傍らにいる他誌の記者に平井は問いかけた。
「あの選手知ってるか? 冴島っていう…」
「いいや。初耳だ」
興奮気味にまくし立てた平井だったが、その記者も首を捻るばかり。一体誰だ?平井、いや、会場全体から注がれる視線をよそに、その中学生―冴島春奈という―は、快調なペースで先頭をひた走っていた。
<To be continued.>
はじめまして、あんじょうなほみと申します。
数多くの小説の中から『いつか輝く星になれ』を選んでいただき、ありがとうございます。
この作品はスポーツをテーマにした作品の中でも珍しく「駅伝」を扱っています。
テレビなどで駅伝をよくご覧になる方も、初めて駅伝に触れる方も、
選手たちの息遣いやドラマを感じることのできる作品にしていきたいと思います。
主人公・冴島春奈がこれからどのような運命を辿るのか?
これからの展開も、ぜひご注目いただけると幸いです。(あんじょうなほみ)




