#98 ウイニングラン
春奈はコーナーのふくらみを利用して、一瞬後方を見た。留学生のうち、並走するガドゥニの他にニャンブラが春奈を追う。その加速の仕方は、まるで排気量の大きい車のようだ。ジワジワと追い上げるというよりも、一気にぐいと加速がかかったかのように一瞬で春奈たちに並んだ。そこまでは予測済だった。しかし、会場に響く実況が、予想外といわんばかりの声をあげる。
『冴島とワンジラを追うのはニャンブラ・ギタヒだけではありません! この大会ダークホースとも言われた宮城高校の鈴木葵がこの3人をジワジワと追い上げます! 鈴木は表情一つ変えません! 鈴木が追い上げています!』
視界の後方に見えた深緑のユニフォームが、徐々に大きくなる。明らかに、他の日本人選手とは違うエンジンを積んでいるようだ。遠目に、葵と視線が交差する。春奈は思わず目を見開いた。
(鈴木さん、この人…本気で来てる!)
すでに何度も戦っている相手だが、いつもとは目の色が違うように見えた。昨年までは記録会でも同じ集団で走っている選手ではなかった。春奈からすれば、この数ヶ月の間に一気に記録を伸ばしているように感じられる。
「なるほどね、だとすれば、うちの一美と同じような伸び方してるってことね」
みるほが提示した過去の葵の記録を見ながら、ひかるは手を顎に当てて唸った。2年生の秋以降、3,000mの記録は二次曲線的に一気に伸びている。しかし、画面を覗き込みながら、みるほは首をかしげた。
「でも、これだけの記録があるのに、全然騒がれないっていうのは…」
「共和大が強すぎるよね、やっぱり」
そういって、ひかるは反対側のスタンドにいるオレンジと青のジャージを眺める。陸上競技だけではない。仙台共和大学高校といえば、青森の山川学園と並ぶ高校スポーツの雄だ。長年のスポーツ強化の実績から、各部活の監督・コーチですらOBが続々と育ち、スカウティングでも他校に先んじて有力選手の誘致に成功している。それは、宮城高校が鈴木のような有力選手を擁しても全国高校駅伝への出場が敵わないことが証明していた。
「鈴木葵は、おそらくチームでは都大路に出れない…そうするとこの勝負にピークを合わせてきている可能性が高いし、今の走り見る限り相当いいところまで行くんじゃないかな…春奈が簡単に競り負けるとは思わないけど」
ひかるは、サングラスの奥の目を細めた。葵は春奈とガドゥニ、ニャンブラに追いつき、4人の先頭集団を形成している。
「くっ」
雨は次第に強さを増し、被っているキャップのひさしからは雨粒がぼとぼとと滴り落ちている。すぐ横を走るガドゥニは平然とペースを刻んでいる。そのすぐ後ろにはニャンブラと葵がつけている。いずれも、ペースを変えることなく黙々と前進しているように思えた。春奈は、一瞬後ろを振り向くと自らに語りかけるように念じた。
(まだ…まだ…ここじゃない、勝負はまだ先…)
『強い雨が降り続いている長崎県立総合運動公園陸上競技場ですが、女子3,000m決勝、優勝争いは事実上この4人に絞られました。先頭を行くのは秋田学院の冴島春奈、そして仙台共和大学高校のガドゥニ・ワンジラ。このふたりのすぐ後ろを鹿児島・桜島女子のニャンブラ・ギタヒと宮城高校の鈴木葵が追う展開です。解説の古瀬さん、間もなく残り1キロ、2.5周を残すところとなりますがこの後のレース、どのようにお考えになりますか?』
古瀬はよほどレインコートが蒸し暑いのか、大仰に汗を拭うしぐさをして答えた。
『思った以上に留学生ふたりのペースが上がってこないんですよねぇ…冴島選手はいいペースを保っているんですが、それ以上に』
『鈴木選手ですね?』
『はい。正直わたしもノーマークの選手ではあったんですが、このかなり速いペースの中でバテた様子もないですし、走りが安定していますよね。これはもしかすると、最後まで冴島選手についていくような展開もあるんじゃないかなと思いますよね』
そう言うと、古瀬は親指で眼鏡を押し上げてむむむ、と唸った。古瀬の言う通り、葵のペースは残り2周を切ったこのタイミングでも落ちる様子はない。それもそのはずだ。葵のインターハイに賭ける意気込みは春奈すら凌ぐほどのものだった。
創立100年を超える広大な敷地に建つ学舎に、大きな横断幕がなびく。
『祝・鈴木葵選手 全国高校総体出場!』
地元では文武両道の名門と呼ばれ、有名大学への合格者も多数輩出している宮城高校の中でも長きにわたる伝統を誇るのが陸上部だ。だが、近年は仙台共和大高に押され、全国大会への出場は叶うことはなかった。東北総体で入賞した葵の存在は、名門の復活を期待する面々にしてみれば希望の星そのものだ。出発前の全校朝会で大きな声援を浴びた葵は、自信に溢れた表情で断言していたのだった。
「共和大だけではなく、決勝に進むことができれば秋田学院の冴島春奈選手と戦うことができます。わたしは必ず決勝進出して、共和大に、そして冴島選手にも勝って日本一になりたいと思うので、応援をよろしくお願いします」
全校生徒の詰めかけた体育館は、大きな歓声に包まれた。
実況のアナウンサーの声が一段と大きくなる。
『さあ、間もなく残り1周を迎えるところです。ここまで先頭の4人は遅れることなく、一団となって進んでいますがそろそろこの中の誰かが仕掛けることになるでしょう。さぁ、このコーナーを抜けると最終周、この大激戦を制するのは一体誰でしょうか!?』
秋田学院陸上部寮では、さっきまで鳴り物で賑やかに応援していた1年生も画面に映し出される展開に釘付けになり、上級生たちと一緒に春奈の一挙手一投足を固唾をのんで見守っている。
「春奈先輩…!」
恵理子が心配そうに声を上げると、すぐ隣に立っていた沙佳が肩に手をかける。恵理子は、沙佳を見て頷くと大きな声をあげた。
「春奈先輩、ラスト1周ファイトです!」
「がんばれ、さえじ!」
「春奈、あと少しだよ! ファイト!」
恵理子の声をきっかけに、部員たちから口々に声援が起こる。部員たちの後ろで腕を組んでじっと戦況を見つめていたマサヨさんも、春奈が先頭で直線に入ってくるとごくりと喉を鳴らし、一言声を漏らす。
「春奈…ここから」
そう言いかけた瞬間、ラスト1周の鐘がなるそのわずか前のタイミングで、春奈が両手を開き、閉じるを繰り返す。
(…来る!)
マサヨさんがそう気づいた瞬間、春奈の身体がグッと前方に押し出されるように進む。全身の筋肉が躍動するかのように、その身体が跳ねるようにスピードを上げた。
カラン、カラン、カラン…
「「春奈、行け―!!」」
部員たちも一斉に声をかける。わずか一瞬、他の3人よりも早くにスパートを仕掛けた春奈は、徐々にその距離を広げていく。まるで、合図の鐘がウイニングランの始まりのようにすら感じられる。
『さぁラスト1周を迎えたところで、冴島が一気にスパートをかけました! 他の3人よりも仕掛けが一瞬早かったか! 今その距離が3メートル、4メートルとじわじわと広がっていきます! ワンジラとギタヒも懸命に冴島を追いますがその距離は縮むことは…あっ!?』
「「あっ!?」」
「…!」
逃げる春奈の後ろから、深緑のユニフォームが猛然と追い上げる。留学生ふたりを置き去りにすると、葵はピッタリと春奈の背中につく。会場からは悲鳴のような声が上がり、ひかるも目を見開いて無言でその様子を追う。
アナウンサーが、大きな声で叫んだ。
『残り1周最初のコーナーに入ってすぐ、冴島の後ろから宮城の鈴木が追いかけます! 冴島との差はぐっと縮まり、あと少しでバックストレッチに入っていきますが、もう少しで冴島の背中に…』
春奈は、後ろから迫りくる葵の気配に気づいていた。スタンドからは悲鳴にも似た声が上がっている。降りしきる雨のせいで、足音はバシャバシャと水を撥ねる音を伴って迫ってくる。その瞬間――
(今だ!)
コースが直線になった瞬間、春奈の身体は更に軽くなったようにも見えた。縮まりかけた葵との差はふたたび開き始め、葵が捉えたはずの背中はまたも小さくなってゆく。
「ううっ…!!」
『冴島、ここへ来てスパートの余力をさらに残していました! 追いすがる鈴木葵を置き去りにするかのように、最後のコーナーへと入っていきます! 現在タイムは8分40秒を過ぎました! このペースですと久々の8分台も生まれるかもしれません! 冴島が最後の最後で勢いを増しています!』
ふと、コーナーを出るタイミングで春奈はスタンドの方向に目をやった。ちょうど視線をあげたその先に、臙脂のジャージを纏ったみるほたちと、その横で手に持った資料を丸め、必死に腕を振り上げて声援を送るひかるの姿が見える。
(…ラスト!)
春奈はそう心の内で念じると、最後の直線に入っていった。
『最後の直線、逃げ切るのは冴島です! 時計は8分50、51、もう間違いないでしょう! 今冴島、両手を広げて笑顔でゴール! 記録は8分54ですが…後方の鈴木も猛スピードでゴールラインへと飛び込んできます! 鈴木が2位! 記録は…8分58秒! 大健闘の鈴木葵も8分台をマーク、これは素晴らしい記録です!』
お互いに頭から足の先まで雨でずぶ濡れになりながらも、春奈は葵がゴールしたのを見届けると笑顔で駆け寄った。汗と雨でぐちゃぐちゃになりながらも、疲労困憊といった様子の葵を春奈は笑顔で抱きとめた。
「ありがとうございました!」
葵は、笑顔で首を振った。
「さすが、全国ナンバーワンのランナーだね。スピードもそうだけど、あそこからあんなに力を残してるなんて…勝てる気がしなかった」
その言葉に、春奈も笑顔で応える。
「いいえ、すごいスピードでした…! 最後の最後まで、勝てるかどうか本当にわからなくて…また勝負したいです」
葵は少し寂しげに笑うと、春奈に手を差し出した。
「都大路で会えたらいいけど、共和大は一人じゃ勝てないから…でも、冴島さんともう一回走れるなら、わたしもまた頑張るよ。都大路で会えるよう頑張るね」
「…はい! ありがとうございました!」
そう言って葵と満面の笑みで握手を交わす姿は、翌日のスポーツ紙に大きく掲載されたのだった。
「いやあ、おめでとうございます、梁川先生」
「こちらこそ、素晴らしい試合だったと思いますわ、城之内先生」
スタンドでは、ひかるの元へ桜島女子を率いる城之内真司が握手を求めてやって来ていた。
「冴島さんは、お世辞抜きに見る度に強くなる。うちの選手たちにも見習わせたいところですよ」
ひかるは謙遜したように手を二度振ったが、表彰台に上って誇らしげな笑顔を浮かべる春奈を見て笑みを浮かべた。
「わたしは、本当に何もしていませんよ。春奈――冴島の今の結果は、本人が長所をひたすらに磨き、ウイークポイントを徹底的に潰していった結果。わたしが着任してからまだ4ヶ月も経っていないのに…彼女の成長は超人的だと思います」
その言葉に、城之内も笑みを浮かべて見守る。
「うちの選手たちも、本当に感心していましたよ。冴島さんは慢心がないと…普通ならあれだけの成績を残せば浮かれても良さそうなものですが、熱心に練習に取り組む姿が素晴らしいと…」
そこまで言うと、城之内はひかるの方へ向き直って言った。
「うちの選手たちも、秋田学院の皆さんと一緒に過ごせることを楽しみにしています。お互いにとって、実りある1週間となるといいですね」
「ええ、城之内先生。貴重な時間を共にするパートナーにご指名いただいて非常に光栄ですわ。わたし含め、日本一のチームに学ばさせていただきます」
ひかるは、そう言うと城之内に深々と頭を下げた。
<To be continued.>




